「セクシュアル・アイデンティティはどこまで「無意識」か」マティアス&マキシム (・∀・)さんの映画レビュー(感想・評価)
セクシュアル・アイデンティティはどこまで「無意識」か
いや〜フランス系の映画は本当に難しい………セリフ以外の情報(景色の映像や音楽)からキャラの心の機微を読み取るのが本当に苦手なので、そもそも映画鑑賞に向いてないんだけど笑。映画はやっぱり独特の疲労感があるよね………。
僕は自分がトランスジェンダーのパンセクシュアル。だから、マット!ぼけ!ビビんな!マットがすこしでも動いたら大きく変化するのに!って思って見ていたけれど、それは僕が自分のセクシュアリティを自覚しているからの立場なんだろうな、って見終わって気づいた。
キスはするのに下着を拒む、理性と感情のあいだでグラグラ揺れるもの。そういう「本人ですら知らないセクシュアルアイデンティティ」。でもセクシュアルアイデンティティってなんなんだろう?とも思った。
好きな人を好きだから好き、とシンプルに思えたらいいのに、いろんなことが立ちはだかるがゆえに、自分の感情「だけ」に従うわけにはいかないのが、すこし悲しさすらあった。そういう意味ではとても悲しくて切なくて、だからこそ「じれったい」、「子どもじみた」恋だった。
マックスもマットもほんのり自覚はしていたけれどあえて無視していたものに、火をつけられてしまったんだろうなぁ。マックスはなんか……「きみがきてくれるなら拒まない」という、受け身だけれど強い気持ちがあるように感じた。あの嵐の夜のシーンで。だからトリガーはきっとマットにあった。
本人ですらコントロールできないような感情、あるいは本人ですら「これがなんなのか」わからない胸の痛み、それをある程度の年齢や地位になってから手にしたらそりゃ驚くしもてあます。
推薦状を最後まで渡さなかったのは、「行ってほしくなかった」からなのか、「ギリギリまで会う口実ができる」からなのか、マットもよくわかってなかったのかなぁ。
あのラストシーン、なんだよ、来たのかよ!って思いつつ、その後の彼らがあまりにも気になる。どうするんだろう。
「どうなるんだろう」ではなくて、「どうするんだろう」、と思う。あのあと彼らがどうするのか。あそこまできたら流れに身を任せて「どうにかなる」嵐の夜の二の舞ではなく、自分たちで選べるでしょう。自分たちがどうするのか選べるはず。どうするんだろう。マットの立場とフィアンセ、マックスの渡航。いちばん「欲しい」のはなんなのか、それがわかれば障壁も対応も見えてくるけれど、「欲しい」という本能にどこまで彼らは従えるんだろう。
続きを求めるのは野暮だけれど、気になるよね……。
これは野暮な予想だけれど、なんだかんだ、出発日を遅らせる話が本当になって、ふたりでホテルかどこかで最初で最後の恋愛関係を楽しんだあと、もうマックスは二度と帰ってこなかったんじゃないかなって気がする。マットは最後は必死に笑って送り出す。爽やかに。爽やかってすごく切ない。