「その瞬間、人は「ママ(お母さん)」と言う」その手に触れるまで マツドンさんの映画レビュー(感想・評価)
その瞬間、人は「ママ(お母さん)」と言う
アメッドは、ルイーズとのキスのトラブルの後、なぜ危険を冒してまで、再び、イネス先生を殺しに行ったのか。考えられる答えは二つある。
一つ目は、キスのトラブルによって異教徒の邪悪性を改めて認識し、「そうした異教徒に歩み寄るイネス先生を即座にも殺さねば」と意を新たにした、という理由だ。
でも、アメッドの発想にしては、ちょっと複雑ではないか。それに、この考えには、「世界を良くするため」といった視野の広さが感じられる。殉教した従兄のカッコよさゆえに憧れ、同じ生き方を願うアメッドには、そうした発想は似つかわしくない。
二つ目は、キスという罪により地獄に落ちるかもしれない自分の運命を変えるには、「殺すしかない」と考えた、という理由だ。あくまで自己中心的な発想。この発想なら、あり得る。
ただ、もしそうなら、屋根から落ちた後、アメッドは何を思うのだろう。
アッラーの存在、天国と地獄の存在を、見てきたかのようにリアルに感じているアメッドなら、自分の運命をキスという罪への罰ととらえるのが普通ではないだろうか。「未婚者が、異教徒とキスなんかしたから、こんな目にあったんだ」と。逆境は信仰を強くする。そして、イネス先生を刺す、ようにも思われる。
しかし、その推論には屋根から落ちる前までのアメッドのままなら、という前提がある。つまり、地面に横たわったアメッドは、それまでのアメッドとは違うアメッドになっていた、という事なのだろう。変えたのは、肉体の苦痛、死への恐怖に違いない。彼は、フェンスをたたいて助けを求めた。神ではなく、生きている人間にリアルな救いを求めたのだ。だから「アッラー、アクバル」とは言わずに、「ママ」と思わずつぶやいた。
それは、「大日本帝国万歳」「天皇陛下万歳」ではなく「おかあさーん」と叫んだという特攻隊員の話(毎日新聞の保坂正康さんへのインタビューにあります)にオーバーラップする。ダルデンヌ監督は知っていたのかもしれない。
イスラムの導師、そして日本の戦争指導者たち。時代が変わっても、人の愚かさは変わっていない。ヨーロッパの苦悩に、人の悲しい普遍を見た気がした。