ある船頭の話のレビュー・感想・評価
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妄想ホラー映画
もう少し抒情的な話かと思ったら妄想ホラー映画だった。
自然を静かに切り取る映像は見事と思ったら撮影はカンヌでも評判の高いクリストファー・ドイルさん、納得です。それに引き換え本の酷さと役者の酷さは何と言うことでしょう、ベテラン俳優さんは別として村上虹郎の棒読みセリフは相手が柄本さんだけに浮きまくっています、お笑いの河本はオダギリさんの同級生とか、大半は彩り役で集めた友情出演の類でしょう。
変わりゆく故郷へのノスタルジーや近代化へのアンチテーゼなどでは月並みとおもったのでしょうか、トーンを壊す血生臭いエピソードは刺激的ではありますが映画にしてまで何を言いたかったのか、松本清張の「砂の器」的な非劇性が欲しかったのでしょうが技量不足が仇になった感。感情移入しようにも川べりの雰囲気だけで人物が描けていないので傍観するだけ、もの静かで気の優しい老人が訳ありの殺人犯であるという偽悪 趣味にはついていけませんでした。
船頭の人柄
を考える。どのような人物なのか。川と共に行き、そこに住む人の人生と触れ合う。雨ニモマケズに出てくるような男だと思ったが、うちに秘めたるものはなるほど医者の言う通り実に人間らしくもある。しかし、亡くなった狩人のように自分もなりたい、と言う願望は、やはり雨ニモマケズに出てくる男だ。便利なものが増えていくと同時に変わる町と人。源三がその良い例だ。若者ゆえ仕方がない。変わらない船頭は災いを呼ぶ少女と生きることを決め、川を後にする。橋のない川のある町へと移るのだろうか。
当初は監督自ら船頭役をやるということだったが、やはり柄本明で正解。オダギリジョーも大好きですが。出てくる人が豪華すぎ。監督の力。くっきーが何気に混ざっていたのはウケた笑
トイチには守るものが出来た
少女は自分の家族を殺されたのか、殺したのか。
今となってはどうでも良い。
トイチには守るものが出来た。
その喜びと苦しみを抱えて彼は舟をこぐ。
何処へ行くのか、舟が画面から切れる時、映画は終わる。
彼と少女の行く末が幸せであることを願わずにおれない。
それは私の心の物語でもあるから。
風が吹けば船は流される、世の中も少しの風で変わってしまう
映画「ある船頭の話」(オダギリジョー監督)から。
一言で言えば「村と町をつなぐ渡し舟の船頭・トイチ」が
ゆっくり流れる時間と静かな自然の中で生きていく様子を
パノラマ的なワイド画面で丁寧に写し撮った作品であるが、
そこに面倒臭い人間が絡んでくると、事件が起きる。
まぁ、それがなくては、物語にならないのであるが・・。
監督は、この作品を通して何を私たちに伝えたかったのか、
キーワードになりそうな台詞、フレーズをメモしてみた。
「いやね、孤独って言う字、知ってる?
孤独の『孤』は『狐』って字に似てんだよ」
「役に立たないものはみんななくなっていくんだよ。
わかるか、船頭!!」
「できあがる前にぶっ壊さねえか、あの橋」
「風向きで水の流れが強くも弱くも、川の性格まで変えちゃうだろう」
「何か新しいものを求めたら古いものは消えていく、
それはしょうがないことなんだ」
「風が吹けば船は流される、世の中も少しの風で変わってしまう」
渡し舟の船頭「トイチ」と、川上から流れ着いた「オフウ」(風?)
この関係が微妙なバランスで展開される。
マンネリ化したことを破っていくためには「風穴」が必要だが、
静かな「風」が私は好きだ。
季節、時間によって発生する真っ白な「川霧・川靄」の映像が、
普段は見ることができない川の水面を流れる風を表現して幻想的だ。
「風」をとても意識した作品となった。
エンドロールの「映像」を観続けて欲しい、舟が画面から消えるまで。
かつて穏やかだった川に舟を出して、我々は何処へ向かうのか
オダギリジョーが脚本も兼ね、長編映画初監督。
撮影監督にクリストファー・ドイル、衣装デザインにワダエミ、音楽にアルメニア人の世界的ジャズ・ピアニスト。
国際色豊かな面々で描くは、古き良き日本。
時代はいつなのだろう。昭和初期どころではない。大正…いや、明治。明確ではないが、日本が近代化になる前。
山の中の、村と町の間に流れる大きな川。
その川で、渡し舟の船頭をしている老人、トイチ。
これは、彼の話…。
川の辺りの小屋で一人で暮らし、客が来ない時は魚を釣り、木彫りをし、客が来たら舟を出す。
客は様々。馴染み客や風変わりな医者、上品な老婦人や芸の若い女たち。時には、口の悪い偉そうな客も。
そんな全ての客に対し、トイチは川の流れのよう。
一人で船頭をする老人と言うと、無口で頑固で無骨なイメージだが、無口ではあるが低姿勢で穏やか。
トイチの人となりに魅了される。
きっと、彼に会い、彼の舟に乗りたいから、やって来る村人も居るだろう。
変わらぬ毎日。
そんなゆったりとした時は、少しずつ終わろうとしている…。
この大きな川に橋の建設が進められている。完成までもうすぐ。
完成したら便利になる。行き来が忙しくなり、村にとっても町にとっても、仕事や生活が豊かになる。
その一方…
渡し舟の仕事は無くなる。
建設関係者から、散々嫌味や悪口を言われる。役立たず、時間の無駄、時代遅れ、無用の存在…。
それに対してもトイチは、穏やか。そうなったら、そうなるまで。…一見は。
実際は心中、穏やかではない。複雑な心境。
皆の生活が豊かになるのはいいが、自分自身は…。今更他の仕事は出来ないし、他に居場所なんてない。
時折、川の先を見つめるトイチの佇まいがそれを表している。
そんなある日…
その日も舟を漕いでいたら、流れて来た何かにぶつかった。
すくい上げたら、思わず驚く。
怪我した少女。
小屋で手当てをする。
暫くして気が付いた少女。
が、何も話さない。怪我の後遺症で話せなくなったのか、元々話せないのか…?
トイチもそこまで詮索はせず、小屋に置いてやる事にする。
ずっと川を眺め続ける毎日の少女。
ある日の事、トイチは舟の客から物騒な話を聞く。
川上の村で、酷い殺しがあったという。
唯一生き残ったのは、少年もしくは少女。
この少女も川上から流れてきた。
ひょっとして、殺しと何か関係あるのでは…?
てっきり少女が殺しの被害者もしくは加害者で、関わったせいで、トイチにもあらぬ疑いが…という、集落あるあると思っていたら、少女と殺しに関係ナシ。
何も話さないでいた少女だが、次第に口を開く。
トイチと少女、孤独…いや、“狐独”な者同士の交流。
トイチを慕う若い村人の源三や馴染みの村人の交流。
それらを、静かに、淡々と。
本当に、静かな静かなヒューマン・ドラマ。
時々、意表を付く演出も。
物騒な殺しの噂話や、本当は穏やかではいられない発狂したトイチの心境イメージはサスペンスフル。
度々トイチの前に現れる謎の少年は、急にホラータッチ。
川の中に飛び込み、優雅に泳ぐ少女は、幻想的。
オダギリジョーの演出は正攻法でありながら、大胆でもある。
まるで俳優の監督デビューとは思えない、格調高く、名匠が撮ったかのよう。
何と言っても特筆すべきは、クリストファー・ドイルによる映像美。
これは本当に一見の価値あり!
川のせせらぎ、穏やかさ。
山々の緑。
青い空、白い雲。
ワンカット、ワンカットが画になる。
季節は夏。夕刻、この自然の中のひぐらしの鳴き声さえも“画”になる。
終盤、雪に包まれた白銀の画は、水彩画のよう。
外国人から見た日本とは、こんなにも美しいのか!
ドイルの監督作で主演を務めたオダギリ。
「ジョーが監督したら、必ず俺がカメラマンをやる!」
この美しい日本は、2人の美しい友情の賜物。
静かな作品なので、人それぞれ好き嫌いは分かれそう。
自分的には、この作品が、この古き日本の姿が、染み入った。
見ていたら、キム・キドク監督の『春夏秋冬そして春』を彷彿した。
大自然の中で孤立した人の営み、人の運命、人の業…。
最近は専ら助演が多く、何と本作が11年ぶりの主演作となる柄本明が、円熟の名演を披露。
オーディションで選ばれた若手女優の川島鈴遥も、難しい役所のヒロインを熱演。
劇中ではトイチの人となりだが、豪華なキャストはオダギリの人望か。
ワンシーンだけの出演者もおり、誰が出ているかは見て貰うとして、印象に残るは、村上虹郎、永瀬正敏、橋爪功。村上演じる源三の終盤での変わりようは、これが人なのだと思わずにいられなくなる。
冬。橋は完成し、皆がここを行き来する。トイチも医者へ行く時、橋を渡る皮肉。
終盤、思わぬ展開。源三が少女にある秘密を話す。少女はやはり、あの殺しと…。
トイチが帰ってきたら…。
あの舟場に取り残され、近代化していく日本の中に入れないトイチと少女。
自分たちの存在はもう、役になど立たないのか…?
自分たちには、居場所など無いのか…?
もう二度と、あのゆったりとした穏やかな川の流れはやって来ないのだろうか…?
近代化し、発展していき、何もかも便利になり、豊かになっていった日本。
その傍ら、蛍や2人のように、消え忘れ去られた存在も…。
今一度、この日本に問う。
我々は、かつては穏やかだった川に舟を出して、何処へ向かうのか。
「死んだ後でも何かの為になろうとしている」
俳優オダギリ・ジョー監督作品に、更に豪華俳優陣の友情参加、高名な撮監、そして世界的衣装デザイナー集結といった印象を伴う、何から何まで沢山の修飾語がスタンプされている作品である。ロケ地も、今の日本に於いてこれだけの原風景が残されている場所はないのではと思うような場所であり、ここからのインスピレーションは無限に拡がる筈なお膳立てである。後はストーリーが壮大に仕上がればパーフェクトといった事なのだが。。。
今作は、鑑賞力の多大なエネルギーを要した。というのも、意図なのであろうか、話のまとまりがあるような無いような、テーマの方向制が“川”の如く一貫性を伴っていないので、観ていて思考ばかりに走ってしまうのである。一つ一つのプロットは興味深いのだ。『新旧の交代』『社会変動』『昔話的伝説やあやかしの話』『古典的村の因習や排他主義』『宗教』『自然と近代化の波』『ペドフィリアの匂い』、ピックアップしていてもどんどん挙げられる程のテーマのてんこ盛りなのである。これに上記の沢山の要素が用意されているのだから、今作のメッセージ性が、互いのテーマを打ち消してしまって、訴えたい想いが感じ足りないのである。
思うに、今作、もっとダークファンタジー色を前面に据えれば良かったのではと思う。勿論、そうなるとどうしてもジャンル映画の部類に属してしまうのだろうが、あの美しい映像美が積極的に訴求できるには“霊的”な切り口が一番似合うのではないだろうかと思う。若しくは逆に、フードを被った川の神的な子供を登場させずに、単に娘が非業の状況に巻き込まれながらも、しかし船頭への父性に心を囚われ、その想いがオーバーフローしてしまう話を中心に置く選択肢もあっただろう。それならば余計なカットや豪華すぎる友情出演ももっとコンパクトにして、マリア様の件も排除して、逆に村上虹朗演じる村人のあの変化を丁寧に描きながら、あのお惚け感しかし正直者の村人が、後半羽振りの良い身なりになった様を観客に落とし込めるのではないだろうか。船頭が娘の出自を隠すために嘘をついたことがきっかけで村人が“嘘・誤魔化し”を覚えてしまい、生活的には成り上がったが肝心の心が荒廃してしまったという、キリスト教的な“禁断の果実”のメタファーを分かり易く語ることで充分それが宗教観を内包できるのではと思うのだが…。
橋を作っている作業人の横柄な態度に対しての心の底から湧き出る嫌悪感等は面白く表現できていたし、そこに黒いエモーショナルを掻立てられたが、次々と舟に乗る客が、登場人物ではなく、役者そのものが乗っているような感じ、興醒めも甚だしい。一つ一つのシークエンスは惹き込まれる程の出来映えなのに、それが“天丼”みたいな状況になってしまうと視点がぼやけてしまうと言うなんとも贅沢で無駄な構成になってしまうのである。
世界観が大変興味深く、昔のおどろおどろしい角川映画を彷彿とさせていただけに、本当に勿体ないと悔しい限りである。
ある一つの善
美しい映像と音楽、そして何より主演と助演、二人の心の純粋さに胸が高鳴る癒しに満ちた作品。
自然の四季の移ろいの中で、日々営まれる人間の業。命あるものを戴いて繰り広げられる人の生と死が、悠然とした自然を背景に切り取られていく。とにかく自然の造形が美しい。
中でも水。川にとうとうと流れるその水は、液体、個体、気体と形を変え、この世界を流転する特別な物質。
雨粒が球体であることを思い出させられる美しいハイスピード映像。
そして、音楽。ピアノと歌声と口笛のシンプルなアンサンブルが、映像に更なる色を加える。
色といえば、青と赤を基調としたワダエミの衣装も印象深い。
そして、肝心の演技であるが、内なる善と悪の揺らぎを、微かな眼の演技で表現する柄本明は流石の一言だ。
更に、訳あって船頭の世話を受ける娘役の、静寂を突き破る爆発的な演技には衝撃を受けた。
ある船頭の話とは、様々な渡世人を日々運び続ける中で、船頭自身の内に醸成されていく思索の結果の哲学だ。
米や魚を食し、夜に寝て昼は働く。その原始から続く生活の中で醸し出される哲学。
渡しの傍らでは、材木とレンガで橋梁が造られつつある。二重橋や眼鏡橋様の橋から時代は文明開化期か。日本的な衣装と共に詳しい時代は語られず、却って普遍的なテーマが浮かび上がる。
人間の悪とは?善とは?
自身の内に狡猾な悪を認めつつも、ひと欠片の善を訴求する主人公は、もう船に乗ることのないかつての渡客から譲り受けた絵を本に木を彫り続ける。
それは、聖母とも女神とも見える美しい女性の像だった。その辺りも普遍的なテーマを浮き彫りにする演出。
そんな船頭のところに、人間の業の深い闇から生還したひとりの少女が流れ着く。
船頭とその知人の手当てにより娘は少しずつ回復し、心を開き、生活を共にするが、更なる人間の善行、悪行に行き当たり、純粋な二人の心は遂に奈落の底に突き落とされるのであった・・・
オダギリジョーは、長編初監督とは思えないほどに、演者、スタッフと多くの才能を擁し、豊かな演出を駆使して見事に作品をまとめ上げている。
主人公が最後に見せる、内なる一つの善を行使しての喜悦の表情。
そして、この作品自体が、多くの人に愛されるであろう、ある一つの善であると感じるのであった。
奥の深い、考えさせられる物語なのかもと感じました。
予告で観た風景が綺麗だったのに惹かれて鑑賞しました。
見応えありました。
とにかく幽玄な世界。
明治なのか、それとも昭和初期なのか。
文明と伝承の狭間のような、終始幻想的な映像でした。
渡し船で川を渡るシーン。
背景には山、そしてまた山。
ゆったりとした流れを滑るように進む小さな舟。
請われるまま、岸から岸へと舟を漕ぐ船頭。
遠くに架けられつつある橋。
船頭を嘲る言葉を吐きながら舟に乗る工事の男たち。
何を言われても黙々と、ただ舟を操る船頭。
このような場面が繰り返すのですが、見ていて飽きませんでした。
この世界を語る重要なキーワードと思えたのが、「流れ」。
時間
時代
風
そして川
橋が完成し、役目を終えた船頭。
最後の場面
流れに抗うのを止め、舟ごと流されて行くしか無かったということなのでしょうか。
そんな哲学的な作品だったのかなと、感じています。
そして柄本明。
この人以外にこの船頭役はできないと思えたくらい
素晴らしい演技でした。
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
良かったジョー
オヤジギャグかましました。申し訳ない。
でね、「取り替わられるものの喪失感」だけで話が終わらなくて良かったと。何故か途中で感じる宮沢賢治感。風とトイチのトラウマは横溝正史で、最後は罪人二人の逃避行。日本の原風景という程、大袈裟では無いけれど、水木しげる的な印影の画も雰囲気があって良かった。
蛍と橋ならホタル。うっわ、そっち系ですか?この設定で、そのオチは芸が無さ過ぎと不安になり。細野晴臣の森林葬で宮沢賢治ワールドが決着してくれて残るは風とトイチの過去。そっからの描写がダルいってのと、天狗だか何だかの亡霊って要るの?
風は近親からの性暴力からのパニックで一家を惨殺した。トイチも殺人を犯した末に、この地に逃れて来た、多分。文盲で無学を装い船頭として河川敷に長年暮らしている。トイチをずっと見て来たと言う亡霊の登場に恐怖する。個人的には、こっち側に重点を置いて欲しかった様な。
画とピアノの美しさだけでも個人的には満足なんですが、正直なところ、クリストファー・ドイルをよく知らないw ヒューマン・フローの撮影の方なんですね。景色の中の人物の配置の仕方が結構好き。と言うか、人中心にする気が無い感じが良い。
良かった。かなり好き。ポール・ダノのワイルド・ライフと同じくらい。
本日みなとみらいのキノシネマで拝見しました。登壇ではオダギリさんも...
本日みなとみらいのキノシネマで拝見しました。登壇ではオダギリさんもレビューをみているということでしたので書いています。
前にBSフジの旅する音楽という番組でオダギリさんが、ある国のある民族に会って、そこの村で一泊されたときに太陽の明るさで目が覚めて自然に逆らわずに共生して生きている村の人たちに感動し涙をされているのを見て、こちらもとても胸を動かされました。その時の感覚に近いものをこの映画からも感じ取ることができました。
この映画には日本の美しさはもちろん、それだけでなく世界共通の自然の美しさとの共生が必要で、だけれど人間のエゴも入り交じっていく中で、個々一人ひとりがどういう風に日々生きていくかを考えさせられるものでした。映画の中に出てくる人々がいろいろな視点で語りかけてくる感覚を覚え、すーと涙したり感情がゆれました。息子を預けても見に行って本当に良かったです。ありがとうオダギリ監督!
現実と幻想の狭間の物語
山、海、人の手の及び切れない領域は、かつて異界であった。川もまた、異界であり境界である。
多くのものが、こちらからあちらへ、あちらからこちらへ、通り過ぎるが、留まる事はない。様々な人の人生が、一時小舟に乗り合わせ、ただ通過していく。
川のほとりで、船頭は一人、通り過ぎる人を待ち、運び続ける。少女は川からやってきて、船頭の元に留まった。
この作品は時折、現とも幻ともつかない映像を挟む。水中を舞うように泳ぐ少女は、果たしてこの世のものだろうか。亡霊は存在するのか。殺人の幻想は誰のものか。どれが夢でどれが現実か。
近代以前、人は異界の存在を受け入れ、科学とは別の理で説明付けていた。川から来た少女がどこか人間離れしているのも、マタギが死して山に還るのも、その魂魄のように蛍が舞うのも。現代の目には奇異に映るが、異界の理を通せば、むしろ当然のように納得がいく気もするのだ。現実と幻想が、一つ景色の中で、レイヤーを重ねるように被さっていく。
映像は殆ど川の渡しに限られ、仔細がはっきり明かされる事もない。僅かに示される情報の端々から、観客は物語を組み立てていく。少女に何が起こったのか。船頭は何を思ったのか。
哀れな人間のリアルととるか、霊やもののけの現れる幻想譚ととるか。物語は観客によって自在に形を変える。
船頭は客の言葉に相槌を打ち、耳を傾けるが、自らについては殆ど語らない。
少女が現れ、問われた時、初めて船頭自身の過去や思いが語られる。
風を受けて形を変える水面。
橋ができ、人は異界を忘れ、時を失い、傲慢になった。
現実に居場所をなくし、川に漕ぎ出す二人は、此岸の岸を離れ、とうとう本当の異界のものになるのかも知れない。
船頭の朴訥で哀しい眼差し、少女の暴くような鮮烈な目、血の赤、重なる波紋、朝霧、蝉の音、鳥の声、せせらぎ。
現実と幻想の両岸を交互に眺め、つらつらと万華鏡のように思考を遊ばせながらたゆたうような。贅沢で心地よい時間を与えてくれた作品であった。
宮崎駿監督へのオマージュと飛ぶ少女
ひょっとしてオダギリジョーさんはものすごく宮崎駿監督とその作品を愛しているのではないか。
①もののけ姫へのオマージュ?
お祭りの少年たちの登場の仕方が『こだま』(首というか顔というか、とにかくクルクル回ってカタカタ鳴ってた、あれです)にしか見えませんでした。
〝自然〟と向き合う人間のあり方についての探求。自然から命を貰い世代を繋いでいる人間が、結果的に自然の中の命を奪っていることについて無頓着過ぎるのではないか。そのようなテーマ性がどことなく重なって見えました。
②ピュアな少女、飛ぶ少女
宮崎駿監督作品には、必ず出てきます。紅の豚の飛行機修理工場の孫娘フィオだってジーナとの対比では〝女〟ではなく〝少女〟に属します。
ピュアな少女を前にすると、男はなぜか、いい年食った冴えない中年男であっても、自分がどう見えるのか気になってしまい、時として、遠い思春期に置き忘れてきたはずの自意識に目覚めてしまう。
船頭だって今まで散々、利用客との会話で自分を見つめ直すキッカケはあったはずなのに、少女との出会いで急に自意識センサーの感度が高くなっていたわけです。
そして、宮崎駿監督作品の少女は良く飛ぶのです。
ナウシカ(メーヴェ‼️)、シータ(翔ぶというより浮かぶですが)、キキ(魔法使いですから当然、箒)メイとサツキ(トトロと一緒に飛んでますよね)、ポニョ(波の上を飛ぶように走ってました)、千尋(言うまでもなくハクと)。
この作品の少女が川の中で舞っている姿も〝飛翔〟を表していると思いました。少女が飛翔する姿はそれを見るものに「いつまでもその笑顔のまま飛んでいて欲しい」「自分はそれを見守り続けたい」という気持ちを起こさせます。
ひとつとても気になったのは(私の見間違いでなければ)ピュアな少年の心を持っていたはずの源三が、あのような〝汚れた大人〟になってしまったきっかけのひとつとして、少女の初潮の場面に立ち会っていたことを描いたことです。大人になることの戸惑いを少女自身が感じることを描くのなら理解できるのですが、なんとなく釈然としないものが残りました。
『魔女の宅急便』で12歳のキキが、自意識(恋愛感情)に目覚めた途端、それまで自然体で飛べていた箒に乗れなくなる展開があったので、その辺のことを何か形を変えて表現しているようにも考えたのですが、うまく結びつきません。
そんなに酷くなく安心して見られた
見終わってそれほど不満の残らなかったオダギリジョー初監督作品。作品が始まって、話の流れとか、キャメラの撮影が初監督とは思えないとつい関心してしまった。元々小田切は、「映画監督」希望の役者と聞いているが、「役者」としてドラマや映画で広く活動していた。
最近は、海外の映画にも参加していて「監督」でなくて良かったのではないかと思わせる活躍ぶりであったが、それらは全て映画監督になるための「礎」「足がかり」になっているように思える。それが、血肉となっているように感じた。今回の作品おいてもキャメラのアングルやキャスティングの豪華さに引き込まれた。しかし、パンフを拝見し、撮影監督にクリストファードイルを起用しているのを知り、「どおりで…」と思った。柄本が演じたトイチの櫓で漕ぐ手慣れた仕草は良かった。舟の速さと四季折々の遠景のコントラストは、ドイル自身の技かそれともドイルが小田切に伝授した撮影技法なのかは判らないが、落ち着いた描写で描かれてている。「橋を架けること」を「時代の流れ」に見立てているところは、小田切自身の着想か。
ただし、一つの話の要所要所をフェードアウトを起用しすぎている点は、作品の流れを削いでいるように見えて、カメラ独特の技術に頼り過ぎていると思われる。
トイチが自分の将来を思い巡らし幻想的な場面を見る所や時に残酷な場面の挿入は作品を飽きさせないものにしている。小舟に乗る人と漕ぐ者の他愛もない会話は、作品に良いスパイスを与えている。特に、草笛さんの独り言のようにトイチに語りかける所、大女優ならでは。芸妓役の蒼井さんのぼやき。トイチに仁平が父親の遺体の処理の協力を願い出る所は、仁平役の永瀬の演技に妙に安心してしまうのはどうしてだろうか。物語が始まって最初、仁平の父親が客としてトイチの舟から下りる際、ある言葉(内容は忘れちゃいました。)を残して立ち去る場面とリンクしているような…。作品の作り方は丁寧だと思うし、酷い飛躍もなく最後はそうであろうという着地点で収まっている所は、個人的に不足のない作品でした。次回はどんな題材の作品を見せてくれるのでしょう。
監督の〇〇観が詰め込まれた作品
映画ファンではなく、オダギリジョーファンとして、彼の人生観、人間観、生死観、宗教観、笑いの感性を垣間見ることができ、とても満足でした。
前評判通りの映像美にも引き込まれます。
主題として強く問題提起されるのは古いもの・新しいものへの価値観。新しいものへの期待、憧れと同時に抱く、古いものへの執着、憧れ。
便利さの追求による人間性の崩壊、社会的歪みが表現されている。
狩人の死のエピソードについては、生死観と宗教観が見えたように思う。
仏教、キリスト教、アニミズム、それらを思わせるものが散りばめられ、トイチは悲しいと言う。人が死ぬことは変わらないのに、宗教は分かり合わない。そんな悲しみか。
会話の中に登場する小ネタには過去出演作を思わせるネタや、おかしなセリフの間、リズムには監督の笑いのセンスが出たように思う。クスリとくる笑いが嬉しかった。
序盤、妙にきれいで丁寧なセリフに違和感を持ったが、徐々にストーリーにメッセージ性を感じ、世界に引き込まれていた。
キャストも豪華、メッセージは盛り盛り。詰め込み過ぎと言われるかもしれないが、大テーマは一貫して表現され、それに付随して監督の〇〇観が垣間見え、まとまっている。
オダギリジョーの長編初監督作、長年温めた脚本から彼の〇〇観を感じ、満足でした。
ノスタルジーと秘密
物語はほぼ、山あいの川の両岸で綴られる。
近代化が進む日本で、最後まで開発から取り残された山奥の集落をつなぐ「渡し」の「船頭」の話としてだ。
ストーリーは、新しく川に架かる橋の建築中から完成後まで。
しかし、この映画には、橋が完成したら船頭の仕事はもう要らなくなるといったノスタルジー以上の濃密な、そして、多くの秘密を孕んだ物語が散りばめられていた。
上流から傷を負って流されてくる少女・フウ。
なぜ流されてきたのか。
村を去った人間がトイチに残したマリアの肖像画。
この山奥の集落は隠れキリシタンの里だったのか。
仁平の父は、多くの山の生き物を頂いて、そして自身が遺体となって、山の奥で動物たちに食べられることを望む。
これは、本当に個人的な希望なのか。狩を生業とする者たちの半ば鳥葬のような宗教儀式ではないのか。
そして、まるで、動物に食べられた仁平の父の魂のように舞うホタル。
トイチが、「川を渡してやってるのは俺なんだ。橋なんかできなければ良い」と考えたことを告白するようにフウに話すのは、まるでキリスト教の告解のようでもある。
トイチはフウにマリアを見たのではないか。
どうして、トイチは自分の村を出なくてはならなかったのか。
もしかしたら、マリアの肖像画自体がトイチの持ち物で、トイチ自身が隠れキリシタンなのではないか。それが理由なのではないか。
また、終盤のトイチが動物の皮を扱っている場面は、日本の差別・被差別の問題を想起させる。
そして、近代化によって様変わりする村人たち。特に、源三の変わりようは激しい。
最後の事件で、フウは、実は近親相姦の因習のなかにあって、そして、途中で密かに語られていた一家殺害を、復讐の衝動でやってしまったのではないかと思わせる。
トイチを見て狂ったように泣き叫ぶフウは、キリストに助けを求めるようにさえ見える。
船頭小屋に火を放ち、もう一つ新たな秘密を抱え、トイチはフウとともに、舟で渡しを後にする。
二人が幸せであれば良いと願う。
近代化に向かう日本の、100年と少しぐらい昔の話だろうか。
人と自然。
近代化と因習。
こうした対比のなかで、隠される秘密、告解、そして再び隠される秘密。
ずっしり見応えのある作品だった。
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