「文句なしの日本映画最底辺」カイジ ファイナルゲーム りょうたさんの映画レビュー(感想・評価)
文句なしの日本映画最底辺
試写会が当たり、公開前の作品を見ることができるのは本当に嬉しいことで、何よりもまず、交通費だけで映画を観れるのが大きい。誰よりも先に見ることで批評家やその他観客のレビューに影響を受けることなく評をまとめられるのも、影響を受けやすい自分には嬉しい。ただやはりネタバレには気をつけなければいけない。あくまでも自分は批評家ではなく、観客という自由な立場を利用しているだけの一般人であることを肝に銘じ、作品のヒットに貢献すべきだ…とは思う、それを試写会を主催している側も望んでいるはずだ。ただ、本当に言いたいことを言いたい時もある。今回がまさにそれだ。
「カイジ/ファイナルゲーム」。前作「〜人生奪回ゲーム」から通算で9年目の来年、満を辞して“ファイナル”と銘打ち公開される今作。本編上映前に行われた俳優陣と原作者・監督登壇による挨拶で、全員が各々の今作に対する意気込みを語っていた。“原作者によるオリジナルストーリー”“”“令和の始まりにふさわしい変わり目の作品”…スターがすぐ目の前にいるという特別な状況と、彼らの含む説得力によって、自分は今作に対して希望を持った。前二作がいくら賛否両論だろうと、9年だ。9年あれば人間も、演出も変わる。激動の2010年代最後、2020年代の始まりに、今にふさわしいテーマを含んで伊藤カイジが帰ってくる…!そうして自分は、付き合ってくれた友人とともに席に着いた。120分後…黙って会場から出て行く自分と友人…「先にイイところを挙げてみよう」と二人で駅に向かうなか考え込む…苦笑いで絶句する自分をよそに、ついに友人から絞り出された言葉は「ビールがうまそうだった」。
そう、そうとしか言えない映画なのだ。
まず今作の評を始める前に、自分の「カイジ」に対するスタンスを書いておきたい。まず、自分は福本伸行の原作を読んでいない。見ているのは前作・前々作の「〜人生逆転ゲーム」と「〜人生奪還ゲーム」のみだ。だから原作の良さは、読者の友人の感想を聞いたり、アメトーク!の特集で見たりした程度で、表面的なぼんやりした良さしか理解していない。ただ個々のゲームのクオリティや、心理戦のスリリングさ、それを構築する福本先生の才能に感服し、感心していた。ただそれらを劇場長編映画にする際に上手く表現できるかが、作者が漫画をどれだけ上手く作り上げているかとは、また違う話なのは言うまでもない。映画「カイジ」は、福本先生の構築した漫画的世界を現実の世界に持ち込む時、他の実写化の例に漏れず、デフォルメのデフォルメを、セリフ(内面ナレーション)のほぼ完全なトレースを嬉々としてやって見せた。藤原竜也と香川照之の顔の圧力、天海祐希という改変、変な切り取り方をして心情が読み取りにくいその他登場人物、薄い心理戦、盛り上がらない安い画…邦画が嫌煙される原因の集積のような一面のある作品であるが、今では藤原竜也の代表作の一つとなっている(金曜ロードショーでの地道な布教が効果を上げているのだろうか)。続く二作目も相変わらずな部分があるにはあるが、自分個人としては最後の大オチの現実的にはあり得ない大ボラが、なんだか大胆で捨てがたいとも思っていたりして、やはり総合的には上手くないが嫌いじゃない映画として落ち着いている。全体としては、佐藤東弥監督のTVドラマ出身ならではの安い演出が鼻につく映画だが、別に嫌いというわけではない作品だ。もうこれ以上はやらないだろうし、やれないだろう、限界だろうと思っていた。しかし、伊藤カイジは帰ってきた。必要もないのに。
今作の始まりは、意外や意外、かなり攻めた状況設定から始まる。2020年という年の一大行事が終わった近未来を舞台にした、一種のディストピアものの様相を呈すのだ。これは一見すると興味深い構造だ。前作までは地下に、街の裏側に広がっていたギャンブルとその結果の世界が、ついに地上で顕在化し、逆に地下に歓楽街が広がるという皮肉。実写版「カイジ」が二作続けて描いてきた要素を利用した、まさに現代的かつ直接的な表現で、「シン・ゴジラ」や「新聞記者」などに続いてメジャーな大作が日本の現状に批判的な目を向けたのかと、淡い希望を抱かせる(特に渋谷駅前のスクランブル交差点の描写はかなりいい)。しかしそれは、ただ“ぽい”だけだった。松尾スズキ演じる班長がカイジに接触して物語が動き始めた瞬間、それまでの5分間で徹底されていたディストピア演出は音を立てて崩れ始める。物価が上がり、ガソリンが高騰している世界。なのに、カイジの背後では一般車がバンバン走っていたり、福祉も削って行くような政府の現状が描かれるのに、ゴミの回収は続いているようで街は普通に綺麗だったり…と、開始時点で期待した自分が恥ずかしくなるほど、表面的で浅はかで安っぽい、細部への配慮のない描写が連発する。これは日本映画の悪癖の一つとも言える。スケールの大きな世界を描きたい、でも予算はない、でもやりたい。で、無理をする。結果全体に安っぽい、なんちゃって映像空間ができあがる。そんな安い映像表現については、今作はその集積みたいな作品であるからあげればキリがない。一作目における鉄骨渡りでの“雨問題”(服が濡れていないor急速に乾いている)は、今回ラストでまた見せられるし、貧民街表現が出てくるがその場所の地面に注目していると、気が遠くなるような矛盾が堂々とスクリーンに映る。今作の悪役は前作・前々作から明らかに大きく恐ろしい巨大な組織になっているはずなのに、現場で作業に当たったり、実際に悪事を行うのは幹部連中だという恐ろしすぎる人手の少なさ。金がない世界なのはわかるが、そこまで自分たちの手で事を進めていると、作品そのものの金も圧倒的に少ないことが透けて見えてしまう。地下空間(これも安くオタク蔑視的なブレードランナーもどき)やゲームを行う部屋のセットなど、作り込見たい部分にお金を使い過ぎてしまったのは明らかだ。
では、肝心の“オリジナルゲーム”はどうか。キャスト登壇で脚本兼任の福本先生を見てからこんな事を言うのは心苦しいが、これらがまず、心理ゲーム・カイジ的ゲームとして一切盛り上がらず、一切面白くもない。
細かく分けて4つのゲームが福本先生によって考案され、劇中に登場する。「バベルの塔」「ドリームジャンプ」「最後の審判「ゴールドジャンケン」。それぞれ聞こえはいいが、実際のゲーム風景を見るとそもそもの作りは雑もいいところだ。
例えばバベルの塔は、上にある景品をとるというシンプルな棒倒しみたいなゲームなのだが、それをやる場所の描写がまずい。高いところに登るというゲームをやるなら、普通周りに他に高い建物があったらまずい。なのに…。しかもそれに対してのカイジの戦略もおかしい。完全に物理法則を無視してしまっている。
他のゲームもすべてこんな感じ。ルールは御都合主義的で、物理を無視し、あまりにも運に頼っていて、作りが雑。書いているのも時間の無駄に思えてくるほどの馬鹿馬鹿しく呆気にとられる描写の連打。見ている間に文字通り頭を抱えたのは、今作が初めてだ。
流石にゲームの内容にまで踏み込むのはまずいのでここでは書かないでおく(公開後にまた別途文章を書いて憂さ晴らしする必要がありそうだ)が、少なくともシリーズ史上最も“笑うしかない”ゲーム場面群になっているのは保証する。
ただ、今作の「最後の審判」については書かなければいけないことがある。最終的な勝敗を観客へのアピール(ファンサービス)が左右する、観客参加型のゲームとしてこれが登場するが、ここでの観客の演出はさすが佐藤東弥監督と言わざるを得ない。観客席とプレイヤーの距離は約30センチ。その近距離で登場人物はかなりでかい声で罵り合う。こっちの方が善良、あっちの方が悪だ、とアピールするのにその状況では明らかに腹の底が見え透いてしまう。しかし、観客はあたかもそんなことは聞いていないような反応をし続け、悪役側に金をかけ続ける。これは作り手側の観客蔑視が現れた最低の演出だ。彼らにとって、観客(今作を見に来る人たち)は表面的な魅力(キャストや「カイジ」と言うネームバリュー)に惹かれてただ考えなしに金を払う馬鹿でしかない。前作までは一般人はあまり登場せず、出てくる観客はクズばかりだったが、今作は舞台の転換が起きているために観客も全員一般人、つまり自分たちのような映画を見に来ている人と同じ立場の人物がほとんどになった。そこにその演出である。これがもし意図したものだとしても、意図せずしたものだとしても、作り手側の偏見と頭の悪さを露呈している最低の演出であることは変わらない。民意を問うような事態が頻発し、あらゆる面で転換期になるであろう令和元年の今年、その民を馬鹿にする映画を作った佐藤東弥と脚本を書いた福本伸行と徳永友一。薄い政権批判をしたりしながら、結果そうした蔑視を露呈させた彼ら作り手は、今の日本映画の負の面を象徴するクズの集まりだ。
役者陣も実力があるはずの人たちが集まっているのに、例外なく圧倒的な量の台詞と馬鹿な展開の犠牲になっている。すべて想定内のように語りながら作戦が雑な藤原竜也、信念ある悪(福士蒼汰本人談)っぽいのにやる事が雑な福士蒼汰、観客の前で大声で観客の悪口を言う吉田鋼太郎、ただバカなだけの秘書・新田真剣佑、存在そのものが一切の必要性を帯びていない関水渚。特に関水さんの役は本当に要らない。ここまで表面的で薄っぺらい人間が出ている映画も珍しい。あのキャラクターの台詞は全てカット出来るものだし、役割だって何かを預かっている事くらいしかできない能無しっぷり。彼女が大阪でのゲームに生き残ったのを説明する映像の血の気が引くドラマっぽいチープな演出も酷いが、もっと凄いのは彼女が“ラッキーガール”として紹介されている点だ。劇中でもただ運が良かっただけの女として名乗るし、思われる人物が、物語上一切役に立たない。つまりこれは、「カイジ」の作品世界内においては“運”は糞の役にも立たない、ということか?だとしたら、運任せの作戦で構成された今作にとってこれ以上の皮肉はない。関水さんにとって今作への出演は、絶対にマイナス面が大きかったはずだ。藤原竜也も福士蒼汰も新田真剣佑も、作品を選べる立場にいるはずなのにこれだ。
テーマ性最低、ゲームの魅力も最低、キャストのアンサンブルも最低、何よりも脚本と演出が最低。2010年代の終わりに、日本映画からここまでの駄作が出てくるとは到底信じられない。年明けの映画館が、今作に1800円払って見にくる観客で溢れている様を想像すると、血の気が引く。観客を馬鹿にしている作品を見て「楽しかった」と言えるとは、本当におめでたいし、本当にまずい。
ぶっちぎりの2019年邦画ワースト作品。「デビルマン」の再来、「ガッチャマン」の二の舞と言ってもいい、犯罪的作品。
さらば、カイジ。もう二度と戻ってくるな。
追記:
藤原竜也の“椅子の場面”は面白かった。
詳しくは年明けに書くつもりだが、見てくれれば自分が言う酷さがわかるはずだ…いや、見に行かないでくれ、1800円の無駄だ。レンタルが開始されてから?100円でも今作をもう一度見るのはごめんだ。
この主さんはつまらない映画のみ、0点つけてるようですが、残念ながら、ここのシステムは0点イコール評価なし、つまり総合点には反映されてないようです