「魔法にかけられた人は至福の愛に触れられる」ライフ・イットセルフ 未来に続く物語 琥珀さんの映画レビュー(感想・評価)
魔法にかけられた人は至福の愛に触れられる
一種の群像劇で、5章立てで構成されています。
そして、冒頭第1章から、好きな人にとっては、堪らないんだろうなぁ、という要素で見事に監督の術中にハマります。
❶オスカー・アイザックとオリヴィア・ワイルド演じる恋人同士の二人は、『パルプ・フィクション』が大好きで、劇中のパーティーでトラボルタとサーマンに扮し、注射で蘇るシーンまで再現されます。パーティー参加者もみんな、その映画(シーン)に興奮します。まるで一般教養のようにタランティーノ映画を知っている仲間たちという状況だけで嬉しくなります。その上、サミュエル・L・ジャクソンのナレーションとカメオ出演‼️
❷第1章のウィル(アイザック)はアビー(ワイルド)のことが、もう好きで好きでたまらない。一目惚れの瞬間の情熱が尚一層高まることはあっても冷めること無く、結婚、妊娠、あの事故の後までも続きます。お互いを見つめ合う距離が鑑賞者にも伝わるよう、顔面どアップでの会話が続くのですがこの2人の美形と表情が観ている側にもバーチャルリアリティのように刷り込まれ、ここで感情移入の魔法が発動。第2章以降もこの2人のことが自分の中の記憶のように脳の記憶装置である海馬に留まり続けます。
❸そして、ボブ・ディランが好きな方(私は意識的に聴いたことがなかったので、鑑賞後、山野楽器でベスト盤購入、それを聴きながらこれを書いてます)がどう受け止めるのかは分かりませんが、アビーはディラン大好き女子で、アルバム『タイム・アウト・オブ・マインド』とディランの復活と楽曲のひとつ『メイク・ユー・フィール・マイ・ラブ』について、どアップの恋人目線で語るのです。既に魔法に落ちてる私は恋人の言うことを理解するために、当然のようにアルバムを聴こうとして探したのですが、ベスト盤しか在庫が無く、その曲が収められているものを買った、という次第。
ディランそのものが、劇中でアビー(オリヴィア・ワイルド)語るところの〝信頼できない語り手〟として効いてくるのですね。最初はナレーションを務めたサミュエルのことかな、と簡単に騙されていましたが、第2章以降の展開で明かされていきます。
〝信頼できない語り手〟については、学生時代のアビー(オリヴィア・ワイルド)が卒論のテーマとして哲学的・文学的な論考のひとつとして提示されます。
哲学といっても何となく分かったつもりという程度で十分です(私はそうでした)。映画を楽しむうえでは影響ありませんのでご心配なく。
以降の各章に登場する人達も実に魅力的です。
スペイン編もそれだけで重厚なドラマになっています。
誰にも媚びない、それでいて気負いもなく、淡々と自分の人生を全うする潔さ(ゴンザレス)。
人を愛するために生まれてきたとしか思えない、それでいて綺麗事とか嘘っぽさのようないかがわしさを微塵も感じさせない女神のような田舎娘(イザベル)。
強欲な父から相続した遺産で、まるで罪滅ぼしのように慈愛の人として振る舞う孤独で愛に飢えたオリーブ農園の経営者(サチオーネ)。
『ラブアクチュアリー』とか『アイネクライネナハトムジーク』のようにそれぞれの物語が〝愛〟で繋がり最後は……、などと書くとありきたりな、二番煎じみたいな作品と誤解されそうですが、第1章で魔法にかかった人にとっては、いくつもの愛に包まれる珠玉の2時間を味わえる作品だと思います。
ファミリー・ツリーの起点となるウィルとアビー(アイザックとワイルド)、ディランの音楽。
(起点、と書いちゃいましたが、ウィルとアビーの両親も外すことのできない魅力的な人たちです。)
それらとともに、色々な思いがジワリと心に沁みてきて、エンドロールを迎える頃には、頰に涙の川が何本もできていました。
私が今作を鑑賞した劇場では、第一幕の途中からすすり泣きが響いていました。(私が一番煩かったかもしれません・・。)
あの数々のシーンにディランの曲を被せてくるのは反則技であると思います・・。
久しぶりに僥倖感を深く感じる事が出来る作品(魔法にかけられる作品)でしたね。