名もなき生涯のレビュー・感想・評価
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キリスト教を純粋に信心する人は主人公の気持ちがよく理解できるのだろ...
キリスト教を純粋に信心する人は主人公の気持ちがよく理解できるのだろうか?
主人公の妻の父も「殺すより殺される方をとる」考え。
ある程度信念を貫いても、自分の生命が掛かると私には自信が無い。
主人公がドイツ人では無く、オーストリア人というのも、「ハイルヒトラー」と見せかけだけでも言えなかった要因かと。
拘置所に入った背景や主人公の心の中は違うが、中居正広&仲間由紀恵夫婦の「私は貝になりたい」を思い出した。人を殺さないではなく殺せない、殺さなかった男がいい加減な裁判?で死刑と判定。
それまでの生活が戦争と全く繋がらない生活。アルプスの大自然で作物や家畜を育て家族仲良く暮らす。町の床屋で平和に暮らす。
戦争さえ無ければ、どちらの主人公も戦死ではなく、死刑で処刑される事はなかった。
改めて戦争にはゾッとする。
処刑の仕方にもいまだに?と感じた。首を離す処刑は日本では明治になって暫くしてやめられた、と目にした。あの処刑場は想像するのは
恐い。
景色が綺麗すぎるのに対比して、信念を貫く主人公を取り巻く現実のむごさがわかる。実在の方というのが虚しい。
名もなき尊き生涯を
『シン・レッド・ライン』で美しい大自然の中で繰り広げられる人間たちの愚かな争いを描いていたが、本作はテレンス・マリック監督作の中で最も悲惨な物語と言えるだろう。
であると同時に、揺るぎない信念を貫いた物語…。
実在の人物と、彼の36年という短い生涯に基づく。
今でこそ彼の行いは称えられているが、当時はそうではなかった。寧ろ、周囲から見れば“裏切り者”であった。
高名でも著名でもない。“名もなき人物”。
フランツ・イェーガーシュテッター。
オーストリアの自然に囲まれた村で暮らす農夫。
妻と3人の娘、農業の仕事も黙々とこなし、平凡ながらも穏やかで満ち足りた日々。
それが終わりを告げる…。
オーストリアがナチス・ドイツに併合。国や村人たちもヒトラーに忠誠を誓う。
そんな中、フランツは一人、忠誠を拒む。
国中の人々が戦争に駆り出される。
フランツは兵役も拒否。
この当時、それが何を意味するか…。
今はヒトラーとナチス・ドイツの悪しき行いに対し、声を上げて否を唱えられる。
が、当時は…。ナチスと戦争という病に侵されていた当時は、それに従順する事が“正しかった”。
本当に歴史というものは不条理だ。当時は多くがそれに従い、時が流れ、今はそれが間違いだったと手のひらを返す。
当時からそれを訴える事は出来なかったのか…?
いや、出来た。揺るぎない信念があれば。
フランツは破壊や殺しが称えられる戦争に対し、疑念を持つ。
本当にそれが称えられる事なのか…? 栄誉な事なのか…? 破壊や殺しが。
そうである筈がない。間違っている。
誰に教わった訳でもない。自分自身で考え、そう信じる。
当時、誰もそうしなかった事を。
メル・ギブソン監督×アンドリュー・ガーフィールド主演で実在の医療兵を描いた『ハクソー・リッジ』を思い出した。
あちらは宗教の教えから他者を傷付ける銃すら持つ事を拒み、仲間や上官から蔑まされ、軍法会議に掛けられながらも、自分の信念を貫き通し、戦場で敵味方関係なく救出に奔走し、戦後英雄として称えられた。
似通っているが、決定的に違うのは、末路…。
もし、自分だったら…?
周囲に流されず、己の信念を貫けるか…?
無理だ。間違っている事に疑問を持ちながらも、それを言動にする勇気など無い。私はチキンなのだ。
きっと私も、愚かにも周囲に流されている連中と同類なのだろう。
皆と違う考えを持つ者は、いつだって疎外される。
村人たちの偏見、差別、迫害、蔑み、冷たい仕打ち…。言わば、村八分だ。
「お前は敵より悪質。裏切り者」
兵役を拒否していたが、徴兵される。しかしそこでも、自分の信念を貫く。
投獄、尋問、暴行、拷問…。生き地獄だ。
さらには裁判に掛けられ、最期は…。
フランツだけじゃない。村に残してきた妻や娘たちにも…!
嗚呼、時に人は、何て醜く愚かなのだろう。
今、この輩に問いたい。自分たちのした事は誇れるほど正しかったのか、と。
名もなき人物の生涯だが、フランツと妻のやり取りしていた手紙を基に構成。
夫はナチスによって投獄。つまりそれは…。
夫は獄中から妻を想う。
妻は村で夫を案じる。
それらが交錯。
処刑の前、最期の面会。
妥協すれば減刑もあり得る。しかし夫は信念を曲げない。
そんな夫に妻が掛けた最後の言葉が、この夫婦の絆を表した。
「正義を貫いて」
二人共、覚悟の上なのだ。
体現したアウグスト・ディールとバレリー・パフナーはもはや演じているのではなく、そこに生き、営んでいた。
そこまで信念を貫く事なのか…?
何処か何かを妥協すれば、この結末にはならなかったかもしれない。
自らも残された家族の苦しみ悲しみも和らげたかもしれない。
だが信念とは、如何なる時でも自分自身を偽らない。
どんなに不器用で、どんなに悲しい結末が目に見えててもいい。
自分を信じなかったら、自分じゃなくなる。
普通に撮ったら、悲しみや感動など激しく感情を揺さぶるものに。
が、本作の監督はテレンス・マリック。
詩的な映像、音楽、語りで、感情に訴えるのではなく、感情に委ねる。
難解で長尺が多く、人によっては全くハマらず、ただのヒーリング映像にも思えるだろう。
他の監督とは一線を画す作風、一貫したスタイル。監督自身も己を曲げない信念の持ち主だ。
時々崇高過ぎて、ついていけない作品もある。
初期の『天国の日々』や『シン・レッド・ライン』は勿論、『ツリー・オブ・ライフ』には圧倒された。寡黙な作家で知られるが、近年は突如のハイペース。ちょっと興味を惹かれない作品やまだ見てない作品もある中、本作は惹かれた。
紛う事なきテレンス・マリック作品。圧倒的な映像美、荘厳な音楽隊、哲学的な語りには、いつもいつも監督の深淵を覗いた気がする。
エンディングの文が胸を打つ。
本当にそうだ。素晴らしき事を訴えているが、ごくありふれた事だ。
伝説の監督とも呼ばれるテレンス・マリックだが、その思いや営みは我々と同じ事を願っている。
名もなき尊き生涯を。
集団の恐ろしさ…
ナチス支配下に置かれたオーストリア。農夫フランツは徴兵されるが敬虔なクリスチャンであり、殺し合う戦争に行くことを嫌い、拒否する。その村の神父でさえ、ナチスに怯え、徴兵に行くことを勧めるが、断固拒否。やがて収監され、反逆罪となる。残された妻や3人の幼子は村で暮らすが、戦争に行かなかったことで村八分にあう。戦争という暗い影のせいではあるが、この村人達の集団心理が最も恐ろしい。個人よりも、国家、集団が優先され、そこを外れたものには容赦ない仕打ち。ヒトラーに服従するサインをすれば、自由になるが、フランツはそもそも自由だと、手足を縛られるより心を縛られたくないという強い信念をもって、遂に死刑となってしまう。妻もサインしてとも言わず、彼の信念をおかすことはせず、尊重する。この映画とにかく長い。会話がほとんどなく、それぞれの呟き、心の声が静かに響き、余計に孤独感、苦しいほど時間がゆっくりと流れていく。私なら家族のために、自分のために信念を曲げて、「生」をとる。しかし、エピローグの、歴史に刻まれない、こういう名もなき人のお陰で、世の中が悪くなるのを少しでも食い止めているのだろう。
不服従を貫いた、ある農夫の人生を格調高く描く
ドイツに併合されたオーストリア。
ヒトラーへの服従を死ぬまで拒み続けた名も無き農夫、フランツ。
周りは言う。家族や村や立場ある者のことを考えろと。
権力側は問う。お前が死んでも世の中は何も変わらないと。
フランツのなかにはそんな驕りは何もない。
自分が悪だと思う者に対して、ただ自分の心に背くことができないだけ。
かしこくなれ、と人は言う。
では自分の心に忠実なのはいつも権力側になってしまい、弱者はいつも狡い生き方をしなければならなくなってしまう。
それでいいのだろうか?
仮に忠告を受け入れ生き延びたとして、彼は自分自身を一生許せないだろう。
彼の目に映る世界は美しく、自然の中に神が宿るという感覚がマリックによって研ぎ澄まされ、没入感たっぷりに観客を誘う。土や干し草の匂い、竈の炎の熱さやパンの香り。露草と朝もやの湿気まで感じられるようで、日々の営みへの愛おしさを募らせる。そして問う。ただ単に愛する者と自然とともにつつましく生きたいだけなのに、なぜそれが許されないのだろうかと。
善と悪はいつの時代も曖昧で、ある日突然、価値観は逆転する。
どうして人は無辜の人まで服従させようとするのだろうか。
コロナ下の現代と重なる。
「感染したら誰かを殺すことになる。お前の体がどうなっても知りはしない。周りのためにワクチンを打て」という同調圧力、「○○の家族が感染した。この町から出ていけ」という陽性者叩き。
フランツの住む村の村人たちのように、いつの時代も自分の保身しか考えていない人が多勢の中で、孤立を恐れず、死を賭してまでヒトラーへの不服従を貫いた彼の勇気と、それを受け入れる妻ファニの信念に心打たれました。
誰しもが戦争を好んでいるはずがない。
ならば勇気をもって戦争に不服従を貫けば、庶民の数で公僕を圧倒できるはずなのに、大多数の人は易きに流れてしまう。
ラストに引用されていたジョージ・エリオットの言葉、「世界は名も無き人々の知られざる善意によって守られている」というように、このように映画となって狡くて弱い人間ばかりじゃないことが後世に伝えられ、心に少しでも残り救いとなることで「世界は酷くならない」のだと思う。
本物の英雄とは…と考えさせられる。
神の沈黙、聖書の善悪、カミュ、フーコー、ハンナアーレンと、かなり哲学的
ナチスドイツの勢力下にある町でみんなが出兵していくなか、それでも一人だけ頑なにヒトラーに忠誠を誓うことを拒み続け、家族や自分が周りから酷い扱いを受け、やがて捕まり、一度忠誠を誓えばそれで助かる状況下に置かれながらもそれを拒み死を選んだ男の話。
前半はわかるのだが、後半は窮地に立たされすぎて自分なら完全に根負けしている。
彼は死刑になるか解放されるかの瀬戸際に立たされた際、殆どのナチス側の人間から
「一回言えばいいだけだから、こんなんは口約束だから!今だけだから!」
と言われる。
ここでわかるのはナチス側の人間もヒトラーを完全に崇拝していたり信仰している訳ではなく、権力構造上しかたなしにヒトラーと「契約」を交わしている訳だ。
彼らはその際、主人公の神や善を否定している訳だが、どちらかというとそんな彼らの方が現代のニヒリズムやらシニシズムやらリアリズムやらの思想や思考に近いのではないかと思う。
そこがこの映画を日本人に難解なものにさせる。
テレンスマリックの映画は敬虔なクリスチャン的な西洋思想に根付いているので、日本人には分かりづらい描写や思想、思考が多く見られんじゃないかなぁと常々思っているのだが。特にこの映画はそうだ。
なぜならこれはベルイマン、タルコフスキーなどが描いてきた神の沈黙や聖書における善悪についての映画なのだ。
別監督の作品になるが、一番似てるなぁと思ったのがマーティンスコセッシの「沈黙」。
沈黙では敬虔なクリスチャンの司祭が日本で酷い罰を受け、一番位の高い自分が神を否定しないばかりに仲間を次々に殺されていく絶望を描いているのだが、そこでも日本人側から出てきた言葉が
「一回言えばいいだけだから、こんなんは口約束だから!今だけだから!」
と構造上のみの表面的な契約を何度も懇願する。
そしてこれを言わないばかりに犠牲になるのは周りの人間である。最終的に沢山の人間が犠牲になる。
西洋思想に疎かった自分からしてみれば、「はよ、妥協してまえよ!周りも口でだけ言えばいいって言ってんじゃん!一回言うだけだよ、それで周りの大切な人もお前も助かるんだよ!」と思いながらみていた。
なぜ彼はギリギリまで契約を交わさなかったのか。
ここで西洋の善と悪について「ダークナイト」を例にとる。
ダークナイトのジョーカーはサタンそのものである。
彼はあらゆる誘惑を用いて人を悪の道に陥れようとする。彼の「文明人なんてのは顔の皮一枚剥がせば野蛮人そのものさ。極限状態に陥れば、平気で醜いことをする」というセリフはサタンの思想そのもので、サタンというのは人間に絶望的なシチュエーションを用意して、君が俺と契約を交わせば君は助かるよ、と囁く。
ここで彼と契約を交わしたハービーデントは「ツーフェイス」という化け物に変貌していった。
ここで大事なのが「契約」を交わせば自分自身が気づかない間に化け物に変貌してしまうということ。
表面上でもなんでも、口先だけでも「契約」を交わしてしまうと、自分の心の中に「サタン」が漬け込んで気づかない間に自分も化物のような行動に出てしまうという恐ろしさを物語っている。日本的にいうと「言霊」がその人の人格を形成してしまうということに似ていると思う。
だから敬虔なカトリックというのはあれほどまでにストイックなのだ。「神の沈黙」というすべての苦難は神からの試練であるという考えも究極のマザヒズム的なストイックさだ。その厳しさと神との葛藤や憎しみなどがタルコフスキーやベルイマン作品の根幹にある。
だから彼らは折れない。(沈黙は折れちゃうけどね。)
そういう意味で本作の主人公は、ダークナイトのバッドマン(ジョーカーを殺さない)やハクソー・リッジの主人公(戦争で人を殺さない)のようにヒーローそのものであるのだ。生き方を曲げないことこそが善であることを体現している。たしかに、キリスト教が正しいとは全き思えないが、彼のように折れない人間が少数でもいてくれて抵抗してくれたお陰で悲劇は収束したのだろうし、彼のような精神が多くの人の心に根付いていたのならそもそも悲劇は起きなかったのではないかとも思う。
(ここで宗教の重要性とは個々人の道徳性の向上であり、現代も全く不必要なものではないどころか誰もが持つべきものだあることが理解できる)
不条理を受け入れながら死んでいくのは、カミュやサルトルなどの実存主義の思想に底通しているかのように思う。(実存主義自体ナチスの影響で現れた思想だし)
更にここではナチス側の登場人物自体が悪人という勧善懲悪として描かれておらず、システムや権力構造が悪を生み出すこと、それに飲み込まれた「普通の人々」が化物に変貌していったことが悲劇を産んだことも作品の中で誠実に描かれている。
これもフーコーの構造や監視が悪を孕むという思想や、ハンナアーレントの普通の人々が狂気に走る全体主義の構造についての思想に通じると思う。
上記より気がついたことは、聖書の思想というのは西洋のあらゆる哲学やら思想に深く深く根付いているのだなぁということ。そして映画というのはそれらの正しい使い方を教えてくれるということ。
見事に西洋思想について含蓄のある作品となっている。
1943年8月9日
実話に基づく映画。
オーストリアの小さな農村での話。
ひとりレジスタンス。
頑固一徹。
常人では真似もできない。
神父は同情しつつも、やめなさいと。
司祭に相談もしてくれる。
司祭もナチスには逆らえないと。
地位ある聖職者よりも彼が敬虔なのはそれでよくわかったのですけど。
かみさんはことあるごとに神父様に相談に行く。
なんだか、寅さんのさくらが御前様に相談に行くみたいな感じだが、重さが全然違う。
だけど、こうしたピュアな抵抗だけが世の中が悪い方に行かないためのブレーキになるんだよという結論を映画は最後に示した。
なるほどとは思う。
インドのガンジーみたいな組織はないので完全にひとりでレジスタンスを貫き通すのだ。
それはね、ロックな生き方なんです。
それは天涯孤独のやくざでもないとやれない。
普通の人はやっちいけないんじゃないか?とおもうんです。
かみさんが村で村八分にされても、ひたすら耐える。未婚の姉、母親も頑張る。小さな3人の娘は無邪気そのもの。とても、かみさんひとりじゃもたない。
不謹慎を承知で言いますが、
その前に「初恋」見たんです。
主人公が窪田正孝に見えたんです。
かみさんが、尾野真千子に見えたんです。
でも、長かったですね。
ほっぺたを何度もつねりました。
いびきをかいたりして、まわりの方に迷惑かけられない。それは私なりの正義です。
1943年当時のドイツは召集礼状に拒否するオーストリア人に対しても人権を尊重する手順を何段階も踏んでいたことが詳細に描かれます。本当か?とは思いましたが、やはり、ゲーテを産んだ国ですので、信用しました。
終戦間際のゴタゴタでは無理でしょう。まだドイツが余裕があった頃なのでしょう。
彼の覚悟と信念をさらに際立たせるものではありましたが、死刑確定の書類が村のかみさんに送られたあと、かみさんがベルリンに行き、刑の執行当日に立ち会う際にも、本人がヒトラー政権に命乞いをすれば、釈放されるチャンスを与えられたのに、頑なに固辞し、かみさんも本人の意思を尊重してしまう。それほどわかりあっている夫婦に脱帽するしかありませんでした。
かみさんに頼まれて同行し、なんとかならないかと、説得した神父さんも最後には脱力してしまうのです。
私はエンドロールが流れている時にも
終戦になったから、刑は中止になるんじゃないかと思って待ちました。
1945年の話かと勘違いしていたためでもあります。
ただ、ちょっと嫌~なシーンが前にありました。村の共同施設の水車小屋があり、小麦を粉にするのですが、水車小屋のおじさんが小麦をおまけして、持ってきた量よりも増やして持たせてあげるのです。かみさんが未亡人になったら、うまいことしょうと思っている雰囲気の男なのです。そんな男が村にはわんさかいたかもしれない。
もし、かみさんが、そんな女だったらと疑ってしまうときりがありません。
わたくしごとではありますが、遺族年金入るからオーケー🆗👌よ
なんて思っていたら・・・・
これはもしかして、ホラー映画かなと思ったのでありました。
『サウンド・オブ・ミュージック』のパラレルワールド
一般的な日本人には(少なくとも私には)実感的な理解が及ばないほど信仰心が厚いピュアな夫婦の精神世界の物語(作中、夫は肉体的には亡くなるけれど、メインテーマはそこではないという意味です)。
名前からしてフランツ、たぶん中世イタリアの聖人、アッシジのフランチェスコのドイツ語読みなのではないでしょうか。イタリア旅行を計画したことのある人ならば、サンマリノ共和国の南に位置するアッシジといえば、ああそういえば、と思い出す人もいると思います。といっても〝清貧〟というイメージしか知らないので、何をもって聖人に列せられたのか私はよく知りません😅
アメリカのサンフランシスコという地名もここに由来していると思うので、キリスト教世界の聖人番付(不謹慎な言い回しで怪しからん‼️と怒られそうですが)でもトップクラスの方であることは間違いないと思います。
そういう聖人にも擬せられるほど気高い、名もなき人、という前提でもないと私のような世俗的な人間にはラスト近くのあの場面で、妻が『正義を貫いて!』などと言うのが理解できないのです。もし、私があの場面で妻の立場にいたら、絶対こう言います。
子供たちのために、兵役拒否を撤回して生きていて‼️(その後の戦争でどうなるのかは別問題)
神様だって許してくれるわ、これだけ頑張ってきたのだもの。
正直、〝殉教〟という概念は、私にとっては、『サイレンス 沈黙』のようなドラマの中での話であって、現実的に存在するということがうまく受け止めることができません。
市井の〝名もなき人たちが世の中を支えている〟ことについては、クリント・イーストウッド監督がこれまで何度も鮮やかに描いているので、その点もつい比べてしまいました。
ところで、時代背景的には、ほぼ同じ時期に『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ大佐とマリアとその一家は、ナチの傀儡となったオーストリアの官憲達からアルプスを超えて逃げることに成功していたことになりますよね。
アルプスの稜線、爽やかな風が吹き抜ける草原、その風に乗って届く鐘の音。自然はいつもと同じように季節を巡らせる、というフレーズがとても印象的でした。
鐘の音は人々の心に届くか
ラスト2分で全てが救われる映画。
'For the growing good of the world is partly dependent on unhistoric acts; and that things are not so ill with you and me as they might have been, is half owing to the number who lived faithfully a hidden life, and rest in unvisited tombs.'
ジョージエリオット著 ミドルマーチより
目を見張る美しい風景のカットが、あまりに短くて、おまけに手持ちカットも多いのが、少し見辛さがある。
なんならこの風景の中農作業するだけのドキュメンタリー映画1時間バージョンみてみたい。
彼らには敬意と感謝
ニッショーホールにて試写会鑑賞。
実話ベースということもあり、またエンドロールでもあったように彼らの様な世間に知られることなく、正義を貫き命を落とした者の存在があるからこそ、今は当たり前にある正義や平和といったものが存在しているんだと改めて実感させられた。その実感と同時にやはり彼らには敬意を表する気持ちになる。本当にありがとう。
映画作品としてはマリック監督らしい会話が少なく、詩的な言葉や背景描写が多く時折退屈に感じてしまった。
特に今作は会話がかなり少なく感じた。3時間はやはり長さを感じてしまうのは否めない。
今の時代を生きる自分と考えや価値観を比較するのは難しい。上にも書いた様に彼らの様な存在がいたからこそ、今ある平和や正義の価値観を下に彼らの姿を見てしまうからだ。その視線で見ると理解はできても共感はできないところがやはり出てしまう。
例えば、命あっての信念だとどうしても考えてしまう。罪なき人を殺す事を拒否し、徴兵を拒否するまでは理解できても、その先の口だけでも国(ヒトラー)に忠誠を誓うことすら拒否して命を断つ事を選ぶ信念にはやはり共感することはできなかった。
彼の場合妻や娘といった家族もあり、中々言葉で自分の気持ちをあれこれ表現することもないため強い信念はもちろん感じたが、今を生きる自分にとってはやはり共感する事は最後まで出来なかった。
もちろん作品自体は素晴らしいものであり、とても貴重な時間を過ごすことができた。
ただ作品の長さや詩的な表現が今作は多かったことから個人的には疲れてしまったというのも同時な感想である。
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