「ミュージカル仕立てのEltonJohnの半生記」ロケットマン HALU6700さんの映画レビュー(感想・評価)
ミュージカル仕立てのEltonJohnの半生記
幾多の大ヒット曲を世に送り出し、5度のグラミー賞に輝く音楽界のカリスマ的存在でもある、エルトン・ジョンの半生を、豪華絢爛な映像美で描き、そのヒット曲とともに辿ったミュージカル映画。
この様に書くと、昨年に社会現象を巻き起こした大ヒット映画、Queenのフレディ・マーキュリーの半生を描いた『ボヘミアン・ラプソディ』が想起されるかと思いますが、当然の事ながら、似ているようで、かなり違いました。
この映画は、依存症のグループセラピー活動に参加したエルトン・ジョン(タロン・エガートン)が語る赤裸々な自らの回想から始まります。
イギリス郊外。少年レジナルド(レジー)・ドワイトは、厳格な父親とは滅多に会えず、たまに会える日もハグされることもなく相手にされない。
母親もまた冷たくて、或る日、母親が車の中で不倫している現場を見てしまったレジー。間もなく父親は家を出て行き、代わりに不倫男が家に住み着くようになったのでした。
そんな彼を慰めるのは音楽。或る日ラジオの音楽に合わせ、即興でピアノ伴奏を行ったことに母親と祖母が驚き、それから本格的にピアノレッスンを始め、天才的な音楽の才能に恵まれていたことから、イギリス王立音楽院に奨学生として入学するのでした。
それも束の間、クラッシックよりもロックに傾倒した彼は、パブに行きバックバンドを務めるようになるのでした。
レジーは、そのバンドメンバーに音楽で成功するにはいったいどうしたら良いかと尋ねると、「なりたい自分になるには、先ずは生まれた自分を捨てることだ。」と教わるのでした。
古臭い自分の名前を捨てて、レジーはバンドメンバーのエルトン・ディーンに、「僕はこれからエルトンと改名するよ!」と宣言するのでした。
そしてエルトンは、新聞広告を見てレコード会社の面接を受けると、即興でピアノを弾くエルトンに感心しきりの社員でしたが、エルトンは、「実は、歌詞が書けない」と告白するのでした。
すると、この会社に応募されていた歌詞を渡され、「この詩で作ってみて」とチャンスを貰うのでした。
「ところで、エルトン。君の姓は?」
エルトンはとっさに、壁に貼られたビートルズのポスターを見て答えるのでした。
「ジョン・・・。エルトン・ジョン。」
以後レジーは、「エルトン・ジョン」と名乗るのでした。
家に戻って歌詞を読んだエルトンは、そのセンスの良さに感動するのでした。
「直ぐさま、この作詞者に会ってみよう」
そして、エルトンは、この作詞家のバーニー・トーピン(ジェイミー・ベル)との運命的な出会いを契機に、そこからは一気に、スターダムを駆け上がって行くのでした・・・。
といったイントロダクションの映画でした。
それにしても、エルトン・ジョンの場合には、歌詞先行で、それに合わせて楽曲作りをするというのが、あの繊細なメロディラインが後付けで作られていたと言う点が、私には、あまりにも意外でした。
ド派手で奇抜な衣装、豪華なステージが再現され、「ユア・ソング(僕の歌は君の歌)」や「クロコダイル・ロック」、「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」などの数々のヒットナンバーとともにミュージカル仕立てで、その生き様が語られて行くのでした。
タロン・エガートンが、吹き替えなしの巧みな歌とダンスで、エルトン・ジョンになりきり熱演。
彼もまた、『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年)でフレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックの様に、アカデミー賞はじめ今年度の賞レースを賑わしてくれそうなくらいに、演技・歌・演奏・ダンス、全てにおいて完璧と言わしめるほどに、素晴らしかったです。
エルトン・ジョンに対しては、私も、その素朴で心揺さぶられる楽曲に対して、ビジュアル面で、風変わりな衣装とのギャップに不思議な思いを持っていましたが、今作を通して何故だったのかが全て分かりました。
また、歌詞の内容が、エルトン・ジョン自身の苦悩と不思議なくらいにリンクし、また、その苦悩の要因のひとつがLBGTに拘わる自身の性癖という点も、如何にも『ボヘミアン・ラプソディ』とも似てはいるものの、フレディ・マーキュリーの様に、まるで拳を突き上げて周囲に連帯を訴えるかのようでもなく、エルトン・ジョンの場合には、あたかも道化師の様なド派手で奇抜な衣装を鎧の様にまとう事により、その苦悩は心の奥底にひた隠しにしながら、陽気な人柄を演じているといった孤独なスターの二面性。
そして、その成功の陰で、自分の殻にこもって、アルコール、ドラッグ中毒など様々の依存症を抱えていたのでした。
その苦悩の根っこにあるのは、やはり、子供の頃に負った、愛に飢えたトラウマ。
「ただ愛のあるハグをして欲しかった。」という愛を希求する気持ちが痛切に響いてきました。
また彼の人生に更なる苦悩を与えたのは、名声を横取りしようと謀る別会社のマネージャーの存在。ゲイであるが故のエルトン・ジョンを心身共にかどわかし利用している点で非常にたちが悪かったですね。
この点は『ボヘミアン・ラプソディ』のフレディ・マーキュリーともソックリな状況でしたね。
そんな中、エルトン・ジョンが、薬物の過剰摂取で、正気を失って、自宅のプールで溺れてしまう場面が、実にスターの孤独を象徴的に物語っていましたね。
製作総指揮として自ら参加したエルトン・ジョンが、この様な、自身の人生の谷間も包み隠さずありのままに見せている点で、観客にも、かなり共感を呼ぶ作品となっていました。
タイトル名にもなっている楽曲の『ロケットマン』。
宇宙飛行士の曲ではあるものの、名声を得るのと引換えに孤独な宇宙へと旅立つ姿は、これもエルトン自身の事を歌っているとも考えられる事から、あえてこの伝記映画のタイトルにもなっているのでしょうね。
彼の最も有名な曲のひとつ『ユア・ソング(僕の歌は君の歌)』の、曲が出来上がる過程がすごく短くて印象的でした。これぞ、天才たる所以でしょうね。
そして、また狂っていくエルトン・ジョンを支え続けた存在。
エルトン・ジョンと二人三脚で曲作りをしていた作詞家のバーニー・トーピンの存在が彼を救ってくれていました。
エルトン・ジョンとバーニー・トーピンとの友情がすごく眩しかったです。
さて、『ボヘミアン・ラプソディ』と比べますと、ブライアン・シンガー監督の降板の後を引き継いだデクスター・フレッチャー監督が同じくメガホンを採った、イギリスが誇る有名歌手の伝記映画という面では同じですが、今作はエルトン・ジョンご本人が存命中に、自らも製作総指揮に立って作られた作品であるという事が大きな違いではあります。
また、本作では、出来る限り、赤裸々にありのままにエルトン・ジョンの半生を描いてはいますが、Queenのフレディ・マーキュリーの半生を描いた『ボヘミアン・ラプソディ』は、ほぼ史実に即した伝記映画であるのに対して、本作では曲の製作順序が時系列じゃない点で、ファンタジーミュージカルという位置付けになっている点が異なるかと思います。
そしてまた、少年時代の1950年代から今から約30年ほど前までの1990年頃までのリハビリ施設に入るまでのエルトン・ジョンの40年間に焦点を当てて描いたお話ということで、それ以降の曲は、ほぼ出てこなかったのですが、唯一、バーニー・トーピンとエルトン・ジョンとのコンビによる書き下ろし曲。主演のタロン・エガートンとエルトン・ジョン本人とのデュエット曲「(アイム・ゴナ)ラブ・ミー・アゲイン」で映画が幕を閉じる形を採っていました。
私の場合には、『ボヘミアン・ラプソディ』の鑑賞時の様に、今作では泣くまでには至りませんでしたが、エルトン・ジョンが苦悩してきた半生を、かなり上手くミュージカル仕立てで構成してあって、感動的な作品ではありました。
また、神童だったレジー少年をエルトン・ジョン自身が最後に抱きしめてやる心境に至る点で、本当の意味合いで、エルトン自身にとって自分の半生を回顧しながら、もしや実際にセラピー的な効用を果たす映画でもあったかも知れないですね。
私的な評価としましては、
<エルトン・ジョン>を名乗ってスター歌手を自ら演じながら、幾多の大ヒット曲を世に送り出し、英国王室からも「Sir」の称号まで与えられるという栄誉を授かるまでに至る反面、その陰では酒とドラッグなど数々の依存症に溺れ、同性愛の恋人には利用されるといった苦悩の日々を送っていたという事実を知って、あの繊細なメロディラインからはかけ離れた、かなりギャップのあるド派手で奇抜な衣装は、そういった彼の弱い部分の苦悩の色をひた隠しにするため、彼のステージに向かう際の戦闘服であり鎧であったと思うと、納得が出来ました。
使用楽曲は決して製作順序が時系列ではないのですが、要所要所で上手く使用されていて、<ファンタジーミュージカル>という形式も決して悪くないとも思いました。
ただ、ミュージカル映画が根っから苦手な人にはもうひとつな構成かも知れないですね。
どうしても、あの『ボヘミアン・ラプソディ』と比較してしまいますが、あちらは口パクではありましたが、唯一無二のフレディ・マーキュリーの声を尊重してあえて使用した伝記映画であり、今作の『ロケットマン』は、エルトン・ジョンを演じるタロン・エガートンが吹き替えなしの生歌を披露してくれていて、凄く上手かったのもありますが、ちょっと楽曲の持つパンチ力の点では、やはりQueenには敵わない面もあり、五つ星評価的には、ほぼ満点に近い、四つ星半の★★★★☆(4.5)の評価とさせて頂きました。