「人間の愚かさを笑い飛ばす」パラサイト 半地下の家族 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
人間の愚かさを笑い飛ばす
鑑賞した翌日がアカデミー賞の発表だった。まさかという結果に少し驚いている。
同じカンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞したことで「万引き家族」と比較されるが、本作品では社会的な格差がより強調されていたと思う。ハイライトシーンは父親と息子と娘の3人が高台の高級住宅街から家まで、土砂降りの雨の中を徒歩で帰るところだと思う。下町の自宅までは沢山の坂を降り沢山の階段を降りなければならない。住居の高さの差はそのまま貧富の差に等しい。韓国の社会全体の有り様を象徴するかのような名シーンであった。
実は日本でも同じで、金持ちは山の手に住み、庶民は下町に暮らす。津波が来ても台風が来ても、高台の高級住宅は無事で、浸水の被害に合うのはいつも下町だ。小金を稼いでやっと山の手の新興住宅地に家を買ったと思ったら、土砂崩れで家ごと落下してしまう。
あるいは福島と東京の関係である。原発は福島の沿岸部にあり、その危険性は地元の人々が引き受け、電力の恩恵は遠く送電線で送られる東京都民が享受する。40年前に一時金を手にしたのは既に鬼籍に入ってしまった爺ちゃん婆ちゃんだ。遺産は危険だけである。
昨年秋の台風を思い出した。多摩川が氾濫して武蔵小杉の高級住宅が浸水した。もともと多摩川の標高が7メートル、武蔵小杉駅の標高が5メートルだから、危ないのは解っていた。それでも小杉に高層マンションを建てて、人気の住宅地として売りさばき、大金を稼いだ。買ったのは金持ちではなく、小金持ちだ。潤沢とは言えない家計からローンの支出をひねり出している庶民なのである。
高級住宅が浸水したことをザマアミロとSNSで嘲笑ったのも庶民なら、それをSNSでたしなめたのも庶民だ。実は金持ちが被害を受けたのではなく、庶民のうちの小金持ちが被害に遭ったのが本当なのである。SNSのやり取りは目くそ鼻くそに等しい。本当の金持ちは家が浸水したくらいではびくともしない。他に住むところがたくさんあるからだ。一生懸命に泥水を掻き出しているのは、金持ちではない、庶民なのだ。
それにしても本作品の主人公の住居は極端である。半地下の住居はなにせ下水が床に近いから、トイレは高い場所に設置しなければならない。それでも大雨が降ると下水混じりの水に浸ってしまう。衛生環境は最悪と言っていい。長生きはしないだろう。にもかかわらずキム一家が笑いながら生きるのは、明日の不安が強すぎて、もはや感覚が麻痺しているために違いない。加えて、同じような状況にある人が周囲にたくさんいるということだ。自分ひとりが酷い目に遭っていることには耐えられないが、沢山の人が同じような状況にあるとき、何故か人間は過酷な状況に耐えられる。
本作品では臭い(ニオイ)がひとつのポイントとなっている。嗅覚は視覚や聴覚と比べて原始的な感覚である。臭い(ニオイ)は顕在意識ではなく潜在意識に直接作用する。本能と言ってもいい。食べ物の臭い(ニオイ)、フェロモン、香水は、食欲や性欲を想像力を介することなく直接刺激するのである。チビ、デブ、ハゲなどと言われるのは見た目に対する愚弄だが、臭い(クサイ)と言われるのは人格そのものを否定されることに近い。日本のテレビコマーシャルではデオドラントの商品が次々に紹介される。他人から臭い(クサイ)と言われないためである。
山の手の高級住宅に住む人の臭い(ニオイ)と、下町の地下や半地下に住む庶民の臭い(ニオイ)はおのずから違うだろう。臭い(ニオイ)は衣服や住居あるいはその土地に充満している。食べ物をはじめとする生活習慣を変えた上で、何年も経過しなければ人の臭い(ニオイ)は変えられないかもしれない。歯医者にも長いこと通う必要があるだろう。
しかしそんなふうに生活を変えるのは無理である。だから格差は固定され、臭い(ニオイ)も固定される。そして臭い(ニオイ)によって差別される。温厚なキム氏にとっても臭い(クサイ)と言われるのは耐え難い屈辱であったことは間違いない。
格差が生じるのは向上心の差だと言う人がいる。それは正しいかもしれないが、格差が貧富の差であり保有財産の差であるとするなら、向上心とは金に対する執着に等しい。他人よりも沢山の金を稼ぐことが人生の目的である人が金持ちになる。競争原理の世の中で、ひたすら他人を蹴落として勝ち組に入ることに熱意を燃やす人々である。もともと勝ち組などという意味不明の言葉を作ったのもこういう人々だ。愛だの恋だのは庶民の暇つぶしでしかない。キム氏が愛を口にするのに対し、金持ちの主人は愛を鼻で笑う。そもそも生きる動機が異なるのだ。ひたすら自分と家族のことだけを考える奥様は、妹ギジョンの考え方さえ変えてしまう。他人のことなどどうでもいい、自分たちの幸せだけを追求すれば、こんなふうに金持ちになるかもしれない。
本作品は格差社会の現実を、ある意味で斜に構えながら描いてみせる。そして人間が生きる意味を問う。人は優しさを捨てなければ金持ちになれない。愛は優しさに裏打ちされるものだから、金持ちには愛はない。聖書には上着を盗ろうとする者には下着も与えよと書かれている(マタイによる福音書、ルカによる福音書)。それが優しさだ。そして奪う者は誰か。つまりはそれが金持ちである。愛か、金か。人は優しさをどこに捨ててきたのか。様々なテーマを投げかけつつも、人間の愚かさを笑い飛ばしてみせる、スケールの大きな作品である。アカデミー賞4部門、おめでとうございます。