「クワッドコア又はペンタコア」殺人鬼を飼う女 いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
クワッドコア又はペンタコア
一つの体に複数の人格が乗っている“解離性同一性障害”は、表題のように脳が幾つもあるという訳では無いから同時に色々なことが出来るわけではなく、まぁ強いて言えば暗いステージに何人も立っていてスポットライトが当たった人が表でプレイし、その演技を他のプレイヤーも視ている、そんな解釈だと、ビリー・ミリガンを題材の本で読んだことがある。そんなにポピュラーな障碍ではないのに昔から古今東西色々な物語に題材として取り上げられるから、どうしてもその特異性ばかり一人歩きしてしまっているのは無理もないことであろう。
原作未読だが、小説ではもっと深く掘り下げている内容らしいが、映画ではサスペンススリラー要素と、それ以上に濡れ場重視である造りに徹底しているのが良い。そしてこれが特徴というか自分の映画体験で画期的だったのは多重人格を利用してのレズプレイや複数プレイのアイデアである。本来一人、又は二人で行なってる行為なのに、イマジネーションとしてそういった世界観を表現するというあるようでなかった演出は大変興味深く鑑賞できた。CG等で自分同士という考えはありきたりだが、確かに多重人格ならば容姿は別人でも説得力がある。そして一切、本当はこういう画なんですという比較されたカットみたいなものを差し込まず、イメージされた画を強引でも推し進める造りが素晴らしい。ストーリーの展開そのものはそれほど斬新ではなく、不自然な繋がりやそれ故の演技の嘘くささ等が否めないが、そもそもが猟奇殺人とエロティシズムのバランスを後者に錘を載せたコンセプトなのだから、そこは目をつぶる観方なのかもしれない。母親は昔から我が子の異常性を見抜いていて、尚且つその後の自分の連れ合いを娘に殺されていることへの恐怖があるのに金の無心をするという論理的雑さが一例のように、物語自体の穴をキチンと埋めて腑に落ちる出来にしてくれていたらもっと面白く鑑賞できた惜しい作品である。イマジネーション想起の邪魔はやはり論理矛盾なのである。もしそれをすっ飛ばしたいならば圧倒的な主人公のファムファタール、つまり魔性力を観客のだれもが認める演技を求められるのだが、不足の露呈は今後の女優の課題であろう。音効的にリップノイズ、その他付随するいわゆる涎の執拗な発生音は不必要であると断言する。リアリティがないし、もし盛り込みたいならば全然違う効果音を差し挟む事でメタイメージに到達できるのではないだろうか?とはいえ、エロ漫画のあのオノマトペは表現不可能ではあるのだが・・・