「河瀬作品には珍しく、辻村深月による同名小説が原作(未読)。 201...」朝が来る りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
河瀬作品には珍しく、辻村深月による同名小説が原作(未読)。 201...
河瀬作品には珍しく、辻村深月による同名小説が原作(未読)。
2016年には、東海テレビによってドラマ化されているが、これも未見。
清和(井浦新)と佐都子(永作博美)の栗原夫妻には、朝斗(佐藤令旺)という幼稚園児の息子がいる。
清和と佐都子は長年、不妊治療を行ってきたが、清和が無精子症であることが判明し、高度な医療技術を試みても、ふたりの間に子を生すことはできなかった。
そんなふたりの間の息子・朝斗は、特別養子縁組で得た子どもだった。
幸せな生活を送っていた栗原家に、ある日、生みの母・片倉ひかりを名乗る女性から電話がかかってくる。
「子どもを返してほしい、それが駄目ならお金をください」と。
しかし、ふたりが知る片倉ひかり(蒔田彩珠)は、中学生の少女だったが、現れたのは似ても似つかぬ姿の女性だった・・・
という物語で、ふたりの前に現れた女性が本当に生みの母の女性なのか、別人ならば誰か、ひかりならば何故彼女は変わってしまったのか、というあたりがミステリー的な要素。
映画は一週間かそこいらの短い現在時制を中心としているが、そこに3つの過去の物語を挿入していきます。
ひとつ目は、栗原夫妻の不妊治療の苦闘と、特別養子縁組で子どもを手にするまで。
ふたつ目は、奈良の田舎の中学で同級生と恋に落ちたひかりが、子どもを産み、子どもを手放すまで。
みっつ目は、子どもを手放したひかりのその後。
ということで、こう書くと、栗原夫妻の前に現れた女性がひかりだとわかってしまうが、みっつ目の過去シーンで、「もしかしたら、こいつがひかりになりすましているのでは?」と思わせるような女性も登場します。
ただし、小説としてのミステリーならば、ひかり本人かどうか、というのは興味をひっぱる要素であるけれども、映画的には、その要素は余計な感じで、ふたりのもとを訪ねてきた女性の横顔を先にチラリと見せて、「なぜ変わってしまったか」だけに焦点をあてるほうがわかりやすかったでしょう。
興味深かったのは、夫妻の不妊治療のエピソードと、妊娠したひかりが両親の紹介で、特別養子縁組を斡旋するNGO施設で共同生活をするエピソード。
不妊治療のエピソードでは、是が非でも子どもを欲しいふたりの気持ちと、無理とわかった時の諦め、そして、特別養子縁組でみえてくる希望が、井浦新と永作博美のふたりをとおして切実に感じましたし、出産まで過ごす施設では、出産後に育てられないとわかっている無念さをもつひかりと、それとは逆に望まぬ妊娠をしてしまい、早くせいせいしたいと思っている女性たちとの対比が興味深かったです。
河瀬演出は、風景による心情の代弁と、逆光や単焦点で映し出される人物描写で、目にみえない内面を観る側に想像させるという手法をとっています。
が、全編が同じ調子なので、映画でかなりの尺がとられている、ひかりの恋愛描写や出産後のひかりの行動は、あまり目新しいところがなく、演出でのメリハリが効いておらず、かえってまだるっこしくなったところも多かったように感じました。
養子縁組では、養子にその事実が告げられているのかどうかもひとつの重要なキーとなることが多いのですが、この映画では、斡旋するNGOが本人への告知を斡旋の条件として挙げています。
朝斗本人もそのことは理解しており、それがエンディングでの泣かせる一言へつながるのですが、現在のシーンを描く早い段階で、観客にもわかるように描いていたほうがよかったかもしれません。
現在シーンでは、朝斗が幼稚園の友だちを遊具から突き落とした/落としていない、というエピソードが描かれるのですが、その中で、ちらりと養子バイアス(偏見)のようなものを織り込むなどで。
と、いくつか不満な点もあるのですが、2時間20分ちかい長尺を見せ切るのですから、力作といえるでしょう。
俳優陣では、井浦新と永作博美のふたりが素晴らしいですが、NGOを主宰者役の浅田美代子の存在感も特筆。
ひかり役の蒔田彩珠も力演ですが、びっくりしたのは、彼女が『萌の朱雀』でデビューした頃の尾野真千子にそっくりなこと。
監督の役者に対する嗜好は、あまり変わらないということでしょうか。