「見るべき点はあるが、内容は偏向的」主戦場 Mr.Nobodyさんの映画レビュー(感想・評価)
見るべき点はあるが、内容は偏向的
この映画の最大の問題点は、「歴史」についての取り扱い方であろう。そもそも「歴史修正主義」という言葉自体が曲者だ。この言葉の背後には「正しい歴史観があって、その歴史を歪曲する営為がある」という考え方がある。しかし、「正しい歴史(観)」なるものはそもそも存在しない。そして、「歴史」はその都度「修正」されるべきことは、「歴史学」では「常識」である。なぜなら、新たなる歴史的資料や証言、考古学的な発見や自然科学的な研究方法を取り入れることにより、それまでの「歴史観」を改訂しなけらばならないことは多々あるからである。「歴史研究」を政治家や社会運動家にゆがめられてはならない。
この映画では、学者さんたちはいわゆる「左派」の系譜と思われる人たちしか登場しないこと自体が、偏向的ではある。私自身は、真実の歴史というものは、いわゆる「左派」と「右派」の歴史観を足して2で割ったところにあると思う。ナショナリズムに固執して歴史を構築することはもちろんのこと、「人権思想」の固執して、歴史を構築することもまた誤りである。歴史事象は様々な顔を持ち、複雑な様相を帯びている。「左派」が、被害の現実を針小棒大に語るのは、「右派」の偽りと同様に大いに糾弾すべきことであり、この映画の作者のように、「大目に見る」ような態度であってはならない。「人権思想家」には、こうしたことにおいて非誠実な人間が少なくない。また、歴史観から言えば、「推定」と「(ほぼ)確実」なる事実は厳密に分けられなければならない。忘れられているのは、「歴史学」も科学である、ということだ。自然科学における「捏造」ある意味発覚しやすいが、「歴史学」においては、そのチェックが緩いように思える、なぜなら、多くの自然科学と異なり、「歴史学」は実用性という点では有意味ではない。しかし、いわゆる「慰安婦」の問題でも、政治的に歪曲して用いられている。これは、「左派」であれ、「右派」であれ、同罪である。
この映画の作者は、明らかに、一つの政治的立場で語っている。そういう意味では、メッセージは明確だ。アメリカンデモクラシーの伝道者である、ということは間違いない。私自身は、無論のこと「全体主義」者ではないが、「人権思想」には大いに疑いを持っている立場ゆえ、この映画の主旨には賛同しない。「人権思想」は、その実、「暴力」の火種となりうる。「法的」は観点とは、実際には多様であって、結局のところ、各法学者のよって立つ立場に左右される。そういう意味では、この映画が提示する法的解決も、客観的な証拠ありき、ではなく、「人権思想」に濃く彩られている。
現実世界は「人権思想」だけで彩られているわけではなく、様々な様相を持っている。そうした現実の中で最大限の誠実、正義を体現するためには、「人権思想」がかえってその枷となりうる、ということは、よくよく心に留めておくべきと思う。この問題に対して、かつての日本国家の関与があったか否かは、目下のところ「分からない」のが実情であるが、実際に「苦しい目に合された」人たちが存在することも確かではある。そうした方々の救済法は、必ずしも国家賠償によるものではくとも良いように思える。そして、いわゆる「慰安婦」と言われている人たちの中でも、国家的な次元での賠償を求めに人たちも一定多数存在する、とも聞く。国家賠償固執すること自体が、「民族的怨念」あるいは、一定の「人権思想」に立った人たちの硬直的な思考によるのであって、それを絶対視すること自体が問題ではないか。というよりもむしろ、その背後に一定の硬直した(根拠が明確ではない)「歴史観」が問題なのである。くどいようだが、「歴史学」は科学である。一定の立場からそれをゆがめてはならない。
私自身、「右派」連中にも言いたいことは多々あるが、この映画ではほぼ一方的に「右派」(「右派」というよりは、超「右派」と表現した方が良い)の方を糾弾しているので、ここでは差し控えさせていただいた。