ワン・セカンド 永遠の24フレームのレビュー・感想・評価
全24件中、1~20件目を表示
対比と描写がひたすら胸を締め付ける
映画が幕を開けるや、砂漠をゆく男の姿が映し出される。どれほど砂になぶられても歩調を緩めない彼の目的は何なのか。「フィルム缶」をマクガフィン代わりにした序盤では、セリフや状況説明を控えめに、中年男と少女との偶然性に満ちた出会いをスラップスティック風に編み上げていく。それに続く展開部をなんと表現しよう。場内に入りきらないほどの映画の観客たちが同じ方向を、瞬きもせずじっと見つめる。その荘厳かつ幻想的な光景は映画ファンにとって神聖で祝祭的なものだし、しかも中年男が主張するには、冒頭のニュース映像の中に長らく会っていない愛娘の姿が刻まれていると言う。彼にとってはメインの大作映画よりもこの娘が映る1秒間、24フレームの方がよっぽど大切なもの。そのシンプルながら深みを帯びた構造は、砂漠と人間、文化大革命と市民、永遠と一瞬とも自ずと詩的に重なっていくかのよう。その対比と描写がひたすら美しく胸を締め付けた。
Classically Chinese
Actors covered in soot, long walks in the Gobi desert; the slow pace of One Second is old-fashioned Zhang Yimou. Actually it is a nice break from the special effects-laden epic movies he has been famous for the last two decades. Consider it an apology for that turd The Great Wall. Returning to the sentimentality of To Live, it shows the love of cinema exists even in Communist propaganda reels.
砂まみれのフィルム
チャンイー扮する逃亡者はニュース映画を観たいと思っていたところ映画のフィルムを盗んだ女の子を捕まえた。
砂まみれのフィルムを洗ったりして、そんなんで映画が観られるのかな。娘がニュース映画に出てると言う一念で犯行にまで及ぶのはいかがだろうか。時代背景も含めて ちょっと分かりにくいね。2年も経ってフィルムの切れ端なんてあるわけないさ。やっぱり中国映画は苦手だな。
☆☆☆☆ チャン・イーモウの新作は、日本で公開された中国映画の中で...
☆☆☆☆
チャン・イーモウの新作は、日本で公開された中国映画の中では『西洋鏡 映画の夜明け』『玲玲の電影日記』に次ぐ映画フィルムを巡るノスタルジー映画。
簡単な感想で。
とても面白かったので、鑑賞後に少しだけネットを確認すると、あらっ?意外と評価が宜しくない💧
曰く『プロパカンダ映画に熱狂する群衆の姿に…」云々。
他には男と少女の行う行為や、何かと見返りを求める人達。そして最後の展開等が、、、と言った辺りだろうか。
でもですね、そもそもですけど。主人公の男はプロパカンダ映画には見向きもせずに、ひたすら自分の娘の姿が映っているフィルムが見たいだけ。
それどころか〝 悪人分子 〟とすら言われる【反乱分子】なだけに、プロパカンダ感は見受けられないと思いますけどねえ。
寧ろ、肝心の娘が映っているプロパカンダのニュース映像自体が、馬車にズタズタになるまで引き摺られてしまう…って辺りは、絶対的な権力に対する《反体制姿勢》にすら見えたのでした。
そう言えば、終盤で捕まった2人はお縄になり、背中を併せて縛られてしまいます。
その状態から、例のプロパカンダ映画を、半ば強制的に観せられる2人の姿は。どことなく、キュープリックの『時計仕掛けのオレンジ』に於ける第九の場面のアレックスの様でもありました。
(いわゆるお仕置きの様なモノでしょうか?キューブリック作品よりは緩めな状況ではありますが)
この場面こそは体制批判には粛清をと言った、官僚主義に対するアンチテーゼの様に見えたのですけど…穿ち過ぎですかね?
最後の展開は確かに観客目線だと「こうあって欲しい!」…との思いからはちょっとかけ離れた結末だったのかも知れない。
しかし、こうとも考えられるのだろう。
今ここに1つの父と娘が存在する。
最早【それ】を探す必要性が無いのだ…と。
まあ…その辺りのある種の〝 あざとさ 〟が批判されてしまうのでしようけど。
そこは少しばかり理解出来るところではありましたが、、、
2022年5月26日 TOHOシネマズ錦糸町オリナス/スクリーン6
チャン・イーモウのフイルムに対する熱き思い
チャン・イーモウのフイルムに対する熱き思い。
それだけはやたら感じる。
毛沢東の文化大革命の時代=思想弾圧の時代は、さして重要ではないと感じる。
時代がどうであれ、フイルムを大切にする心。
映像がぷつぷつ途切れないように、フイルムを布できれいに磨くこと。
その作業を大勢の人の手を借りてやること。
フイルムを生き物のように扱うこと。
おそらく思想弾圧は今でも続いているだろう。
だけど根本にある映画愛が持続していること。
脱走犯が、ニュースフイルムに1秒間だけ映る娘を見たさに奔走する姿.。
彼のひたむきな姿が、現在までも通じる映画愛を十二分に伝えてくれる。
さびれた映画館とは対照的な、広大な砂丘の風景がとても印象的だ。
「英雄女子」を見たい
映画本編より「英雄女子」の方が面白いんちゃう?
ってのは、ある。
アンソニー・ドーアの「ムコンド」のナイーマは、走って逃げる。化石ハンターは、彼女を追いかけて走る。ってのを思い出してしまいました。とにかく走るよなぁ、走ってたよなぁw
映画だけが娯楽らしい娯楽だった時代。舞台は文革下の中国内陸の北西深部。砂漠と荒野が広がる風景です。たった1秒のために強制労働所を逃げ出した男がウザイ。フィルムを奪い合う、男と少女の姿が、これまたウザイ。彼女がフィルムを欲しがる理由を明かしたあたりから、風向きが変わります。予定通りに上映してもらうために、村人が一致団結する「フィルム復活大作戦」が楽しい。「ニュー・シネマ・パラダイス」みたいな感覚。
砂漠の砂の中に、沈む様に姿を消して行く2コマ。2年後、そのフィルムのために村に戻って来た男は、以前のような執着心を見せることなく、微笑む少女を見つめて笑い返す。
「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前を向いてしか生きられない」は、キルケゴールの有名な言葉。
「過去を置いて前を向いて生きて行け」と言うだけの2020年の中国映画。思うんですよ。あの、中国でさえ、こんなメッセージの映画を撮っていた同時期に、邦画界は何をしてたんでっかw
同時に思うんですね。イヤ、4秒は写ってたろw
良かった。
普通に。
文革時代を生き抜く人々〜〜
チャン・イーモーの名前と、予告編に出てくる
若き日のチャン・ツイーイー似の少女の笑顔に
惑わされて(笑)観に行った感のある今作。
でも、ノスタルジックな映像とストーリーは
多くの方がレビューされてるように
「ニュー・シネマ・パラダイス」中国版的な
空気感が全編流れていましたね。
最初の方は砂漠の続く殺風景な画面とフイルムにこだわる男と
お金のために盗みを働く斬バラ髪の少女の追いかけっこが続き
やがて、映画が上映される予定の村に辿り着くと
やっと、なんで男がそのフイルムに拘るのかが明かされる。
映画の前に流れるニュース映像に別れた娘が写っている!
そう、知り合いからの手紙で知った男は
何としてでも現在の娘の姿を見たいとフイルムに拘っていたのだ。
何とも切ない話。
だけど、割と喜劇っぽいルックで物語は進んで行きます。
私の様に若き日のチャン・ツイーイー似の少女の笑顔に
惑わされて(笑)観ても良いんじゃ無いかな〜〜
で、月に8回程映画館で映画を観る中途半端な映画好きとしては
チャン・イーモウ監督作品は
「あの子を探して」「初恋のきた道」を観てます。
「HERO」とか「グレート・ウォール」は未見なので
私の中ではノスタルジックな作品を作る人
と言うイメージが強くて、今回も期待の通りに
ノスタルジックな文革時代のお話。
ノスタルジックと書いたけど文革時代は、罪な時代でしたね。
一見良い人に見えても、誰もが自分の保身のために
役人に密告したり、嘘をついたり〜〜
そのせいで主人公が理不尽な目に遭う。
そんな映画が多くて、今作もその空気が色濃く流れてる。
ただ救いはそんな中でも、
娯楽の少ない時代の小さな田舎の村だから、
映画が見たいと言う思いだけは村中の全ての人から感じられた。
今中国は検閲が厳しくて、ありのままの映画は
チャン・イーモウ監督ですら作れない状態。
文革時代と何も変わっていない。
チャン・イーモウ監督の思いはそこなのかも知れない。
フィルムを通して交差する、男と少女の物語!
マット・デイモン主演の中国忖度映画『グレートウォール』を観て、「どうしてしまった!チャン・イーモウ!!」と思った人も少なくないだろうが、ついに原点回帰ともいうべき作品が誕生した。
全編にわたり、映画というものを通して繋がる人々の物語が描かれている。しかし、それが意味するものは、映像としての意味だけではなく、フィルムという形状の段階でも繋がることができるということを描いている。
娘が映ったニュース映像を追う父親と、親がいないため名前のない少女。互いに欠けているものに共通性がありながらも、全く違う人生を生きるふたりの出会いも映画が導いたものである。
目的は違っていても同じフィルムを手に入れようとしているふたり。取って取られての珍道中のようなテイストでもありながら、奪い合っているふたりが互いに理解していく過程が丁寧に、少しコメディタッチに描かれていく。
作中にある、酷く汚れてしまったフィルムの修復作業過程は、チャン・イーモウの若き日の経験が活かされている。そのことからも、自伝とまでは言わないが、チャン・イーモウの原点に立ち返るようなシーンが多く盛り込まれている。
おそらくセルフパロディであると思うが、名もなき少女を演じたリウ・ハオツンの姿からは『初恋のきた道』に出演していた頃の、チャン・ツィーの面影も感じさせるなど、ファンへの目くばせも忘れていないし、これは原点に戻るという意思表示のようにも感じられた。
本作の舞台となっているのは1969年、つまり文化大革命状況下なだけに、極端に娯楽が制限され、映画というものは数か月に一回観られるかどうかというものとして扱われている。そのため映画館には、近所の人たちが我先にと集まってくる。
皮肉なことに、現在の中国検閲事情と文化大革命の状況下(さすがにまだそこまでは行ってないだろうが……)が重なる。中国の検閲事情は日に日に厳しくなる一方であり、今作においても描きたいものが満足にできなかった、妥協せざる得なかったシーンというのもあったはずだ。
どんな立場の人間も映画を観ている間は皆平等。作中で上映される『英雄子女』(日本未公開)の父と娘が再会する感動的なシーンでは、同じように感動する。これは、どんな立場であっても人間性は同じであるのに、国や政府に与えられた立場が、同じはずの人間を、良くも悪くも変えてしまうことを、しみじみと考えさせるシーンでもあるのだ。
【文化大革命時、人生を翻弄された男と、父のいない少女との交流を、当時の中国の映画の位置づけと共に描き出すヒューマンドラマ。】
ー 主人公の男(チャン・イー)は、1969年文化大革命の最中に、喧嘩を起こし強制労働所に送られる。妻と娘と別れた数年後、男は国威発揚のニュース映画の中に、娘が1秒だけ映っていると知り合いから聞かされ、強制労働所を脱走する。
そして、巡回上映を追いかけ、娘の姿を見ようと奔走する。
その途中、大切なフィルムを盗む娘(リウ・ハオツン:今作はオーディションで選ばれたそうだが、何となく「初恋のきた道」のチャン・ツィイーを思い出す清楚で可憐な少女である。)との出会いや、運搬中にフィルムが汚損したりと、トラブルが多発する・・。ー
◆感想<Caution! 内容に触れています。>
・主人公の男と、親のいない娘の関係性が最初はトラブルから険悪になるが、娘がフィルムを盗んだ
理由が明らかになる所から、関係性は徐々に変わって行く。
ー 冒頭の、広大な砂漠のシーンからここまで一気に見せる、チャン・イーモウの脚本の巧さ。-
・当時の映画事情が垣間見える処も、面白い。
ー 月にたった一度の庶民の娯楽であった映画。町の人達が、待ちわびる映画。そんな彼らの姿や、熱気が画面一杯に伝わってくる。-
・映写技師の男が、自分の息子が運んできたフィルムを汚損させてしまうシーンからの、町の人達総出で、フィルムの泥を落とし、蒸留水で丁寧に拭き、うちわで乾かすシーンもとても良い。
ー 映写技師の息子が幼きときに、洗浄液を間違って飲んでしまい、脳をヤラレテしまった事を、映写技師が男に話すシーン。映写技師が、ナイフで脅されつつも、男に優しくする理由が分かる。-
・そして、”英雄子女”が終わった後に、映写技師と男が二人だけで、映写室から男の娘が一瞬だけ映っている”国威発揚のニュース22号”を見る。男は、涙で顔を濡らしながら、何度も”見せてくれ”と映写技師に懇願する。
ー 何となく、「ニュー・シネマ・パラダイス」を思い出してしまうシーンである。
そして、映写技師は保安に通報するも、捕まった男の胸に彼の娘が映っているたった2枚のフィルムを入れて上げるのである。-
・時代は変わり、2年後、男は町に戻って来る。そこには、女の子らしくなった娘が待っている。娘は男が捕まった際に映写技師が胸に入れてくれた紙を大切に保管していてくれたが・・。
ー この辺りも、巧い。単にハッピーエンドで終わらせずに、一捻り入れる脚本の巧さが光る。-
<男が、冒頭は一人で。ラストは少し女の子らしくなった娘と歩む広大な砂漠の光景が印象的である。
今作は、文化大革命当時、中国での映画が庶民から如何に愛されていたかが、仄かに分かるヒューマンドラマでもある。>
<2022年7月9日 刈谷日劇にて鑑賞>
広大な砂漠の中から娘を探す
チャン・イーモウは、
少し前の日本の人情を見せてくれる。
それは「ほんの少し前の情景」だから、僕たちの過去とか、思い出とか、そしていま心にかかっている事どもにそっと触れてくれる、そんな映像を見せてくれるのだ。
映画館が「シネマコンプレックス」と呼ばれるようになって久しい。
どういう仕組みになっているのか分からないが、フイルムではなくデジタル映写とか云うものらしいのだ。
だから上映投写中にフイルムがメラメラと燃え始めて慌ててて映写が中断!・・なんてことももう起こらないんだろうなあ。
僕が小学生の頃、父親に連れられて、あるいは母親から「補導に備えてのメモ」を持たされて独りで通った映画館は、ふるさとのS劇場。
ポンコツのS劇場はこんなところだった、
杉の羽目板の隙間から外の光が漏れ、
タバコの煙に映写機の光跡が映り、映写室からの音なのか便所の換気扇の音なのかカラカラといつも鳴っていた。小便臭い小屋だった。
2階席に陣取る僕と両親は、持参した座布団を敷く。粗末な長椅子に座り、或いは疲れてきたらゴロリと横になって、黒澤明やポチョムキンを観ていたものだ。
あれは小学校の正門のはす向かいだったが、ブロック塀に貼られたポスターの、渥美マリさんたちの勇姿も大変懐かしい。
「映画館の映画」は数々ある。
どれもこれも、映画好きの我々にとっての宝だろう。
映画人へのリスペクトとオマージュ。
そして
「小屋を守る健気な人たちへの励まし」だ。
・・・・・・・・・・・・
本作は
いなくなった娘を探す駄目男の物語。
みんな哀しくて、みんな優しいよ。
ネオリアリズモの世界にただ泣けてくる。
我が娘も、就職した途端にとんと連絡を寄越さないし、
そして僕には行方不明の肉親もいる。
行旅死亡人の名簿を丹念に読むし、民間の尋ね人のサイトも開く。
毎年出される捜索願の数は8万なんだそうだ。
大海の真砂の中から手掛かりを見つけたい親たちや、茫漠とした天山山脈の砂漠から子供のネガの欠片(かけら)を見つけたい父親が毎年8万もいる。
・・・・・・・・・・・・
映画は、失くしたものへのノスタルジーと、美しい諦めの微笑みで終わった。
塩尻の東座は、今夜は貸し切りだったから、人目をはばからずに僕は泣くことが出来た。
支配人兼映写技師の合木(ごうき)さんに泣き顔を見られないようにそそくさと帰る。
深呼吸して夕闇に振り返ったら、映写室から駆け下りてきた彼女が丁寧に頭をさげて下さっている姿が、見えた。
出来すぎの感じが否めない
チャン・イーモウの映画は初期の頃からよく見たが、いつの頃からか見なくなった。
この映画もとても良くできていて面白いし、画面もきれいなのだが、すべてがよく出来すぎていて、ワクワクしない。
まあ、昔の中国の映画事情がわかったのは面白かったし、砂漠もきれいでよかったけど。
逆にきれいすぎて予定調和な感じで、もう次は見ないかな?
大国の芸術家
久々のチャン・イーモウ監督作品。
『妻への家路』('14)『グレートウォール』('16)『SHADOW/影武者』('18)と2年毎に作品は作ってはいるが、近作は武侠映画・スペクタクルファンタジー・歴史人間ドラマと全てジャンルが違っていて、私の中では油断禁物の監督となってます。
しかし、どのジャンルに於いても、今の中国映画界の傾向と戦略が見えて来るので、さすが中国映画界の第一人者と言われるだけの存在だとも頷けます。
で、本作はチャン・イーモウの原点でもある(歴史)人間ドラマであったので、昔の彼の数々の名作を思い出しました。
そして、監督としての衰えもまだまだ感じませんでした。
しかしオリンピックの総合演出などを任される彼の今の中国での立場を考えると、今もこの様な作品を作れる事に驚きを禁じ得ないですね。
そして、最近私は北方謙三の『史記(武帝紀)』を読み終えたばかりなのですが、本作の冒頭の砂漠のシーンがこの本の、皇帝劉徹の命で使節として西方の大月氏国(現在のパキスタン辺り?)を目指す張騫(ちょうけん)のエピソードにある容赦のない砂漠の風景を彷彿とさせるもので、あの風景だけで一気に作品に引き込まれてしまいました。相変わらず、映像に対するこだわりは昔と全く変わらない凄さを感じました。
この本は皇帝により人生を引きずり回された人々を描いた作品でしたが、本作は毛沢東の文化大革命の犠牲者が主人公であり、2000年以上前から50年前まで、中国って国はそれ程変わっていないという印象を強く感じられました。
更にパンフレットで得た情報ですが、本作はベルリン国際映画祭で“技術的原因”という説明で上映中止になったそうだし、本作のストーリーの核となる主人公の娘が映った1秒間のニュース映像を観たいという原因に、実はその娘は既に亡くなっていたというエピソードシーンは削除されれていたとか…、中国の検閲の厳しさが垣間見える情報だが、それをしてもこれだけの映画を作れるという事と、その監督が国を代表する監督だという事を含めて考えるに、やはりこの国の不思議な懐の深さも感じてしまう。
文革の時代に青春期を送った監督からすると、ある意味本作は文革批判の映画でもある訳なので、そういう映画を今作れる国でもある訳ですからね。
元々私はノンポリ気質なので、中国と中国人に対して政治的にどうこうという思いはあまり無いのですが、逆に日本という国や国民に対して不思議に思う事の裏返しの様な感覚で、中国と中国人に対して不思議に感じる事が多くあり、中国映画はアメリカ映画以上に興味深く観ることが出来ます。
以前から言ってますが様々なジャンルの映画に於いて、社会主義の国(中国)の映画が民主主義の国(日本)の映画よりも遥かにアメリカ映画のテイストに近く商業主義であり、日本映画の方が(国として)商業主義に振り切れず閉塞感と作家性の強い人間ドラマがやたら多く、国民性も共産主義の中国人の方が個人主義の印象が強く、自由主義の日本人の方が権威に弱く管理されたがる気質や特性が目立つという、矛盾した文化的特性が両国を比べると多くあり、余計に中国という国の文化や国民性に面白さを感じてしまい、中国から出現する多くの映画作家の面白さは、国体そのものと矛盾する面白さにある様な気がしています。
本作も検閲により、恐らくオリジナルとはかなり違った味わいの作品になってしまっているのかも知れないが、それでもチャン・イーモウの本質が大いに窺える作品であったし、相変わらず(ロリコン趣味の)女優発掘の名手なのも健在でした(苦笑)
私にとってはチャン・イーモウ監督が過去の人ではなく、まだまだ次回作に期待が出来るのを確認出来たことが、今回の一番の収穫でした。
原点回帰
予告編で「死に別れた娘の遺影を追って旅する男の話なのかな?」って勘違いしてしまい、観に行ったら全然違いました。
あらすじには主人公の男の目的がすんなりとわかるように書かれていましたが、中盤まで全然わからなかったです……
序盤が人相の悪い男と孤児によるフィルムの奪い合いと騙し合いと殴り合いで終始して、「こいつら何してんの?」って感じ。
主人公の男に同情し、感情移入できたのがラスト15分くらいで、そこまで耐えに耐えました。
むしろ孤児のほうが主役かと思ったくらい。
つらかった。
最近は『グレート・ウォール』や『HADOW/影武者』みたいなCGバリバリなエンタメ大作ばかりな人になった印象のチャン・イーモウですが。
彼が日本軍やら、文化大革命やらの「大きな力」に翻弄される「庶民」を描いていた初期作品のような、原点回帰の小品でした。
中国礼賛とか多少の苛立ちをクリアして─
映像美や壮大なロケーション、行ったり来たりする展開、多少の違和感を感じつつも、作品の魅力にはまれば、かなり面白い作品に思えました。笑えたし─。
内容はかなり中国色が強くて、ついていけないと思う部分も・・・でもそこは映像美や感情移入、あるいは笑いでもってクリアできました。
予想外に軽やかで面白い作品でした。
ビャンビャン麺
文化大革命下の中国で、英雄子女という映画のフィルムを盗んだ少女とフィルムを取り返そうとするその映画を観たい男の話。
上映会終了後搬出中のフィルムを盗んだ子供を追いかけて、取り返したは良いものの、既に運搬用のバイクはおらず、次の上映会場のある第2分場を目指して砂漠を歩き…。
あらすじ紹介には記されている主人公の背景やフィルムを観たい理由はなかなか示されず、事前に読んでいないと少し判り難いかも…まあ判らなくても問題ない内容とも言えるけれど。
ストーリー自体はこぢんまりしていて、目を見張る様なものは何もないけれど、判りやすいしちょっとコミカルでちょっと哀しく何故か引き込まれた。
追う男性と逃げる少女
まあまあ楽しんだけど、終始追う・逃げる話し。繰り返しの単調さが段々飽きてくる。最後は感動まではいかないがちょっと良かった。
昔の中国が舞台で当時の映画は貴重で正月並みのイベントだったらしい。
全24件中、1~20件目を表示