「隣人という異世界」隣の影 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
隣人という異世界
犯罪の報道では、近隣住民が、取材される。
そのとき、かならず出てくるのが(その犯人が)挨拶をしたか・しなかったか、である。
「きさくに挨拶をしてくれるひとで、(ニュースをきいて)びっくりしている」とか。
「たまに会っても、ろくに挨拶もしないようなひとでした」とか・・・。
これが何を意味しているかというと──それほど知らない人、隣人のような者たちにとって、その人の価値は、挨拶をするか・しないかに集約される、ということだ。
個人主義な傾向のある現代人の暮らしは、ごくせまい家族・知友たちとの立脚地を抜け出せば、厖大な他人に囲まれている。
現代は長屋のような相識性もないし、都市部なら自治体もない。
──ならば、挨拶をするか・しないかは、ほぼ社会における、わたし/あなたの価値と言えるもの──ではなかろうか。
その判定に不満を言えるだろうか?
しかしこれには大きな矛盾がある。
アパートで、隣人とうかつに会話を交わすのは、適切ではないからだ。きょうび隣人だからといって、男が女に、いきなりこんにちはと言ったら通報されるおそれだってある。常識である。
わたしのアパートの両隣にも、階上下にも、知らないひとが住んでいる。
わたしは、挨拶を(ほとんど)交わしたことがなく、挨拶をしそうな接近があれば、避けたり逃げたりする。
きっと、わたしが何かで捕まれば、近隣住民は記者にたいして「なんか人目をさけるような感じで、ろくに挨拶もしないひとでした」と答える、にちがいない。
しかし、じぶんは、フレンドリーではないが、偏屈というわけでもない。
わたしは中産よりも低い階級で、住宅地や、高級マンションのコミュニティとか──のことは解らないが、低層階級で賃貸に暮らす庶民ならば「なんか人目をさけるような感じで、ろくに挨拶もしない」態度は、すこしも珍しい態度でははない。
たいていのアパート生活者にとって隣人と仲良くなるなんて絵空事である。面識することさえ、億劫なものだ。
それゆえ犯罪の報道で、近隣住民が、挨拶したとか、しなかったとか、言っているのを見るたび、わたしは「ああ、おれ犯罪者だわ」と思うのである。
ところでアパートや賃貸ならば、まだ逃げ道がある。隣人が嫌なら、最終的には引っ越せばいいからだ。
しかし持ち家となれば、そうそう動けない。まして建てたなら、もう動けない。近隣は、その資性しだいでは、生涯の動かざる厄災になりうる。
そんな映画。
隣人トラブルが、殺し合いに発展する様子が描かれている。
じぶんにそれは起こりえない、としても、そういうことがある──のは理解できる。
概説としてはブラックコメディとなっているが、映画にコメディ要素はない。
コメディ要素はないが、過剰はある。たとえば、昔の浮気相手とやっているところを撮影した動画でぬいている夫──が出てくる。そのぬいているところを、妻に見つかって、別居→離婚へ発展する。コミカルというよりバカっぽいが、なんとなくこんな奴もいるだろうという感じはあった。
他人がやることが全く理解不能なばあいがある。とくに隣人のやることは、全く理解不能である。人より引っ越しをしてきたわたしはよく知っている。隣人というものは、かならず、まったく予想もつかないことをする。なんていうか、そういうもの──なのである。
映画では、その断絶が描かれている。隣人のトラブルは、人種とも、人間の気性にも関係がない。「となりはなにをするひとぞ」は、その環境を持っている生活者の消えない命題である。