「当事者ではない者にできること」ホテル・ムンバイ 琥珀さんの映画レビュー(感想・評価)
当事者ではない者にできること
映画的演出がどの程度なのか知る由もありませんが、以下のことは事実なのだと受け止めています。
・多数の死傷者が出たこと
・ホテル従業員の多くの方が自らの意思でホテル内に留まったこと
・テロの首謀者は身の危険が自分に及ぶことのない場所にいて、客観的な判断力が身につくような教育を受ける機会のない貧しい少年たちを洗脳した挙句、捨て駒前提の実行犯に仕立て上げたこと
・ムンバイというインドでも有数の大都市であっても、テロ対応が可能な組織や体制が未整備だったこと。
それらの事実のひとつひとつについて、想像力を働かせることが、とても大事なことだと痛切に感じました。
犠牲者やその家族の無念、ホテルに残った従業員の崇高さ。これらについては誰もが思うことだと思いますが、〝生き残ってしまった〟ことで自分を責めてしまう人、ホテルから先に逃げた人たちが感じてしまうであろう罪悪感、についても考えてみたい。
このような痛ましい事件や事故が発生すると、事象そのものは収束したとしても、必ず二次的な精神的被害者が生まれてしまいます。心身が受けた傷について、死傷者との比較という文脈では語ることのできない困難な問題です。
事件の当事者ではない人間ができることは、想像力を働かせて、そういう傷みを抱えている人も存在するのだということに思いを致すことかもしれません。〝寄り添う〟という行為は勿論、それだけではないはずですが、たぶんそういうことも大事なこととして含まれると思います。
テロの首謀者は、若者を実行犯に仕立てる為に、イスラム教について都合よく勝手な解釈をしているだけで、イスラム教の教義や考え方がテロを促している、という危険な誤解は決してしてはいけないことだと思います。
憎むべきは、宗教的権威を振りかざしてテロをばら撒く一部のリーダー的な確信犯。
ただ、イスラム教圏の多くが、自然環境が厳しく(砂漠や乾燥で農作物の育成が難しい)、経済・教育環境も不安定(石油の富の多くは一部に偏っているし、製造業や小売業・サービス業といった雇用を多く生み出す産業も少ない…結果的に仕事ができる層の人たちという人材育成、すなわち教育という制度作りが不十分)であり、子供たちが洗脳されやすい状況にあることも否定できない。
それでも、そのようなことを想像しながら、世界のニュースに触れ、政治家の言動を気にすることに何らかの意味がある、と私は思います。
憎むべきは宗教的権威を振りかざしてテロをばら撒く一部のリーダー的確信犯。これに深く同意。一見、実行犯である若者のテロリストに批難の視線が向けられがちだが、裏にはテロリストを操り自分たちは安全な場所に身をおいて指示をだすだけの首謀者が悪の元凶であることに妙に納得できました。
うまく言えませんが、頭の回転が早くて相手を言い負かすのが得意、とか知識量の差で相手を見下してしまう、とか、他者からの受け売りの見方による決めつけをする、というようなことではなくて、なぜそういうヒト、コト、モノが今そこにあるのか、どういう成り立ちでそこに存在するのか、というようなことについて想像を巡らすことができるような寛容な知性が必要だと思っています。とはいえ実践するのは難しくて、私自身まだまだ修行中です。
kazzさん、ありがとうございます。
少し乱暴に一言でくくるとすれば、教育とはすなわち世界の多様性・多面性についての理解とそれを受け容れる度量を養うことだと、私は考えています。ところが、不運にも貧困な環境にある方々はその教育を受ける機会が絶望的に限られているという現実があるのだと思います。
無力感に捉われる一方、自分にできることが何かないか、最近はそれについて色々と模索中です。
原理主義者に洗脳される若者を産まないためには、教育が必要だと思ったのですが、教育が行き届かない背景には貧困があるのでしょう。
そして、原理主義のリーダーが異教徒を敵対視する背景にも貧富の格差があるのだと思います。
異教徒が富を奪ったのだと。
そこに、宗教差別も加わりますよね。
原理主義者って、イスラム教徒にだけでなく、キリスト教徒にもいるし、他の大小宗教宗派にもいますから、実に厄介だと思います。
たくろ〜。さん、コメントありがとうございます。
誤解があるといけないので教えてください。
ここで仰るところの偽善とは、生き残った人たちの心情を想像するのは、本心では逃げた人を非難してるはずなのに、同情して寄り添う振りをしているという意味でしょうか。
それとも『生きてるだけで丸儲け』なのだから、その生き残った人たちが悩んでいようが、あー、助かった、良かったと思っていようが、そもそもそこに他人が想像力を働かせることに意味がないし、思い遣ってる振り、すなわち偽りの同情をしていることになる、ということでしょうか。
前者の場合、私自身が『沈黙 サイレンス』のキチジロー(殉死よりも棄教を選んでしまう)のように弱い人間なので、非難などできませんし、自分だったらたぶん何がしかの救いのようなものに縋ってしまうと思ってます。
後者の場合、今上映中の『楽園』における杉咲花さん演ずる紡さんの苦悩(誘いを断った友達が行方不明、たぶん死んでいるのですが、自分が付き合ってれば助かったのに、という自責の念を抱えている)などもわざわざ映画で取り上げるほどのことではない、ということになるのでしょうか。
なお、24時間テレビは手厚いケア付きでタレントが走るマラソンがあることしか知らないので、その胡散臭さの性質がよく分かってません。その点はご容赦ください。という言い回しがもしかして胡散臭い印象を与えてますか?
本心を隠してるつもりはないのですが。
私の好きなことばの1つは「生きてるだけで丸儲け」です。生存者に対する想像力はたんなる偽善です。24時間テレビ的な胡散臭さを感じます。でも。イスラム教徒のテロリスト少年たちに、その背景に想像力を働かせるのはその通りだと思います。テロリストが名前を英語で聞くというシーンで劇場で笑いが起きていたことに私はぞっとしました。映画の内容よりも恐怖だったかも。想像して理解し合うって想像以上に難しいのかもしれませんね。
琥珀様
〝生き残ってしまった〟ことで自分を責めてしまう人、ホテルから先に逃げた人たちが感じてしまうであろう罪悪感、についても考えてみたい。
私は上記のコメント部分まで考えが及びませんでした。感服です。(この事件がトラウマになっているので、私は感傷的なレビューになってしまいました。)
この映画が上記の部分まで踏み込んでこの事件を描いていたら更に奥深い映画になっただろうと思いました。
返信不要です。