「ほんとうは◯◯◯◯◯◯◯映画」ペイン・アンド・グローリー しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
ほんとうは◯◯◯◯◯◯◯映画
タイトルのpain(痛み、原題スペイン語ではdolor)とは何か?
物語のほとんどで、観る者はそれを、主人公サルバドールの持病による身体的な「痛み」だと“思わされる”。
その痛みを紛らわせるため彼はドラッグに手を出す。それほど、彼の身体の痛みはキツい。
そして物語の終盤、彼はドラッグを断ち、病気に向き合うために嫌いだった病院に行くことを決断する。
検査の結果、病名も分かり、手術が始まろうとしている。物語の全編にわたって描かれていたサルバドールの身体の「痛み」が、ラストで解決に向かう。
なるほど、「痛み」とは、このことか。
しかし、これは「引っかけ」だ。
なぜなら、本作には、サルバドールの生い立ちに関わるエピソードが大量に挟まれるが、これらは彼の身体的痛みとは関係がないのだ。
では、「痛み」とは何を指すのか?
それは、主人公の同性愛に関する母親との確執だろう。
物語の中盤、サルバドールは、かつて男性の恋人と同棲していたことを描いた脚本について、自分の名前で上演されることを拒んだ。
しかしラストでは、同性愛に目覚めたきっかけを描く自伝的映画を撮っている。
なぜか?
そう、これは主人公が、自分が同性愛者であることをカミングアウトしていく映画なのだ。
かつて故郷に住む母親は、サルバドールとの同居を望んだが、彼はこれを拒んだ。そして母親は死の直前までも、そのことを根に持っていた。
同居をすれば、彼の私生活は母親の知るところとなる。
サルバドールは、自身が同性愛であることを母親に打ち明けることはなかった。
年老いた母親がサルバドールのために祈りを捧げていた聖アントニオは、結婚に関する聖人である。
かつてカトリックでは同性愛を禁じていたし、差別的な見方は残っているだろう。
母親は村の熱心なカトリック信者と親しく、そのつながりから母親はサルバドールを神学校に進学させている。
サルバドールは幼い頃から、母親の期待を受けて育った。だが、彼女の希望である同居も受け入れず、また結婚もしなかった。
そう、ずっと彼は、自分が同性愛者であることを母への負い目にしていたのだ。
これが「痛み」ではないか?
しかし、サルバドールは自分のセクシャリティをあらためて受け入れ、生きる自信を取り戻していく。
そのきっかけとなったのが、昔の恋人との再会だ。サルバドールは、尋ねてきた昔の恋人に、「君を疎ましいと思ったことはない」と明言する。それが母親との確執を生んだとしても、かつての愛は揺るぎないものだったと捉え直すシーン。
こうして彼は、徐々に「痛み」を氷解させていく。だからラスト、サルバドール自身の同性愛の目覚めを描く映画の撮影シーンには、母親も登場するのである。
さて、タイトルのもう一つの単語「グローリー(栄光)」は何を指すのか?
それはラストでサルバドールが再びメガホンを取り、映画を作っていることではないか。
繰り返すが、この劇中劇の映画は、サルバドールにとって、ついに母親に言えなかった自身のセクシャリティについてカミングアウトする作品になるはずである。
このように、映画監督は自身の「痛み」すらも作品(栄光)に昇華させる。アルモドバル監督は、これが映画作りであることを、訴えたかったのではないか。
過去の回想シーンが、実はサルバドールが現在、撮影している映画だった、という“仕掛け”も楽しく、映画的な技巧が生かされている作品。
身体的な痛みと精神的な痛みを二重写しのように描く構造や、ドラッグという小道具が何重にも効いているなど、脚本も凝っている(ドラッグはサルバドールの代表作の主演俳優アルベルドとの対立の原因でもあり、かつての恋人との別れのきっかけにもなっている)。
老いを演じるアントニオ・バンデラスも渋く、ペネロベ・クルスは相変わらず魅力的と、見どころが多い。
最後に。
本作を「ニュー・シネマ・パラダイス」になぞらえる、この映画の宣伝文句は、この作品のメッセージをひどく歪めてしまっていると思う。