風の電話のレビュー・感想・評価
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忘れなくては先に進めない。けれど、忘れてはいけない事もある。 そんな想いのこもった作品です。
東日本大震災で被害に会った方たちへの鎮魂歌。
そのような作品なのかなと思い鑑賞しました。
震災後もうすぐ9年経ちます。
私も当時被災はしましたが、幸いに周りの人たちは無事でした。
そうではなかった方のことを思うと心が痛みます。
作品タイトルの「風の電話」。
この作品を通し、初めてその存在を知りました。
「岩手県大槌町」
「吉里吉里国」
これらの地名は知っていましたが、その中に実在したとは。
☆
東日本大震災で心に傷を負ったヒロイン。
身を寄せる叔母の家(広島)から岩手まで旅をする物語。
途中旅先で関わる人たちがみな親切。
( …悪いのも居たけど…)
三浦友和 ← なんか久しぶりに見た気が
西田敏行 ← 福島といえばやはりこのひと
西島秀俊 ← 二人揃って阿岐本組・組長&若頭
旅の途中で出会った人たちとのエピソードが語られますが
特に派手なイベントが発生するわけでもありません。
自宅のあった場所に帰り着き、ため込んだ感情を吐き出す場面。
心情が伝わってきました。
そして、広島に戻ろうとした駅のホーム
出会った少年から「風の電話」の話を聞き…
で
ラスト近くの↑の場面、気がついたらエンディング…
(1~2分? 寝てしまってました… がーん)
小説のラスト数ページ
読まずに終わったような気分です。。
何か大事な場面を見逃してないかなぁ…
☆
ヒロインの女子高生を演じたモトーラ世理奈ちゃん。
すごく自然に普通の女子高生を演じていました。
感情表現が上手い女優さんですね。
これまで作品を観る機会がありませんでしたが、今後が楽しみです。
(つい「モトローラ」と読んでしまうのはナイショ)
余談
三浦友和の母親役
認知症で、ヒロインを自分の娘と間違うのですが
次の瞬間 「あんた誰?」
周りの観客(シニア層)から自嘲気味の笑いが起こってました。
「高齢者あるある」
なのでしょうね。 ( … 誰でも「明日は我が身」です)
上映時間
自分がつい寝てしまったから言うワケではないですが
もう少し時間短めでもいいかも。 です。
寝る方が悪いんですけどね はい… でも
でもじゃありません はい しくしく
これから他の方のレビュー拝見しようと思います。
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
生きてるっていうのは、偶然かも知れないな
自分には合わなかった。
モト―ラの存在感は好きで、この映画の中でも格別だったが、なにか入り込めない。ドキュメンタリーとしては「この場面掘り下げるか?」と異質感が漂う。ロードムービーとしては「え?いまどこ?」「この格好で何日かかってんの?」的な違和感が付きまとう。だいいち、広島から岩手に行くまでには、いろんな地方の人に出会うのだから、場所の説明をしないなら方言でそれを表現してくれなくては。たいてい語尾にちょっと匂わす程度。ようやく西田敏行がバリバリ喋るくらいじゃないか。(この人の場合は、いつもそうなのでかえって浮いてしまう嫌いがあるが)
ハルが大槌までの道々、様々な苦悩を抱えた人びとと出会い、その姿にいつしか励まされながら、最後は自分が少年を励ます側に回る。そこはわかるし、電話の登場の仕方はむしろ印象的だし、なによりモトーラの物憂げな佇まいはやるせない。生き残った者の辛さ、むしろ残されてしまった者の寂しさ。悪くはないんだけど。どうも、独白の場面で胸に迫って来なかった。
震災に対する思いはあったのか?
雰囲気=表現豊か ❌
ちゃんとした考え、技術によって表現が豊かになるので、この映画に出てくる主人公からはそれが全く感じられなかった
即興演出=リアル ❌
まず持って無駄な即興演出。その人から出てくる「何が」が無いんだから。それがリアルだってんなら、エキストラと一緒じゃん。妊婦のくだりはとても面白く観れたし、西田敏行はなんか説得力あるけど、それ以外が芸能人から出てくる「リアル」な感情が見えてこなかった
脚本無い=ノープラン ○
いろんな事に無理がある
自分は思い出してもらえる人間なのでしょうか
風の電話を使うと、大切な人は自分の中にちゃんと居る事が改めて分かるんじゃないかと思う。
映画の中に、死んだら誰が思い出してやるんだという言葉がある。
自分はなんの前触れもなくふと故人の事を思い出す事があるのだが、この言葉を聞いて、故人は今も自分の中に居るのだなと改めて思った。
つまりは、この映画自体が風の電話の役割を果たしているのだ。
岩手県大槌町に実在する「風の電話」がモチーフ。東日本大震災の津波で...
岩手県大槌町に実在する「風の電話」がモチーフ。東日本大震災の津波で家族を失った少女の物語。8年経っても行方不明のままの家族のことを心に収めきれず、孤独や悲しみとともに、自分をも責めてしまう。大槌町までの旅での出会いの中で、少しずつ、心が開かれていく。食事の場面が何度も織り込まれ、何か、生きることと食べることの結びつきを感じさせる。ただ、最初、映画のペースがゆっくりすぎて辛く感じてしまった。
想像することしか…
ずっと一緒にいられると思っていた人達と営んでいた日常が、突然断ち切られてしまった喪失感を悲しみをどう生きていく自分の中で折り合いをつけていけば良いのか、そのような経験をしたことのない私は想像するしかない、本当に理解は出来ないだろうけど。
少女のロードムービーという形を取ることで、クルド難民も含めて悩みや問題を抱えながらもどっこい生きている様々な人々との触れ合いを自然に描く事が出来ていると思う。それが知らず知らずの内に少女に及ぼしていく影響も。主演の女の子は長回しにも最後まで眼をそらさせないところが立派。
追記:不謹慎ながら楽屋落ち―『任侠学園』の親分と若頭とが再度共演しつつ此処では全く違う芝居をしているのが役者だから当たり前ながら面白い。
生きているんだから食わなくちゃ!
食って出し、食って出し・・・当たり前の生活に慣れ切ってる者としては、こんな言葉にも共感してしまう。また、映画を観るまでは東日本大震災のことだけを扱ってるのかと思っていたのに、こうも現代日本が抱える問題点を抉りだしている内容には驚いてしまいました。
まずは土砂と瓦礫が残る広島豪雨災害の傷跡。民家が多く立ち並んでるのに、未だに土砂が放置されている現状。激しい雨が断続的に降り続いてる最中であっても、赤坂自民亭で宴会を続けていたというニュースも思い出しながら、災害復興とはインフラ整備だけでいいのか?という疑問さえ浮かび上がってきます。
そこで世話になった公平(三浦友和)は認知症の母親と二人暮らし。母親は6歳の時に原爆が落とされた地を訪れていた話を聞かせてくれる。もう災害(戦争を含む)はコリゴリなのだが、生かせてくれてるんだからとご飯を食べるのだ。徐々に生きることとは何かをハルに芽生えさせてゆくのです。そんな災害続きの広島では河井某議員が自民党から1億5千万もの寄付を貰い、公選法違反が疑われても堂々としている。この1億以上の金があればどれだけ復興できるのやら。
そして暴漢から助けてくれた森尾(西島秀俊)とともに福島まで向かうことになったが、埼玉に立ち寄った際にはクルド人問題、移民の問題が大きく投げかけられ、福島では森尾の友人・西田敏行が「福島から転校していった生徒がイジメに遭う」とアドリブで訴えかけてくるのです。もう、日本が抱えている暗黒面がこれでもか、これでもかと押し寄せてくる内容。泣かせる話とともに憤りさえ覚えてしまう映画でした。
さすがにハルの故郷大槌町では泣かせる話がいっぱい。明日香ちゃんのママとの再会も泣けるし、自宅跡の基礎が虚しさを煽る。そして“風の電話”。3万人もの人が利用したという天国への呼びかけ電話。風に乗ってあたかも声が届きそうで、幻想的でもある絵には涙を禁じ得ない。あらためて災害王国日本のあり方を考えなければと襟を正す思いでいっぱいになった。また、ハル役のモトーラ世理奈の演技力も驚きでした。
ヒッチハイクをするハルを拾ったのが、自分だったら……
この映画のように、とても悲劇的で絶対に忘れてはいけないことをテーマにした映画を見た後、いつも覚える無力感があります。
意図したわけではないと思いますが、この映画でも、ハルの心を溶かした人たちは、いずれもハルに劣らず、様々な苦境にある、もしくは経験している人たちなのです。自然災害から危うく助かったけど妻子には逃げられた人、事情は不明だが夫のいない高齢出産の母子家庭見込みの女性、自身も妻子をツナミで失いながら原発事故に必要以上に責任を感じている人。
それらの人たちが寄り添っている時、絶望の淵にいるハルの心にも何かが届くのです。
ホームで出会った少年の風の電話へ向かう動機が、不幸の影を感じない天寿を全うした大好きな祖父の声を聞きたくて、とかだったら、ハルはどう感じたのだろうか。
不運や不幸の重石を背負っていない人間でも、ハルの心を前に向かせる役割を担えるのだろうか。
もし私がヒッチハイクをしているハルを拾ったとしたら、後部座席で寝かせてあげること以外に何ができるだろうか。
何か言えるとしたら、こんなことくらいしかないと思います。
自分が経験したことの無い大きな喪失感について、どんなに想像しても同じ傷みを感じることはできない。だけど、人には想像もできないほど大きな悲しみや傷みを抱えた人がいることについて理解する努力はする。
乗り越えて行くこと
駅で知り合った少年と、風の電話に向かう坂道で、曇り空から太陽が差してくる場面が印象的だ。
ハルに、森尾が、
「死んだら、誰が家族のことを思い出してあげるんだ」と言う。
森尾は、原発が多くの人を不幸にしてしまったことを自分の責任のように感じ、自身も家族を亡くしたことによって、ずっと居場所を探し続けていたのだ。
森尾がハルに言った言葉は、自分自身に向けた言葉でもあったのだ。
坂の途中、ハルが少年に言う。
「お母さんに電話しなよ!心配してるよ!」
頼りなかったハルが、ちょっと大人になった。
一歩踏み出すのに時間がかかっても良いじゃないか。
もしかしたら、二歩目も同じかもしれない。
でも、確実に前進してるのだから。
「今度会う時は、ハルはお婆ちゃんになってるかもしれない」
電話のメッセージは生きていこうする決意だ。
家族は海の底や空の上にいるのではない。
ハルを近くで見守っているに違いないのだ。
僕は東北の出身ですが、山側なので震災の被害はありませんでした。
両親によると停電程度で、ライフインフラに問題はなかったと。
ただ、友人や知り合いの中には、親しい人を亡くした人がいたり、家が全壊認定で疎開せざるをえない人もいました。
好きだった中華料理屋も寿司屋も流されました。
中には、津波が来たのでトラックの荷台に逃れたら、それが船のように漂い、横転することなく内陸まで運ばれた助かったという人もいました。
ただ、思うに、作品の中に散りばめられる、ボランティアをしていた外国人が入管施設に収容されてしまった話や、疎開した子供が原発いじめにあったという話は事実なので、一体この国はどうなったんだと。
舞台挨拶付きの上映回を鑑賞しました。
ベルリン映画祭では、若者に向けたテーマの映画として上映されるよう。
日本でも、若者が観たら良いのに。
普通の映画としては観にくい
ドキュメンタリー×ロードムービー。
慣れないとちょっと違和感。
ロードムービー部分は、ストーリーがあって演技やセリフがある。
ドキュメンタリー部分は、台本がないような感じ。
2つの区切りがなく普通に切り替わっている部分もある。本当の話なのか物語なのか分からない。
ただ、ハッキリ切り替わりが分かる所もある。急にセリフっぽくなったり、演技っぽくなる所がある。
まるでミュージカル映画でいきなり歌い出す感じ。慣れるまでは違和感がある。
モトローラは可愛らしいが、演技がどうなのだろう。素人っぽい演技はよかった。ボソボソっと感情なく喋るシーンがよかった。最後の長ゼリフもよかった。でも、感情が爆発する2シーンは冷めてしまった。ただ、この流れで急に?と思うところなので、演技の問題ではなく、演出の問題かも。
映画についても、予備知識がなかったので、はじめはドキュメンタリー部分が気になる。
岩手の津波
福島の原発事故
広島豪雨
ヒロシマの原爆
難民受け入れ
クルド人問題
など、詰め込みすぎ。
もっと焦点を絞った方がいいかと。
時間が経つと逆に、ロードムービー部分が違和感。事実にもとずく話は演技や演出なくても、単純に心に響く。涙も出る。が、急に演技が入ってくるとら冷めてしまう。
何とも観かたが難しい映画だった。
単純に、震災から10年経って、こういう映画が普通に観られるようになったことは良い事だと思うし、「Fukushima50」(予告だけしか観てないけど)のようにドラマチックなストーリーでは無い、普通の人々の体験が知れることには意味がある。淡々と描かれているのがよかった。
こころを旅する少女
帰郷する旅の途中で出会う様々な人々との交流と励ましから、ふと気づいた風の電話で、家族と会うときはお婆ちゃんになってるねと、自分の心の中に生きている家族との対話、それは自分との対話であろうが、生きる決意をしていくモトーラ演じるハルの姿に涙を誘われた。
心の再生の旅での出会いの構想は、無数に練られたはずであろう。果たして選択として、これほど幾つもの災害や事故による不幸の中を通過させなければ風の電話にたどり着ける物語を描けなかったのであろうか。ましてやクルド問題や入管の問題までの挿入はハルの心の動きを追う物語にとっては余計な雑音のように感じてしまった。
【悲しき天災と愚かな人災により故郷を離れた少女が、人の情けに助けられ再び、故郷を目指す。被災地域復興の現状を踏まえ、行政機関への激しい怒りを静かなトーンで描いた作品でもある。】
岩手県大槌町で被災し、広島の叔母の家で暮らすハル(モトローラ世理奈)がある出来事をきっかけに故郷を目指す、魂再生のロードムービー。
様々な人達の情けにより、少しずつ身も心も故郷に向かうハルの姿。
情けある人達は新たな生命をハルに紹介する人であったり、
天災・人災により家族を喪った人モリオ(西島秀俊)であったり。
又、かつて福島県の復興支援をしたが、何故か入国管理局に一年以上勾留されているクルド人の家族、友人であったり。
ハルは多くの人の情けに触れ、徐々に表情が豊かになっていく。
(モトローラ世理奈の表情、姿に釘付けになる。)
そして、あの素晴らしきシーンに繋がる・・。
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東京オリンピック開催は、国家機運の高揚、経済発展の後押し(主に儲けているのは大手ゼネコンなどではあるが・・)喜ばしい事である。
が、その前にあの日が来る。東京オリンピックは次にいつ来るか分からないが、あの日は毎年来る。
だから、私たちはあの日及びその後に起こった事
(劇中でも、西田敏行さんが”福島弁で”雄弁に語っている。あのセリフは全て、福島県人としての怒りが込められた西田さんのアドリブだそうである。) を忘れたフリをせずに、いつまでも覚えていなければいけないと思う。
〈東北沿岸三県に縁のある者として、観る事を躊躇していた作品だったが、観て良かった。
エンタメ作品としては静かなトーンの映画であるし、レビューで普段はこの様なコメントは書かないのだが、東北の復興は政府が言っているような状況ではない事を知って欲しく(関係者の方々の頑張りには本当に頭が下がる思いだが・・・。私は毎年進捗を現認している。)、多くの方々に観て頂きたいと思った作品である。〉
震災からもうすぐ10年。その日本から、ついにそしてようやく発信する。世界中のありとあらゆる傷心の人々へ捧げる歴史的名作です。
これからも世界中に起こるであろう天災と、そこに立ちすくむしかない自然の一部としての私たち、人間。
そして、復興。
それは、現実に家族や住む場所を失ったり追われたものが、簡単に発することのできるような言葉ではありません。むしろ客観的なよそよそしささえ想起させます。失ったという事実はもう取り返しがつかないのであり、そこにあるのは復興などではなく、あきらめとその先にある昇華でしかないからです。
どう乗り越えるか。それだけが事実です。
その意味で、劇中の少女は、そのことを意図せずに、乗り越えよう乗り越えようとして、故郷の現状を確かめずにいられなかったのだと思います。家族の不在も含めて。家族の不在と故郷の消滅を、確かめたかったのだと思います。自分の目と心で。それは、決して後ろ向きの旅ではなく、まさに成長と進化への道程です。
ひとしきり泣いてどうしようもない悲しみを噴き出すことを自分に許した後、湧き上がってきた生きることへの希望と決意。静かではあるけれど、ささやかな自虐の笑みまで湧き起こせる力さえ自身の中に感じます。それこそが乗り越えた瞬間なのかもしれません。
ラストの10分間はまさにその体験を、少女と共にすることになります。モトーラさんは、恐らく演技ということを忘れ、劇中のハル自身になっていたことを確信します。演技という世界があるならば、これ以上の演技と表現が、存在するでしょうか。
もはや「鑑賞」などではない。傷つき閉ざされた心が、そして魂が、昇華されていく。その瞬間をモトーラさんや他の役者さんを通して「体験」する映画です。
震災後10年。自然の驚異と戦い続け、そして共生を模索するこの日本から、ついにこれだけの発信をすることができたことに、同じ日本人として誇らしさまで感じます。制作に携わった皆さん、ありがとうございました。
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