「“Unreliable narrator”」アンダー・ユア・ベッド(2019) いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
“Unreliable narrator”
「一人称の語り手は信頼できない語り手である」とは1961年の著書『フィクションの修辞学』の中での論だが、今作はまさにその信頼できない語り手である主人公のモノローグに依ってストーリーが進む。途中、ヒロインのモノローグも差し込まれるが、多分原作に近い表現を演出したかったのではないだろうか。なのでこれだけ確信犯的ミスリードの連発は或る意味斬新である。それが決して駄目だと糾弾しているのではなく、そのグラグラした不安定さは観終わってみると不思議な心地に誘われる体験を得た気分である。ネットで調べると、どうも原作とは少々ラストが違うようで(原作未読)、ラストの着地点における考えは違っているのだが、概ねそのベクトルは近いようである
ストーリーそのものは幾度もドラマでは語り尽くされているストーカーの話である。なので展開そのものは斬新性はない。主人公である男の過去の暮らしや生い立ち、生活等は或る意味、ステレオタイプ的に映し出されるし、何ならかなり誇張されてさえいる。これも含めて主人公の記憶が正確性を欠き、多分に自己卑下と自己嫌悪が産みだした、物語としての偽りで都合の良い歴史なのかとも穿った見方として感じる。幾ら存在感が少なくても、あれでは“苛め”以外の何ものでもなく、その意味では周りから逆ベクトルで認識されているのだろうから。とにかくその部分からも推し量るに、主人公の常軌を逸脱したストーキング行為のエスカレートさは、主役である俳優の容姿端麗さも相俟ってそれ程ホラー感を感じさせない。それよりも問題は、その被害者であるヒロインとその夫の関係性及び、DVの描写のエグさである。余程此方の方がリアリティに訴えかけてくる演技だ。とにかく正視出来ない程の数々の恐怖の行為は、演出も相俟って、今まで観たDVシーンの中でもトップ級の迫真なのである。特に女の背中を噛み、金切り声を上げ逃げるシーンは、その細い体のあちこちに青あざの特殊メイクも手伝って、圧倒的な苛まれ感をぶつけてくる。この類い希なるおぞましいシーンの連続に於いて、完全に主人公の行為はその犯罪性の天秤に掛けられその悪質性が中和され、ともすると歪んでいるかも知れないが立派な愛情表現とさえ書き換えられてしまうマジックに掛かってしまう。確かにベッドの下で行為を凝視するというホラー演出は、古くは“人間椅子“が代表であろう。そのフェティシズム性はビザールとしてマニア心を揺り動かし、それ以外は気持ち悪さのみが強調されるのだが、一番の悪行は”暴力“以外ない。その一点だけでストーリーのブーストが一気に掛かる仕組みなのである。
ただ、今作は上記で述べたように、あくまで傍白は丸っきり信用できない。主人公とヒロインの接点は、学生時代のマンデリンコーヒーを一緒に吞んだ、その一点なのである。その後、グッピーをプレゼントする件やその後の前の彼氏の暴力に対抗しての感電攻撃の件も、あれだけのシーンを観客に見せつけての主人公の妄想だったというオチが、グラグラとその“信頼”という床を瓦解させ、地の底に堕とされる気分を暴力的に味あわされてしまう。一体どこまで主人公の言ってる事は本当の話で、何を観せられているのか、混乱の嵐が吹き荒れる。一旦は夫からのヒロインの救出を諦めた男が、しかし次の扉を開けてしまう勇気又は蛮行を、若い頃の自分に似た若者の犯罪に触発され、そのボーダーを乗り越えてしまうスイッチ装置は、かなり難解な演出だったが、鑑賞後にしみじみと感じることができる玄人好みの展開である。
その後のクライマックスからのラストの慟哭の流れは、勿論バンドエンドの中での救いを落とし込む構成であり、その救いに安堵の溜飲が下がる仕組みはエモーショナルを強くそして長く感じさせる。余韻がこれほど溢れる作品はかなり少なく、これこそ邦画の一つの完成形であろうと、大いに感慨に耽った良作であった。ネオングッピーの飼育の件の残酷さ等、随所に昔の邦画にあった土着性の強いホラー要素をねじ込む組立ても関心させられる緻密さも素晴らしいと思った作品である。