命みじかし、恋せよ乙女のレビュー・感想・評価
全34件中、21~34件目を表示
ユーは何しにドイツへ?(シャレなので突っ込まないでください)
オープニングとラストの妖怪画。端的に言うとストーリーは「ベルリン牡丹灯籠」。カールも災難続きだったが、凍傷になったチン〇が痛々しい。性同一性障害と考えれば納得もいくのですが、幽霊と愛し合っていたことも原因の一つだったのだろうか。
小泉八雲にしても、ヨーロッパの文化と違い、日本の幽霊話に興味を持ったからこそ、日本で活躍したのだろうし、この監督もきっと『雨月物語』あたりを鑑賞して興味を持ったに違いない。そんな昔の怪談話を現代風にLGBTを取り上げ、アルコール依存症という病をも描き、生きることの勇気を伝えたかったのだろう。
また、額にハーケンクロイツを描いた少年によって反ナチというメッセージも残し、反戦思想を持ってる樹木希林の起用も思い立ったのではないか。静かに展開するストーリーの中だけに、観終わった後からじわじわと感じるものがあった。
人間の複雑さは幽霊よりも怖い
昔、ドイツに行ったときにドイツ人はほとんど幽霊を信じないと言われたのだが、だからこそ日本を登場させ、あえてそこから幽霊を引っ張り出してきた作品だったのだろうか。
子どもの頃から抱える家族関係の葛藤、現在も苦しむアルコール依存症、それらによる幻覚症状など、精神的な病と闘う主人公の心の隙間に入り込むようにやってきた一人の怪しい日本人女性。
ドイツの重々しい雰囲気の景色の中に突然現れたユウというその女性の存在がとびぬけて浮いていて、彼女の存在は幽霊なんだろうなと最初からわかってはいたけど、幽霊というよりも妖怪のようにも見えて、ある意味おもしろさも含んだ存在に見えてしまった。
小津安二郎監督や是枝裕和監督が海外でも愛された名作映画の執筆を手掛けてきた「茅ヶ崎館」が後半の舞台となっており、ここの宿の主人が現代の日本映画を支えてきた樹木希林さんという日本作品に対するリスペクトはすごく感じられる作品だったけど、茅ヶ崎館はすばらしい旅館なのは間違いないのだろうけども、ロケーションとして茅ヶ崎が弱い事を実感してしまい、地元民として見ていて申し訳なくなってしまった。
希林さんに対する追悼のメッセージがエンドロールに添えられていた事がとても嬉しく感じました。
死の闇に生を差し出す必要はない
数日間あるいは数か月間という比較的短時間の物語であっても、他の登場人物はいざ知らず、少なくとも主人公の過去については、物語の中で語られることが多い。日常の瞬間的な景色や風景を切り取った作品などには登場人物に関する説明が一切ないこともあるが、主人公の人格が物語に重大な影響を与える場合には、生い立ちから語られることもある。
人間の人格は気質などの遺伝的な要素に加えて、乳幼児期に決まる気性、それと経験と記憶によって形作られる。記憶の殆どは無意識の領域にあり、大部分は自覚がない。だから本人から話を聞いても、それは人格を形作るほんの一部であり、どれだけ長く話を聞いたとしても、本人の話だけでその人を理解するのは非常に困難である。意識と無意識の割合は、一説によると一対数万と言われている。人間の人格は無意識の内にあると言って過言ではない。
加えて人間は嘘をつく。記憶は本人の望むように改変されるから、嘘をついている自覚がない場合もある。そういった条件が人間相互の理解を困難にしている。他人と理解し合えたと思うのは錯覚である。さもなければ奢りだ。人間は生物の中で最も高等だから、最も個体差が大きい。特に精神世界については千差万別であり、まさに人それぞれだ。共通点よりも差異のほうが圧倒的に多い。深くて狭い川があるのは男と女の間だけでなく、すべての人間同士の間にある。
しかし理解し合えないことを嘆く必要はない。寧ろ理解し合えないのが当然と思っていれば、たまに同じ星を見て美しいと言い合えることが大きな喜びになる。人は誰でも心の奥に混沌とした闇を隠している。自分でも上手く説明できない闇だ。広大な闇の世界に光を当て、その姿を朧気に浮かび上がらせると、人類に通じる真実が見えるかもしれない。
本作品に登場する「ゴンドラの唄」は、黒澤明監督の「生きる」で象徴的に使われた歌である。昨年(2018年)の秋に赤坂でミュージカル「生きる」を観劇した。主人公渡辺勘治を鹿賀丈史と市村正親が交互に演じるダブルキャストで、当方が観劇したのは鹿賀丈史のほうだった。とても味のある歌を歌う人で、テレビで「Allez Quisine!」と元気に叫んでいたときから月日は流れ、いまでは枯れた男の哀愁を醸し出す。
本作品の主人公カールはエリート銀行員からアル中に身を落とし、妻子からも捨てられそうになっている。この男がこれからどのように世界と関わっていくかが作品のテーマだから、彼の生い立ち、トラウマ、妄想などが描かれる。意外に複雑な人間関係で、そこに登場するのが謎の日本人女性ユウだが、トラウマを解(ほど)くよりも、ありのままを肯定しようとする。思えば主人公は否定される人生だった。しかしユウは何も否定することがない。流石ニーチェの国の映画である。肯定が力強い。
ドイツ語と日本語と英語がランダムに出てくる作品である。神はどこにも出てこない。代わりに幽霊や悪霊が跋扈し、主人公の精神世界の闇を描き出す。闇を拒絶し現実から逃避するためにはアルコールが必要であった。しかしアルコールは闇をさらに大きくするばかりである。ユウと行動をともにしてトラウマの場所を尋ねることで、闇を闇として心に抱えて生きていく覚悟がいつの間にかできたようだ。神を否定し、生を肯定する。パラダイムはもはや意味を成さない。
祭は共同体の精神世界を操るものだ。かつてはシャーマンが祭を取り仕切った。いまでは祭は形骸化して形式だけのものとなっているが、参加者の誰も意味がわかっていない祭の手順には、霊的なものが潜んでいる。祭の中にこそ人間の闇があるのだ。幽霊も悪霊もそこに集い、打楽器のリズムや掛け声の中で練り歩くうちに、人々の中の闇が少しばかり解き放たれる。ある種の浄化作用である。
主人公がこれからどのように生きるかは不明だが、世界との関わりは確実に変化した。樹木希林が演じた老女将は、主人公の浴衣の左前を右前に直す。象徴的な場面だ。死者の世界との決別である。彼女がカールのお尻をポンポンと叩きながら「生まれてきたんだから、幸せにならなくちゃ」と言うときにも、やはり生を力強く肯定する世界観が示されている。日本語が理解できないはずのカールも何故か晴れ晴れとした表情を浮かべる。生は死を内包しているが、死の闇に生を差し出す必要はないのだ。そんなふうな映画だと思う。
名作
実は名作『HANAMI』の続編。いろんなディテールに、日本人から見ると違和感あるのはデリエによくあることだけど、はまるとそんな違和感を超える(そんな違和感をプラスにひっくり返す)圧倒的な迫力が生まれることがあり、『HANAMI』同様これもそんな映画だった。
内容は豊富すぎて一度では理解しきれない。
樹木希林さんの生気が抜けた、ほどほどの演技が遺作となった。
「生きる(黒澤明監督)」のオマージュ映画であり
「HANAMI」の続編
なぜか貞子みたいなシーンもありますが、小泉八雲さんの世界観もある。
「夢(黒沢監督)」からは雪あらし?、「白痴(黒沢監督)」からは表現方法をアルコール依存症等に変えベースとしたようだ。
現代の”生と性の狭間”を表現した映画なのだが、
いじりすぎていて、単なるインディーズ映画になり、シーンの関連性も混乱を招く構成編集になってしまっている。
埃や音に対する拘りが無いというか、撮影の質も呆れてしまうレベル。
光や影にも、気を配ってほしいばかりか、”瞬きをしない”演技も行う冪。
ただし、生を左前で表現したのは見事だ。
翻訳者は最後のエンディンングタイトルもちゃんと訳してほしい。
この映画は監督の前作「HANAMI」を観てから映画館に行くべきだ。
そうでないと、ストーリーが最初から最後までつながらない筈だ。
ゴンドラの唄
いつも酒に溺れて家族と別れ仕事もしていないドイツ人の主人公のもとを、父親と知り合いで主人公家族と因縁がある日本人女性ユウが訪れ巻き起こる話。
陥没パンダのラッパ飲みとかセーラー服に浴衣にジャージというなかなかぶっ飛んだビジュアルだったり奇妙な言動のユウと、チョイチョイ何かがみえちゃう万年酔いどれカール。
彼女と出会ったことでカールは久しぶりに兄姉と会う機会が出来たり、過去を振り返って行くストーリー。
オープニングの映像から怪談であろうことはみてとれて、じゃあ何がオカルトで何が事実かというところだけど…まあそうだよね。
後は背景なんだけど、カールにしてもユウにしても殆どそれが描かれていないし、二人の関係性も親父との関係性も良くわからないというね。
しかも途中、話が前後しちゃってる様なところもあったり、浴衣や下着の様子からして別の問題も入れてきたり。中途半端なその設定いりますか?というね。
残念ながら雰囲気だけで響くものはなかった。
ドイツから見た日本?ちょっと難しい
樹木希林目当てで鑑賞。
ちなみに樹木希林は最後の20分くらいしか出ません。でももちろん重要な役。
アルコール依存症
家族の関係
心の病と幻覚
性同一性障害
など、テーマは重い。
前半は難しい。特に幻覚が出てくると、現実なのか、過去の思い出なのか、幻覚なのか分からないので混乱する。
後半はそれらモヤがが少しずつ晴れる感じで最後は良かった。
あとは映像も綺麗で、精神世界との対比がよかった。
ドイツ人から見た日本のオリエンタルでミステリアスな部分が色々と散りばめられているので、日本好きの西洋人には良いかも。
黒髪の女性や東京の街やお祭りなど。
日本人はいろいろと気になってしまう。
あと、「ゆう」がもっと少女だったら、妖艶さと切なさがプラスされたかな。西洋人から見ると少女なのかもしれないけど、日本人から見ると少女とも乙女にも見えない。
ただ、主人公の痛みみたいなものも理解出来たし、「ゆう」のキャラクターや正体に惹き付けられる部分もあった。
なんとも独特な雰囲気の映画で評価が難しい。
最後に、最近マニアックで他ではなかなか観られない映画を上映してくれるUSシネマ千葉ニュータウンに感謝。
チープ
カメラのせいなのか構図のせいなのか映像が非常に安っぽく見応えのないものでした・・・・が、物語自体は情緒的で深みのあるいいものでした。特に中盤からがお気に入り。
樹木希林さんは最後の最後まですごい人でした・・・樹木希林が観れただけで満足な映画です。
抜け殻になった心弱き独逸男が、日独の妖たちにより徐々に再生していく姿を幻想的に描いた令和怪異譚
不可思議な気配が漂う映画である。
妖の姿が朧げに動き回り、死の香が常に揺蕩う。
前半の独逸パートでは、ふわりと現れたユウとカールの現実離れしたような生活の中、彼が直面する過酷な現実と彼の周りを漂う親族(生死問わず)たちとの複雑な関係が描かれる。
ブッテンマンドルたちも土着の祭の中で現れる。
後半の日本茅ケ崎パートでも、妖はカールの周りに出没するが、生への執着が芽生え始めたカールはあまり、惑わされない。
そして、投宿した樹木希林さん演じる老女将と二人で浜降祭の炊き出しを準備する中、老女将から驚愕の言葉がカールに告げられ、彼は浜に駆け出していく。
茅ケ崎の旅館の夜の庭のシーン。匂いたつように咲く酔芙蓉を、カールと老女将が眺める後ろ姿の尋常ならざる美しさ、艶やかさは忘れ難い。
私は、樹木さんがこの作品に出演された理由は
<命尽きるまで、前を向いて生きよ>
というメッセージを遺したかったからではないか、と思った。
お盆が過ぎた日に、儚くも鮮烈で、実に美しい映画を観ることができた。
Kwaidan
少し前に「嵐電」という映画を観て、監督が感じる映画だというようなお話をしていた。
この映画は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の「Kwaidan(怪談)」に収められてそうなお話で、日独にまたがって展開する。
ただ、日本古来の何か切なさ…、死んだ者とその未練、残された者と亡くなった人にもう一度会いたいという気持ちなどが巧みに散りばめられた不思議な…そう、きっと彷徨える魂の物語だと感じた。
複雑に展開する人間関係の物語は、ドイツの因習の残る、とある家庭の親子・夫婦・兄弟の葛藤、父親の戦争の苦い思い出、そして、日本では一人取り残された旅館の女将の悲しみを綴る。
ここからは勝手な僕の解釈だ。
カールの魂は生死の境にある時に、日本を訪れたのではないか。
ユウの魂は、実は、ドイツにカールの魂を迎えに来ていたのではないか。
そして、カールの魂は、旅館でユウの祖母に会い、母娘の悲しい物語を知ったのではないか。
だが、ユウにも葛藤があったのではないか。
カールの魂を向こうの世界に導こうとしながらも、もっと、あなたは生きなさいと言いたかったのではないか。
カールは、こちらの世界でもう少し生きようと決心する。
何か切なく、悲しいが、優しさを感じるストーリーだった。
樹木希林さんが役を引き受けたのもよく分かる気がした。
樹木希林さんが演じるユウの祖母の流す一筋の涙と、ゴンドラの唄の歌詞「いのち短し 恋せよ乙女 あかき唇 あせぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを」に、何か生きることに葛藤を抱えた皆に、もっと生きなさいというメッセージが込められているように感じられて、胸が熱くなる想いがした。
二国をつなぐ妖怪談?
序盤からして、自由奔放なヒロインの言動が、妖精譚のような雰囲気を作り出していました。
妖精といえばイギリスのイメージだったのですが、なるほどウンディーネが書かれた国でしたね…
物語のほとんどがドイツで、終盤は日本で進行しますが、両国が互いに持っているイメージが所々に現れます。
また、音楽と両国のランドスケープが素晴らしかったです。
盛り上がりには欠けますが、静々と進むお話が好きな人にはオススメできます。
全34件中、21~34件目を表示