「見つけると見出される」サイダーのように言葉が湧き上がる 岡部 竜弥さんの映画レビュー(感想・評価)
見つけると見出される
1970年代、当時バブル期だった日本の都会の若者は平日は夜遊び、休日はビーチというようなライフスタイルがスタンダードだった。その中での喧騒や楽しさ、孤独感を瞬間的に表現したのがシティポップだ。当初は一部の例外を除いて、都会、とりわけ東京における局地的なムーブメントだった。
1980年代になるとらシティポップは寺尾聡等の活躍により全国に普及した。都会で練磨されたその音楽は都会のオシャレな「あこがれ」の音楽として認知され始めた。
その後バブルの趨勢によってシティポップは躍動したが、それが弾けたと同時にシティポップもJPOPの1ジャンルとして埋没してしまった
そして現在。2010年~2020年にかけて、インターネット文化の発達に伴って海外でのシティポップ再評価が起こり、現在のような復権に至っている。
ここで注目すべきは、現在の復権されたシティポップの立ち位置だ。
1度世間を席巻しそこからの盛衰を経て現在に復権(復刻)されたシティポップは、当初の都会音楽としての立ち位置から、あのころの輝かしい都会を思い起こさせる「なつかしさ」の音楽へと位置を移したのだ。
呆れてもう見限ってしまったあのころの輝かしい都会をこいしく思うという意味では「こがれ」の音楽と言ってもいい。
そんな事前知識を入れてこの作品を見ると、面白みが数段跳ね上がると思う。
例えば俳句。決められた語数の中で内心や情景の一瞬を切り取るこの文化は、その特性もさることながら1度盛衰を経験しコミュニケーション技術の発達によって再発見されたという点でも似通っている。
他にも藤山さんのレコード。この作品におけるマクガフィンであるこの立ち位置は、そのままシティポップの現在地とも重ねることが出来る。
「もう一度楽しかったあの瞬間を」「もう一度あの声を」「幸せな一瞬を」
彼が作中涙ながらに言うこの主張こそ、日本における現在のシティポップ再燃の根幹なのだ。もう戻らないあの頃への思慕。そこにサンプリング文化、つまり過去へのリスペクトが加わって現在シティポップという文化は再興されたのだ。
全編を通しての画風だってそうだ。ビビットな配色と人口光や日光によって常にどこかから照らされているあの雰囲気や、弾きの絵の一部分に物を多く置く配置は、そのままシティポップのジャケットが動いているようだった。
ここでは書ききれない程そこら中に、シティポップへのリスペクトがちりばめられている。
一度見限られた音楽が誰かに見つけられることによって価値が再燃するという意味では、作中のチェリーと俳句の詠みの関係とも並列することができる。冒頭、自作の句を詠まされたチェリーは「俳句は文字で楽しむもの」と詠みとしての俳句の価値を否定する。しかし、スマイルや藤山さんとのかかわりによって、俳句を詠む――つまり思っていること・感じたことを言葉にして伝えるということの価値と大切さを知った。この流れはそのままシティポップの再興の歴史と同じだ。
作中通して、この作品には一つの価値観が存在している。それは「見つけてもらうことの喜び」と「見いだしてもらうことの嬉しさ」だ。
シティポップカルチャーというモチーフ。俳句という文芸の特色。スマイルが探していた「かわいい」。SNSに投稿していた俳句。スマイルの山桜のかわいさ。藤山さんのレコード。ラストシーンのチェリーとスマイル。
これらすべては「見つけてもらうことの喜び」と「見いだしてくれることの嬉しさ」に密接に関係している。それぞれが一度消失の危機があったというのも偶然ではないだろう。
その辺りを注意して見直してみるとより一層面白く見れるのかもしれない
サイダーが湧きあがるのは、透明な瓶にそこを出ようとする気泡たちが詰め込まれているからだ。何度ふってもこぼれ出なかったそれから、誰かが栓を抜いてくれたとき一斉に中身は溢れ出る。懐かしい、言わずにいたあの頃の気持ちのように。
最後に、この映画に倣って俳句にてこのレビューを締めようと思う。
あこがれて あきれかえって こいこがれ
あ、これ川柳だ