劇場公開日 2020年1月10日

  • 予告編を見る

「知ることは幸せか」パラサイト 半地下の家族 ぺぺろんさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5知ることは幸せか

2021年1月3日
スマートフォンから投稿

・どちらかと言えば、上流階級の家庭が下流家庭に侵食されるサスペンスだと思っていた。しかし実際主人公は下流家庭の方で、しかも物語の途中から主人公の階層は最下層ではないことがわかる。
気づき
・物語の途中から出てくるある人物こそタイトル通りのパラサイトであるとわかる。そしてこのパラサイトは上流家庭のおこぼれに預かって生活していることになんの罪悪感どころか負い目も感じていない。寄生虫が宿主になんの感情も抱いていないのと同じだ。感謝すらしているのだ。半地下どころか陽の光すら差し込まない最も昏い闇の中で彼はバレない程度に飼い主の血を吸い、あろうことか幸せすら感じている。
・一線を越えるとはなんなのか。それは認識すると言うことである。上流家庭の父親は一線を超えてほしくないと主人公にいう。最初は妻に隠れて愛人などいるからなのかとも思ったが、どうやら見たくないものを見せないでくれ、と言う意味らしいことがわかる。上昇してきた彼は下のことなど見ない。いや、下の世界があることすら認識したくない。地下室のパラサイトも、暗闇の中でなにも見えないため、自分がどれだけ不幸な境遇なのかなど考えない。生きるということしか考えない。しかし半地下に住む主人公は闇も陽の光も見えるのだ。見えるというこそは幸せなのか。この映画は明確にこの問いを否定する。見えるからそ、不幸なのだ。そして見えるということはこの現代社会の中ではある言葉に変換できる。知るという言葉だ。
・インターネットの台頭により、誰しもが大量の情報をインプットできるようになった。そして自分の境遇が他の誰かよりもある意味不幸(当たり前だが)であることを知るようになった。アフリカの原住民の幸福度はシカゴのホームレスよりも高いことが判明しているが、それはアフリカの原住民に快適な家、豊富な食事、刺激的な快楽など、生活の情報を与えていないからだ。つまり人間の幸福とは他者の幸福との相対的な差で決まるということ。幸福とは仏教的に言えば妄想の一種なのである。しかし我々は知る術を持つ限りこの妄想から逃れることは酷く難しい。インスタグラムやツイッター。承認欲求を満たそうと大量の人数が大量の幸福をインターネット垂れ流している。今までのテレビや新聞で得ていた情報の量とは桁違いである。現代の我々は知ることにより不幸になることを余儀なくされている。知ることで不幸になるなんてことが、これまでの人類の歴史で想像できただろうか。少なくともスティーブジョブスがiPhoneを発明するまでは誰も想像できなかったはずた。スマホはインターネットをそれまでインターネットを使っていなかった層にも、与えた。それは幸福だとしんじられていた。しかし、知ることは必ずしも幸福でないことを我々はこのコロナ禍の中で思い知っている。
匂いについて。
金持ちなのか貧乏なのか見分ける材料として、この映画では臭いが挙げられる。
つまりどれだけ装っても話し方を変えても、貧乏臭さが消えないと言うことである。また、ある意味それは現代では目の前の人がどのような人物であるか、服装や言葉遣い、持ち物で見分けることは不可能であると言う暗喩である。匂いと同じように、機能しているのがスマホである。全ての人がスマホを持ち、大量の情報に晒されている。その点は上流であろうが半地下であろうが関係ない。しかし、富の分配、格差は埋まらない。では上流と半地下を分けているものはなんなのか。
答えはそんなものはないと言うことである。能力だけでいうと半地下の家族の方が明らかに上流の家庭より優秀である。父親は除き、母親、息子、特に娘はとてつもなく優秀で能力もある。しかし格差は埋まらない。つまり、格差はとは格差でしかなく、所持している富の総量そのものでしかないということだ。これが何を意味するか。格差とは金であり、金とはいわゆるHPであり、手札の枚数であり、誰しもに与えられるし、得る権利はてられるが、絶対的な量があまりにも生まれながらにして違いすぎるということ。そして今のところそれは覆せそうにないと言うことである。最後息子は父がいるあの地下室がいる家を金を稼いで買う計画を立てるが、監督によるとその金額は彼の年収500年分ということだ。つまり、夢物語ということだ。彼の父は半地下から地下まで、落ちるところまで落ちた。しかし、息子にはまだ落ちる先が残っている。人生は結局は転がる石のように、緩やかだが確実に落ちていくことしかできないと感じ、なんだかひどく気が滅入った。

ぺぺろん