「ありがたい。灯明の花が咲いた。いい兆しだ。」巡礼の約束 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
ありがたい。灯明の花が咲いた。いい兆しだ。
去年、僕はチベットに行った。新型コロナ騒ぎの今年だったら行けなかった。
中国政府と中国人に侵されたチベットは、およそかつての姿からはかけ離れていて、祖先の地を中国に奪われたチベット人は遠慮がちに街の端に暮らしていた。
だけど、亡命もせずにチベットに残った彼らがすべて魂まで売ってしまったとは思えない。それは彼らの信仰に触れたからこそ思えるのだ。恨みの心は消し、ただ仏に帰依する気持ちを高める彼ら。でなければ、五体投地で数百キロ先のラサまで行こうとなんて発想はない。そこには、これまでの自分の生きてきた人生の悔恨もあるだろう。誰かに対する贖罪もあるだろう。だけど、それだけでない何か、が彼らの心にはある。『ラサへの歩き方』でもそうだった。自分の身を惜しげもなく何か(誰か)にささげることの尊さを知っている。その一途さが人を惹きつける。ついでに言えば、惹きつけられる人はおしなべて、その人の中にも何かがある。すべてを信仰に差し出す行為を笑いはしない。むしろ、羨ましく思い、自分も何がしかの手伝いはできないか、と力添えを申し出る。途中の村で出会った家族が、まさにそうなのだろう。世の中は、こういう人たちであふれればいい。だけど、そうもいかない現実。人よりいい生活をしたいと思う煩悩。それも人間。そこを通り越して、五体投地でラサを目指すのもまた人間。
ポタラ宮の出現が印象的。あれで観音浄土の気高さがみごとにあらわされた。エンドロールで歌う。♪出会わなければよかった。心惹かれることもなかったでしょう。と。そう言いつつ、心ではまったく逆に出会えた幸運を感謝しているのが目に見えるようだった。
かつて永六輔は言った。
「生きているということは誰かに借りをつくること
生きていくということは誰かにその借りを返していくこと
誰かに借りたら誰かに返そう
誰かにそうしてもらったように
誰かにそうしてあげよう」と。
まさにそれを想わずにいられなかった。
余談ながら、ノルウの心を癒すロバがこのうえなく可愛いです。