その手に触れるまでのレビュー・感想・評価
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過激思想を拭い去るには
人間は誰もが生まれた時にはイデオロギーの偏りなどなくて、人間の本質は、玉ねぎの皮を剥いていくように一枚ずつはがしてゆくと、中は空洞なのではないかと思う。どんな皮を纏うことになるかはもっぱら環境要因で、空洞が本質だからこそどんなものでも吸収できてしまうのが人間ではないか。
この映画の主人公の少年はいたってどこにでもいそうな少年だ。たまたまイスラム教指導者が過激思想の持ち主だったので、本人も感化されてしまう。これは、一度まとってしまった皮を剥がして別の皮に付け替える過程を追いかけた作品と言えるかもしれない。
それは容易なことではない。まとった皮も含めて自分という人間だ。自分の一部を否定することは誰にとっても難しいこと。周囲の助けなくしてはそれは達成できないことなのだ。
まるで異なる思想を身に着けてしまった人々とどう向き合うのか、今の世界のどこであっても重大な問題を本作は描いている。
考え方の違う人間と共に生きる。
今まで私は、自由経済を悪魔の考えだと思わない人達に囲まれ、
少なからず成長し年令を重ね生きて来ました。
その私がイスラム圏内、共産主義国家、
或いは何か強固な信念によって団結した地域に移り住み、
ある日急に、
『オマエのウチの隣に住んでるヤツとは口を利くな。
町内で一番偉いお方が憎んでいるそうだ。』
と、お向かいに住む、普段はとても優しく皆に慕われている年寄りに言われ、
その一週間後に、
『オマエのウチの隣に住んでるヤツは死んだ方がいい。
オマエが殺さないと、オマエも家族もエライ目に合うぞ。』
と、言われたら、一体どうすればよいでしょうか?
「アナタガタは間違っている」なんてコト言いますか?
・・・・・・。
・・・・・・、ああ、此処まで書いてスゴイ馬鹿なコト書いてる気がして来た。
この、“スゴイ馬鹿なコト書いてる気” が、戦争テロ攻撃報復侵略圧力格差不幸・・・・の
元凶なのでしょうか。
“どちらに否があるのか”、をハッキリさせるための行為とは、
私には『戦争』としか呼べません。
規模(?)が小さきゃ『攻撃』『制圧』『虐殺』、あるいは『テロ』で済むかも知れません。
既にこの若者は戦時下に生きています。
異教徒の抑圧に耐えながら。
『信仰』と『教育』と『洗脳』は、100%全く同じ行為です。
日本人のほとんどが過激な宗教団体信者に変わりつつある今、
日本人は更にもっともっと視野を世界にまで広げなければいけない。
大戦前と変わらぬ島国日本人の視点からだけではこの映画を理解出来ないし、
即ち、外国人文化の共存など無理なのでは無いか。
今のままで、日本人は変化する必要ない?ご冗談でしょ?
☆☆☆★★★(1回目) 観客30名前後? ☆☆☆★★★(2回目) ...
☆☆☆★★★(1回目)
観客30名前後?
☆☆☆★★★(2回目)
観客8名
簡単に。
(2020年)7/5日 ほんの少しだけレビューを加筆しました。
子供ではない、大人でもない。少年はただひたすらに純粋だった。
その心の隙間に〝 悪 〟 が乗り移り悲劇は起こる。
だが、そんなアメッドの事を誰も非難する事などは出来ない。
(ダルデンヌ兄弟の演出は)それまでが、絶望から一筋の光が対象者に降り注ぐダルデンヌエンディングだったのに対して。『サンドラの週末』以降の最後(エンディング)では、本人自らが希望の光に向かって歩き出す方向へ…と、舵を切って行く演出へ変わって行った気がします。
今回のエンディングでは、そこに至るまでのアメッドの行動。及び、社会へ適応しようにも純粋なるが故に。なかなか宗教への《信仰心》と《縛り》との狭間で苦しむ心の揺れ動く姿を、これまでの作品での対象者以上、執拗に描いており。観客には、より不穏な空気を匂わせていた。
個人的には、そんな観客の思い描く予想の上を行き。アメッド自ら、自分の身を殺め…とゆうイメージを持ちました。
若干ですが、そのラストシーンに向かって行く道のりには。少しばかりですが、無理があったのでは…との思いを持ちました。
とは言え、ストーリーは単純なれど。ダルデンヌ兄弟が描く物語は実に芳醇で。終盤に向けて提示される1つ1つのエモーショナルな描写は凄いの一言です。
2020年6月15日 ヒューマントラストシネマ有楽町/シアター1
2020年6月28日 ヒューマントラストシネマ有楽町/シアター2
年端も行かない“子供“が洗脳される、イスラム世界
2019年(ベルギー/フランス)監督ダルデンヌ兄弟。カンヌ国際映画祭・監督賞受賞。
邦題の『その手に触れるまで』だと、和解したように感じますが、
原題はただの『若いアメッド』・・・少年の名前だけなのです。
1ヶ月前は「普通のゲーム好きの子供だったのに・・・」と、アメッドの母親が嘆きます。
急にコーランにハマり「導師」の言う・・・担任のイネス先生は「背教者」だから殺しても良い・・・
その言葉を、真っ直ぐ受け止めて、先生のアパートに向かう。
隠し持ったナイフでを振りかざし突進するものの、先生は身を避けて、
結果未遂に終わる。
アメッドはイネス先生の告発で、少年院に入れられてしまうのです。
いかにも真面目で潔癖症で融通の効かないアメッド。
少年院では仕事を終えた後・・・金属探知機をかざしてイチイチ身体検査をする。
そのシーンが迫る。
大人たちは少年たちをまったく信用していないのだ。
《凶器を隠し持ち、突然振りかざして来る》・・・そんな存在。
《ベルギーのブリュッセルはヨーロッパのテロリズムの交差点と化している》
2015年のパリ同時多発テロ事件の実行犯もブリュッセルを拠点にしていたと記憶に新しい。
それにしても洗脳とも言えるアメッドの「イスラム教とジハードへの傾倒」
これを解くことは可能なのだろうか?
「イレネ先生に面会すること・・・」
普通は謝罪かと思います。
所が、アメッドは凶器を隠し持つのです。
歯ブラシの持ち手を削って尖らせて、靴の中に隠している。
面会で何をしようとしているのだ。
更生プログラムの一貫で「酪農家での労働作業」をするアメッド。
牧場主の娘にキスを迫られ、「自分は罪を犯した、汚れた」と混乱してしまう。
脱走して向かうのもイネス先生の学校。
またしても尖った長いクギをポケットに忍ばせるアメッド。
「なんなの?あんた、まだ殺る気なの?」と、思う。
塀を苦労してよじ登り、結果、落下して身動きもとれない・・・ここで激しい痛みにアメッドは、はじめて《他者の痛み》を《自分の痛み》として捉えたのだと思う!!
ラスト、アメッドは子供に還ったのだと思う。
痛みで我に還る・・・。
年端も行かない子供が「コーラン」を学ぶ。
危険なことだと思う。
「ジハードを教えられる」
ジハードで殺されたイトコの写真には後光が差すように加工されている。
「ジハードの死は、死んだのではない、生きている」と説く導師。
日常的な些細な出来事として、
さり気なく見せられて、その根深いイスラム思想に震撼としてしまった。
閉ざされた人々が、広い視野を持つことは可能なのだろうか?
これはすごい…!
この時代に見るべき傑作だと思う。
宗教、ではなくでもあらゆる集団や思想に
置き換えることができる普遍性がある。
さらに主人公の彼はまだ若いが、
真面目そうな青年。
これも上手くて、確かにこういう人が
ある特定の思想にのめり込みそうだな、と。
それまでもゲームしかやってなかったらしいし。
これ先生はもちろん、母親からの立場で
見るとめちゃくちゃ辛いし意味わからんのよ。
怖い、本当に怖い。
というか、勧誘した大人の邪悪なことったら無いね。
あいつが悪だね。
恐ろしいまでのリアリティと
これ以外と納得させられるようなラストが秀逸でした。
宗教の話はなかなか共感しづらい
特に信仰する宗教がない私にはこのような話は理解しようがなく、とても感想を述べる資格などないのだけれど、ただ13歳の少年がこのような行動をしてしまうことが辛い。
イスラムの教えが13歳のアメッドの心に響いたのは何故?従兄弟の死もきっかけなんだろうけど、、、学校の先生を敵と思い襲ったことで少年院に入るけど、改心したように装いながら歯ブラシで凶器を作るほど先生への殺意は消えない様子。
ラストはあまりにも悲しいけれど、アメッドが「ママ」とつぶやくところや、握手さえ拒んでいた先生の手を握るところはやはりまだ13歳の少年であることをかんじさせる。その手に触れるまで、まさにタイトルそのままである。
イスラム教をテーマにした映画はやはり重ーくつらーい気持ちになってしまう。
【純粋であるが故の、少年の中に芽生えたジハード思想の萌芽とその報いを描いた作品。遣る瀬無い気持ちになってしまう作品。世界中の、宗教に起因する紛争が無くなる時代は来るのであろうか・・。】
◆舞台は、ベルギーである。
・近くの小さなモスクに、兄ラシッドと頻繁に通う、アメッド。
モスクの過激思想の”導師”に”コーランの教え”により、彼も、過激な、ムスリム思想に傾倒していく・・。
・アメッドは、イネス先生のアラビア語の教え方に疑問を抱き、”導師”から”聖戦の対象だな・・”と言われ・・。
ー ちょっとした事が切っ掛けで、幼き”聖戦士”が生まれてしまう・・。暗い気持ちになる・・。ー
・少年院に入った後、農場実習で、ルイーズと言う女の子に好意を持たれ、キスをされてしまうが、アメッドは、”汚れてしまった・・”と言う言葉を残し、ルイーズに“ムスリムに改宗しないか・・”と迫るが、あっさり断られ・・。
・イネス先生の希望で、面会する時も、彼はソックスに”武器であるペン”を隠し持っている・・。
ー 一度、洗脳されてしまうと・・、ジハード一直線なのだろうか・・。ー
<アメッドが行った事に対する、彼に対しての報いは、アラーの神の仕業なのだろうか・・。
劇中、ジハード思想に走ってしまったアメッドが、子供らしい笑顔を一切、浮かべない所も切ない。
宗教とは、なんであるのか・・。もっと、寛容であるべきではないのか・・。
世界中で起こっている、宗教に起因する紛争の数々・・。
何とも、遣る瀬無い気持ちになってしまった作品である。>
不器用な主人公に感情移入はできないし、謎だらけだけど、その不器用さ...
不器用な主人公に感情移入はできないし、謎だらけだけど、その不器用さと異様さはわかる。
いとも簡単に切り替わるスイッチ
個人評価:3.8
13歳の少年の心はどこに行くのか。
偏ったイスラムの宗教観を強く与える本作は、無宗教者の多い日本では、見る側の受け取り方も様々だと感じる。
一ヵ月前までゲームに夢中だった少年が、過激なイスラムの思想を前に、殺人をも肯定される思考回路に短期間で切り替わる。そのスイッチがいとも簡単に切り替えれる事が本作のテーマとも感じた。それはイスラムの人種として、誰しも根底にあるスイッチなのか。
あの後、少年はどうなるのだろう。飽きたゲームソフトの様に、その想いは次のゲームに向けられるのだろうか。いや、そうはならないだろう。血に歴史と思想が刻まれている。
危なかしく、不安で、愛おしい
真っ白で、何にでも染まれる少年期、ある過激な思想に感化され、それが正しいと疑わず、正義だと信じて、親近者を殺そうとする。
周りの大人が、その過激な思想をほどこうとするけれど、どこまでも純粋で真面目な少年の心はかたく。出会った同年代の女の子が、彼の心を揺さぶるきっかけをつくる。
とても危なかしく、不安にさせられて、でも愛おしい。
自身も、宗教ではないけれど、絶対的なもの、信じて疑わないものがあった10代を思い出しました。
ベルギーが舞台で、テロが発生する背景にいる個人は、最初からテロリストなわけではなく、むしろ純粋で真面目に生きる”人”なんだと、その悲しい複雑性を分かりやすく示してくれます。
考えてもわからない
イスラム原理主義に傾倒した少年がユダヤ人の彼氏がいる先生を襲う話。
なぜこうなったかは描かれず、最後もどうなるのか、観た人に委ねるという作品。
宗教とは人を幸せにするものであるべきなのに、イスラム教は、特に原理主義は人を不幸にするケースが多い気がする。
元はユダヤ教もキリスト教もイスラム教も一緒なのに、解釈の違いだけで他宗教を攻撃するのはいかがなものかと。
作品の意図は何だったのだろう。考えてもわからなかった。
タイトルなし
ダルデンヌ兄弟作品を初めて観たのは3年前に観た「午後8時の訪問者」
劇中、ほぼ音楽無しでカメラワークは手持ちで(多分)人物を中心に写すところが印象的でじわじわくる作品だったんですよね。
その後、2人の過去作品を何本か家で鑑賞しましたが、どの作品もドキュメンタリータッチなのに見入ってしまう内容ばかり。
本作でもその手法は健在で、音楽は無いし引きのカメラワークも少なくほぼ人物中心の描き方。ベルギーならでは、というよりは欧州が抱える問題でもあって、その問題をべースに人はどう変わることができるのかというところが焦点な気がしたんだけど、、
少年アメッドはどうだったかというと、握手さえ拒んでいた人間がああなれたのは救いだけれど、あのシチュエーションでそうなったのはいささか突拍子もない演出に感じました。作風も題材も好みですが、、
マインドコントロールって怖い
この子自身にも、何か特性はあるのかもしれない。
いったん、はまるとこだわる性格。
そこに、宗教がからむと、もういかん。
どんなことも、コーラン(教典)にかかると素晴らしく聞こえてしまうわけですから。
まだ自我が確立していない子どもが、ここにはまると、もう、抜け出しにくいのではないのだろうか?
実際には、身近な大人が「そうはいっても、現実には…ね」みたいな、色んな考え方を指し示すわけです。
でも、偏りのある宗教者に見込まれてしまうと、もう、ロックオン状態ですよね。
呪縛が解けなくなるわけです。
最後、いったいこの子はどうするつもりだったんだろうか?
本当は?
そう考えると、背筋に冷や汗。
世界的に、子どもの発達傾向は課題なのでしょうね。
愛の代わりに憎悪を教える宗教指導者は、実に罪深い
映画としてはそれほど面白い作品とは言えないが、自爆テロをする子供や女性がどのように作られるのか、そのヒントがあった気がする。邦題の「その手に触れるまで」は作品の内容と乖離していて、寧ろ原題の「Le jeune Ahmed」を直訳した「若いアメッド」のほうが解りやすかった。
人が自殺するためには、よほどの絶望がなければならない。明日に何の期待も希望もないとき、人は躊躇なく自殺する。期待や希望は大袈裟なものでなくていい。例えば今日買った靴を明日履くのはひとつの期待であり希望だ。太宰治の「晩年」の最初の短編「葉」の冒頭は次のようにはじまる。
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
ことほどさように、小さな理由で人は死なないものである。太宰の場合は着物をもらうことやそれに類いすることがなくなり、小説を書く意欲もなくなったから自殺したのだ。心に何も残っていなければ、恐怖も忘れるだろう。
しかし本作品の主人公アメッドは自殺しようと思っていた訳ではない。イスラム教には自殺を禁じる教えもある。にわか狂信者のアメッドに必要なのはジハードで死ぬことなのだ。ジハードで死んだ者を死んだと言ってはいけないと教えられるシーンもあり、アメッドはますます勇気づけられる。ジハードの相手は異教徒である。コーランから離れ、歌などでアラビア語を教えようとする教師。それはイスラムの教えから子どもたちを離そうとする悪辣な意図である。どうしてもやろうとするなら、もはや殺すしかない。
失敗して捕まっても、アメッドは崇高な使命を忘れない。従順なフリをしつつ、いつかジハードを実行する機会を狙う。できればジハードの際に死んで、信仰を全うしたいのかもしれない。アメッドの頭の中では、戦前の日本のように散華(さんげ)などという言葉で死を美化しているのだ。自分が生きた証は死そのものにある。母も兄弟も、誉(ほまれ)ある死を喜んでほしい。
狂信者は情報をシャットアウトする。信仰に反するものは何も見えず、何も聞こえない。異教徒は無価値であり、無人格であり、殺しても差し支えない。スマホを持っていても、そこから入ってくる情報に心を動かされることはないのだ。
葬式仏教に結婚式クリスチャンまたは結婚式神道という、極めていい加減に宗教と関わり合っている日本人には理解しづらい精神構造であるが、キリスト教文化が根づいたヨーロッパでは、イスラム教への転向もそれほど困難ではないのだろう。神は既にいるのだから、英語のGod、フランス語のDieuをアッラーに変えればいいだけだ。日本では仏教に神は存在せず、神道は八百万の神で森羅万象そのものが神だから、一神教を感性として理解するのは難しい。
宗教に依存しなくても生きていける日本人が世界的な長寿国となったのは、戒律による不自由がなく、健康や衛生といったどちらかと言えば科学的な価値観で生きてこれたからかもしれない。
グローバリズムは価値観の崩壊と新たな価値観の創生につながり、狭量で不自由な宗教的価値観からすべての人々が解放される未来がくるのかもしれないが、コロナ禍がグローバル化を妨害している面もあり、今後の世界はどうなるかわからない。
例えば暴走族が特攻服のようなものを着て、軍隊式の組織を作って自己アピールをしているのを見て、それに憧れる少年少女もいるかも知れない。誰でもまずは形から入る。暴走族の中身がないことに気付くのはそれほどの長い時間を必要としないが、イスラム教の衣服や生活態度や祈りなどに憧れてしまった場合、宗教には経典があってどこまでものめり込んでしまう。
本作品の主人公を見ていて、自爆テロをする子供や女性がこのように育っていくのだと、うっすらとわかった気がした。愛の代わりに憎悪を教える宗教指導者は、実に罪深い。
アレッドは何を信じたのか
ゲーム好きの13才の少年アレッドがイスラム指導者との出会いで過激な思想にのめり込んでいく物語。
やがて指導者の言葉に影響を受け、現代的な考えの女性教師イネスを殺害しようとする。
少年院に入っても決まった時間のお祈りを欠かすことはない。
母の訴えや担当教官の教え、農業研修所の娘で自分に好意を抱くルイーズとの出会いであっても、偏った思考を変えることはできない。
それどころか再びイネス先生を手にかけようと計画を企てている。
そもそもイスラム教は決まり事の多い宗教です。聞かれればまぁ仏教かな、という人が多い日本とは概念が全く違う。
でも何を信じても、何も信じていなくても正解はない。
多くの厳格なムスリムが自分達の宗教を誇りに思っているならそれが正しい。
本来信仰というのは清らかなもののはず。でも同時に根深い闇を含んでいることもある。人はそこから這い出すことができるのだろうか。
ラストシーン。
左手がその手に触れる瞬間でさえも右手に握られた狂気が目の前の人物の喉を突き刺すのではないか。
気が気でならなかった。
#40 洗脳って怖い
無宗教の人が多い日本人には、宗教を理由に人殺しする人の気持ちがわからない。
変わってしまった息子を見て、元に戻って欲しいと泣く母親の気持ちはわかるけど。
アーメッドは、何を求めて宗教に入れ込んでしまったんだろう?
最後に本当に改心できたのかな。
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