パラサイト 半地下の家族のレビュー・感想・評価
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何処までも半地下家族目線
見た感想は不思議な映画。と言う感じです。
社会的に底辺でそれなりに下衆な家族なんですが、悪人ではなく、愚かに近く、憎みきれない人間臭さでした。反対に富裕層の家族もまた、愚かに映りました。
内容的には、どちらの愚かさも少々イライラしました。最終的にそんな家族に罰がくだされて終わり……とはいかないところが、勧善懲悪的価値観ではなく面白かったですね。ホラーやサスペンスかと思ったらある意味コメディであり、家族ものでした。
知ることは幸せか
・どちらかと言えば、上流階級の家庭が下流家庭に侵食されるサスペンスだと思っていた。しかし実際主人公は下流家庭の方で、しかも物語の途中から主人公の階層は最下層ではないことがわかる。
気づき
・物語の途中から出てくるある人物こそタイトル通りのパラサイトであるとわかる。そしてこのパラサイトは上流家庭のおこぼれに預かって生活していることになんの罪悪感どころか負い目も感じていない。寄生虫が宿主になんの感情も抱いていないのと同じだ。感謝すらしているのだ。半地下どころか陽の光すら差し込まない最も昏い闇の中で彼はバレない程度に飼い主の血を吸い、あろうことか幸せすら感じている。
・一線を越えるとはなんなのか。それは認識すると言うことである。上流家庭の父親は一線を超えてほしくないと主人公にいう。最初は妻に隠れて愛人などいるからなのかとも思ったが、どうやら見たくないものを見せないでくれ、と言う意味らしいことがわかる。上昇してきた彼は下のことなど見ない。いや、下の世界があることすら認識したくない。地下室のパラサイトも、暗闇の中でなにも見えないため、自分がどれだけ不幸な境遇なのかなど考えない。生きるということしか考えない。しかし半地下に住む主人公は闇も陽の光も見えるのだ。見えるというこそは幸せなのか。この映画は明確にこの問いを否定する。見えるからそ、不幸なのだ。そして見えるということはこの現代社会の中ではある言葉に変換できる。知るという言葉だ。
・インターネットの台頭により、誰しもが大量の情報をインプットできるようになった。そして自分の境遇が他の誰かよりもある意味不幸(当たり前だが)であることを知るようになった。アフリカの原住民の幸福度はシカゴのホームレスよりも高いことが判明しているが、それはアフリカの原住民に快適な家、豊富な食事、刺激的な快楽など、生活の情報を与えていないからだ。つまり人間の幸福とは他者の幸福との相対的な差で決まるということ。幸福とは仏教的に言えば妄想の一種なのである。しかし我々は知る術を持つ限りこの妄想から逃れることは酷く難しい。インスタグラムやツイッター。承認欲求を満たそうと大量の人数が大量の幸福をインターネット垂れ流している。今までのテレビや新聞で得ていた情報の量とは桁違いである。現代の我々は知ることにより不幸になることを余儀なくされている。知ることで不幸になるなんてことが、これまでの人類の歴史で想像できただろうか。少なくともスティーブジョブスがiPhoneを発明するまでは誰も想像できなかったはずた。スマホはインターネットをそれまでインターネットを使っていなかった層にも、与えた。それは幸福だとしんじられていた。しかし、知ることは必ずしも幸福でないことを我々はこのコロナ禍の中で思い知っている。
匂いについて。
金持ちなのか貧乏なのか見分ける材料として、この映画では臭いが挙げられる。
つまりどれだけ装っても話し方を変えても、貧乏臭さが消えないと言うことである。また、ある意味それは現代では目の前の人がどのような人物であるか、服装や言葉遣い、持ち物で見分けることは不可能であると言う暗喩である。匂いと同じように、機能しているのがスマホである。全ての人がスマホを持ち、大量の情報に晒されている。その点は上流であろうが半地下であろうが関係ない。しかし、富の分配、格差は埋まらない。では上流と半地下を分けているものはなんなのか。
答えはそんなものはないと言うことである。能力だけでいうと半地下の家族の方が明らかに上流の家庭より優秀である。父親は除き、母親、息子、特に娘はとてつもなく優秀で能力もある。しかし格差は埋まらない。つまり、格差はとは格差でしかなく、所持している富の総量そのものでしかないということだ。これが何を意味するか。格差とは金であり、金とはいわゆるHPであり、手札の枚数であり、誰しもに与えられるし、得る権利はてられるが、絶対的な量があまりにも生まれながらにして違いすぎるということ。そして今のところそれは覆せそうにないと言うことである。最後息子は父がいるあの地下室がいる家を金を稼いで買う計画を立てるが、監督によるとその金額は彼の年収500年分ということだ。つまり、夢物語ということだ。彼の父は半地下から地下まで、落ちるところまで落ちた。しかし、息子にはまだ落ちる先が残っている。人生は結局は転がる石のように、緩やかだが確実に落ちていくことしかできないと感じ、なんだかひどく気が滅入った。
称賛する声が高い。私にとってこの映画に感情を入れられないというか
何件かコメントを読んだが、称賛する声が高い。私にとってこの映画に感情を入れられないというか、つまらないというか。。。飽きてしまったので途中でやめようと思ったが、友達曰く、『アカデミー賞』をとったんだよと言われたのを思い出して、これからがもっと観れば興味が持てるのではないかと思い見続けた。それに、私の教えている大人の学生が、『絶対見るべきだ、だから、ストーリーを言わないよ』といって、内容を説明してくれなかった
。前評判がこんなにいい映画は今までになかったから、ものすごく楽しみにしていた。
一時間も見たが、私の期待を外れ、まるで、悪賢い家族のコメディのようだし、スリラー映画のようだ。悪賢い家族は揃って、ピザの箱を薄給で折っているが、彼らの動きには、苦悩が見えるどころか怠けているようにしか見えなかった。もっと、苦労しているという実写、描写、が必要だと思ってみていた。大学受験で浪人を重ねて、仕事もなくしているという長男や長女には、浪人しながらなんでもして働けよと言いたくなった。貧困層は浪人もできないのが多くの現実だ。でも、あくまでも私感であることを理解していただきたい。私は、ケン ローチ監督とポール ラヴァティ脚本家、レベッカ オブライアン製作の『家族を想うとき』の『はたらけど、はたらけど、暮らしは楽にナララズ』、そして、社会構造の不公平さをもっと実感できると思っていた。か少なくても黒澤明の『天国と地獄』のような映画を期待してみていた。
https://eiga.com/movie/91138/review/02385180/ 家族を想うときのレビュー
前の家政婦が雨の中、金持ち家族がキャンプに出かけているとき、インターホンを鳴らすシーンまで観た。私にこの映画を楽しむ感性が欠けているのも残念だし、普遍的な格差社会の問題点を『家族を想うとき』のように感じられない私にもがっかりしたが、ビデオをストップした。
それから、あらすじを全部読んだ。『雨』を恵の雨と考えない文化(?)には驚いた。だから、この概念には興味があった。でも、もう一度観ようとは思わなかった。
アカデミー賞を受けるような大作に感激できない私のセンスに呆れた。
喜劇と悲劇が共存した良い映画
やたらと評判が良かったのでアマプラで視聴。
金持ち一家に貧困層が潜り込むという設定自体はどこかで見たような気もしますが、これが家族全員というのは新しいと思いました。
家庭教師、家政婦、運転手とよくうまいこと潜り込むなぁ関心すると同時に、それぞれがキチンと仕事をこなせていることから決して能力が低いわけではなく環境のせいで貧困層となっているのだなと分かり生まれって大事なんだなと感じましたね。
前半の一家が寄生していく様は喜劇、後半の新事実判明から悲劇が始まりこの高低差は非常に引き込まれ最後まで集中して鑑賞できました。
国独自の社会問題を娯楽の中にうまいこと落とし込んだいい作品ですね。
ネタバレとか見ずに鑑賞していただきたいですね。
逆にネタバレしてると楽しさ8割減の作品かな。
なんだこれ?(褒めてます)
格差の是正……?
無数に張り巡らされる演出、徹底した描写、コメディやスリルとしての面白さ。
とにかく完成度が凄まじい。
韓国に暮らす家族に焦点を当て、貧富の格差をテーマとしていたけど、これは韓国だけにとどまるものでは当然なかった。
どの国にも存在する格差社会を堂々と描いたポンジュノン監督。階段など徹底して高低差を際立たせたり、水の流れや雨、匂いなど格差を表すための演出が美しかった。今まで知らなかった自分が恥ずかしい。
個性の強い登場人物の中でも、地下に住んでいた男の存在感が際立っていた。
特に家主の帰りに電気を付け、また崇拝するシーンは狂気そのものだった。
でも、私たちの立場もソコだと知った途端、この作品を見るのが恐ろしくなった。
富めるものが富むことをよしとし、状況を改善することはなく、ただおこぼれに預かろうと、寄生する。
世界的に(もちろん日本にも)蔓延した格差社会における思考なのかもしれない。
近い時期で流行った「JOKER」も然り、格差を描くストーリーが人気を得ていた気がする。
動くにせよ動かないにせよ、あのような結果となった2つの作品を見ていた限り、社会に溜まった不満がどのように噴出されるのかがとても怖い。
主人公たちの能力の高さと、それでも仕事がない韓国社会の現実もまた、恐ろしいものだった。
世の中そんなに甘くない
パラサイトした家族が先行パラサイトだったという設定の方が
これがアカデミー作品賞
・カンヌパルムドール受賞作品か、
と複雑な思いだ。
前半のパラサイトの部分は非常に魅力的で、
後半への期待が大きく膨らんだ。
しかし、格差間衝突の後半部分になって
急にその魅力が萎んでしまった。
何かとデフォルメ過剰な表現が多く、
またリアリティ欠如の場面も多過ぎる。
大きなものとして、
雨の中やって来た元家政婦を
断ればいいだけなのに家に入れてしまう
という地下に潜んでいる夫を登場させるだけに
設けられたような御都合主義的展開。
現場検証で警察に重要箇所として
捜索されているはずなのに、
パラサイト家族の夫が殺害事件後に
地下にいても発見されないなんて
設定が無理繰り過ぎる。
パラサイト家族も、娘が殺害された中で
もはや地下室を秘密に出来ないだろうし、
警察もその存在が解明出来ないまま
なんてあり得ないだろう。
とにかく、何かとリアリティ欠如と
御都合主義的な描写が多く、
その度に映像世界への没入を拒否される。
前半はウィットの効いた見事なパラサイトを
見せられてワクワクだったのに、
後半は一転して暴力手段を見せられて
ガッカリ。こんな表現で
効果的な社会啓発になるだろうか。
むしろ格差間抗争を煽りはしないだろうか。
エンターテイメント的表現なのだろうが、
暴力シーンは決して心地良い訳も無く、
前半で見事なセンスで
世の中を上手く皮肉って見せたのに、
後半のアメリカ映画的なバイオレンス表現は
市場を意識し過ぎたのか残念至極だ。
最後までセンス良く
知恵での問題解消を見せて欲しかった。
私的には、パラサイトした家族が、
実は先行パラサイトの一家だった、
位の展開を期待したのだが。
ポン・ジュノ監督作品としては
「グエムル-漢江の怪物-」「母なる証明」
の方が、自然なストーリーと象徴性
が効いていて優れているように思う。
せっかく各場面で
“上る”と“下る”の要素を巧妙に散りばめる
素晴らしいテクニックを駆使して
格差社会を上手く描写しながらも、
一方で、過激過ぎる映像手法と
リアリティの欠如した
御都合主義的ストーリー展開では、
各映画祭での高評価にも関わらず、
この作品が映画史上の名作にはなり得ない、
と私は思うが、どうだろうか。
圧巻!
一言「こりゃあ“ネタバレ厳禁“だったのも頷けるわ〜」
◎よかった点◎
・2時間強の尺の中に、これだけの話を盛り込んだ脚本(監督自身が手がけた)がすごい。
「韓国映画でしょ・・・」なんて軽く見たら、吹っ飛ぶこと間違いない。
なさそうで、もしかしたら。そう思わせるリアル感やその真逆の展開が、うまく合わさってる。
・話の中で「あ、これは後でこう来るかな」と置かれた伏線。
大半は見事外されて、後から「そっちに使うのか!」。
うまいなあ、その辺。
・最後の最後まで、流さない。しっかり詰め込まれている内容。
この結末は、もちろん予測できない。
というか、「この後どうなるの?」の連続でした。
△いまいちな点△
・PG12指定になっているので、一部「げ!」な箇所もある。
韓国映画らしいといえば、そうなんだけど。
「デート映画には向いてない」って感じ。
⭐️今日のマーカーワード⭐️
「計画を立てると必ず、人生は思い通りにいかない」
これがアカデミー賞!?
単純な対比で見せる今の韓国という国の、外に媚びた表現の単一性
アメリカのアカデミー賞で以前の外国語映画賞にあたる国際長編映画賞を受賞するのは予想したが、英語映画(主にアメリカ映画とイギリス映画)に限定する作品賞を受賞したのには、正直驚きを隠せなかった。その時点でアカデミー賞の審査基準が変わったことと、(映画に罪はないが)作品の出来以上の何かが作用したのではないかと思い至った。元来映画関係者で構成されるアカデミー会員制の人気投票に過ぎないアカデミー賞の権威の本質を、数十年前に理解した者にはどうでもいいのだが、映画芸術と映画産業の両面で影響力を未だに強固に維持していることは否定はしない。しかし、これからの映画の評価は、多様性が最優先になり権威主義は徐々に崩壊するであろう。日本アカデミー賞が、先陣を切って模範を見せてくれている。
作品の出来は悪くない。撮影はいい。但し、脚本と演出は意図をあからさまにした単一性に拘り、細かい辻褄合わせが疎かである。前半のコミカルなタッチから後半のスリラータッチの転換にある映画らしい醍醐味が唯一評価できる。
富める者と貧しき者を階段に象徴化した単純な対立。「ジョーカー」では、それを真逆に使い技巧の高さを見せたが、ここでは北朝鮮の脅威に備えた分断を象徴するかのようにどこまでも深い。駄目な点は、騙される者がお人好しなのは良いとして、簡単に騙されるところで、これは韓国人のある一面を馬鹿にしているように見える。騙す者も簡単に推移してしまい罪の意識が薄く、後半の自業自得に同情できない。どちらも無知な人間による喜劇なのではあるが、同時に社会に対するメッセージの匂いがして、人間を描く本質に到達していない。後半は、主人公がネイティブアメリカンの格好をするのが意図的過ぎて辟易する。アメリカナイズされた韓国文化の象徴にしても、今日の人権に対する過度な社会運動に迎合したもので、リベラルから称賛されるのを意図したように捉えるのは考え過ぎだろうか。
主人公の息子とのラストは、流石にしぶとさを印象付ける。韓国映画らしい結末であろう。単一的な象徴主義については、最近観た「ドッグマン」と同じ匂いがする。主人公の息子は、友人から家庭教師を頼まれた時の理由を知っていて、何故社長家族の長女と親密になったのか。知りたいところが沢山残るドラマであり、衝撃的なシーンの嫌悪感が後を引く。問題が映画の枠からはみ出した社会派ドラマの是非。
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