マティアス&マキシム : 映画評論・批評
2020年9月22日更新
2020年9月25日より新宿ピカデリーほかにてロードショー
ドランが問う、セクシュアリティを意識せずに人を愛することは可能か、という命題
前作「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」でハリウッドに赴いたグザヴィエ・ドランが一転、ホームベースのカナダに戻り、旧知の友人たちとともに作ったパーソナルな作品。ドランはこれを、「自分の20代最後の節目となった作品」と称している。ストーリーは自伝的でないにしても、要所要所に彼の思いやメッセージが込められていることは、想像に難くない。
幼馴染みのマティアス(ガブリエル・ダルメイダ・フレイタス)とマキシム(グザヴィエ・ドラン)は、たわいない遊びの罰ゲームから、カメラの前でキスシーンを演じる。だがそれは潜在意識のなかにあったお互いへの感情を呼び起こし、もはやふたりは以前と同じように無邪気に振る舞うことができなくなる。
ここではマキシムの方が明らかにマティアスに惹かれているものの、これまでの関係にヒビが入るのを恐れて積極的になれない。一方フィアンセのいるマティアスはより複雑で、初めて自身のセクシュアル・アイデンティティが揺らぐのを感じる。自分という人間はいったい何なのか。
彼らは30歳にしては、いささか子供っぽく見えないこともないが、この設定はドラン自身の年齢であると同時に、社会人としてもこれまで以上の責任を求められる、プレッシャーを感じる年頃ということだろう。これがもう少し若い世代であれば、セクシュアリティに関してもよりオープンで、しなやかなのかもしれない。実際映画のなかにも、彼らよりは屈託のない若いキャラクターが登場する。
友達以上、恋人以下、というのはもちろん、男女間にもある普遍的な感情ではあるが、ここではやはりホモセクシュアリティというテーマがより大きな壁となってふたりにのしかかる。彼らが悩み続ける姿にもどかしさを感じつつ、現代社会に潜む見えない障壁について考えさせられるのだ。
ちなみにドランの長編一作目、「マイ・マザー」でも母親を演じたアンヌ・ドルヴァルが、またしても腹立たしいほど嫌みな母親に扮し、息子にさらなるストレスをもたらす姿が圧巻。
その整ったマスクにわざわざ痣を入れ、叶わぬ思いに顔を歪めるドランの横顔が、せつなさをドーピングする2時間である。
(佐藤久理子)
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