「考えろ。」家族を想うとき andhyphenさんの映画レビュー(感想・評価)
考えろ。
ケン・ローチは怒っている。
「わたしは、ダニエル・ブレイク」を撮る前も引退を宣言していた。そして「ダニエル・ブレイク」がパルムドールを獲得した後も引退を宣言していたケン・ローチが戻ってきた理由は、この行きすぎた自由主義社会への怒りなのだろう。
ギグ・エコノミーの問題が日本でも表面化しているからか、この映画は上映規模の割に多くの媒体に取り上げられた。「この映画を観れば、その過酷さが分かる」とでもいうように。
「脱社畜」だの「会社に囚われない生き方」だのが流行り始めて何年経っただろうか。その面においては、恐らく日本とイギリスでは少し違うところもあるが、搾取の形態は同様だろう。
借金を抱えて、世界金融危機の煽りから仕事も長続きせず、それでもマイホームを夢見るリッキー。生活保護は「プライドが許さない」まずこのあたりから自己責任の病理を感じる。
個人事業主。フランチャイズ。言い得て妙だ。稼げそうに見えて、実際には全く裁量のない働き方を強いられる。間違いなく関係上は雇用なのに、「ルール」で縛るだけ縛り、罰金を取り、福利厚生は与えない。日本のコンビニで起こっている問題と全く同じだ。
共働きの妻アビーも介護士で、過酷な仕事を強いられる。そして子どもたちの問題。反抗する息子。労働で削られる家族の時間。
それでも中盤までは、荷物を受け取る客との軽口や、親子で働く微笑ましいシーンや、家族がひとつになったな、と思えるシーンがあるのだ。だからこそ余計に、ラストに向けて畳みかけてくるような悲劇に目を背けたくなってしまう。
ケン・ローチは容赦ない。この物語には最後まで救いがない。家族の為に働くのに家族が離れていく。休むと制裁金を取られる。心身が壊れる。
そしてある事件後、家族は元に戻ったかのように見える。しかし何も事態は変わらない。解決しない問題があの家族に降りかかり続けるのだ。
冷徹なまでの映画の眼差しが、「じゃあこれからどうする?」を突き付ける。
「稼げないのは自己責任」というひとがいる。それを口にするのは大概稼げているひとだ。そしてそれを批判しながらも、実は多くの人びとが「稼げないのは、苦しいのは、自分のせいだ」と思ってしまっている。
消費が便利になればなるほど、後ろで働く存在が重くなる。分かっていても来た道を中々戻れない。「人でなし」に見える本社も、実は怯えている。この競争社会に潰されるのを。
何をどうすれば皆が「生きているだけでそれなりに幸福」になれるのだろうか。それなりでいい。それなりでいいのに、社会は分断し、格差が広がり、声の大きい人が自己責任論を叫ぶ。
どうしたらいいのか考えろ、そして声をげろ、とケン・ローチは主張している気がしてならない。
「わたしは、ダニエル・ブレイク」と同様、比喩も隠し味も外連味もなく、ただただ愚直に真っ直ぐな映画だ。愚直さが、こんなにも悲しく刺さる作品はない。