「「死んだ後でも何かの為になろうとしている」」ある船頭の話 いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
「死んだ後でも何かの為になろうとしている」
俳優オダギリ・ジョー監督作品に、更に豪華俳優陣の友情参加、高名な撮監、そして世界的衣装デザイナー集結といった印象を伴う、何から何まで沢山の修飾語がスタンプされている作品である。ロケ地も、今の日本に於いてこれだけの原風景が残されている場所はないのではと思うような場所であり、ここからのインスピレーションは無限に拡がる筈なお膳立てである。後はストーリーが壮大に仕上がればパーフェクトといった事なのだが。。。
今作は、鑑賞力の多大なエネルギーを要した。というのも、意図なのであろうか、話のまとまりがあるような無いような、テーマの方向制が“川”の如く一貫性を伴っていないので、観ていて思考ばかりに走ってしまうのである。一つ一つのプロットは興味深いのだ。『新旧の交代』『社会変動』『昔話的伝説やあやかしの話』『古典的村の因習や排他主義』『宗教』『自然と近代化の波』『ペドフィリアの匂い』、ピックアップしていてもどんどん挙げられる程のテーマのてんこ盛りなのである。これに上記の沢山の要素が用意されているのだから、今作のメッセージ性が、互いのテーマを打ち消してしまって、訴えたい想いが感じ足りないのである。
思うに、今作、もっとダークファンタジー色を前面に据えれば良かったのではと思う。勿論、そうなるとどうしてもジャンル映画の部類に属してしまうのだろうが、あの美しい映像美が積極的に訴求できるには“霊的”な切り口が一番似合うのではないだろうかと思う。若しくは逆に、フードを被った川の神的な子供を登場させずに、単に娘が非業の状況に巻き込まれながらも、しかし船頭への父性に心を囚われ、その想いがオーバーフローしてしまう話を中心に置く選択肢もあっただろう。それならば余計なカットや豪華すぎる友情出演ももっとコンパクトにして、マリア様の件も排除して、逆に村上虹朗演じる村人のあの変化を丁寧に描きながら、あのお惚け感しかし正直者の村人が、後半羽振りの良い身なりになった様を観客に落とし込めるのではないだろうか。船頭が娘の出自を隠すために嘘をついたことがきっかけで村人が“嘘・誤魔化し”を覚えてしまい、生活的には成り上がったが肝心の心が荒廃してしまったという、キリスト教的な“禁断の果実”のメタファーを分かり易く語ることで充分それが宗教観を内包できるのではと思うのだが…。
橋を作っている作業人の横柄な態度に対しての心の底から湧き出る嫌悪感等は面白く表現できていたし、そこに黒いエモーショナルを掻立てられたが、次々と舟に乗る客が、登場人物ではなく、役者そのものが乗っているような感じ、興醒めも甚だしい。一つ一つのシークエンスは惹き込まれる程の出来映えなのに、それが“天丼”みたいな状況になってしまうと視点がぼやけてしまうと言うなんとも贅沢で無駄な構成になってしまうのである。
世界観が大変興味深く、昔のおどろおどろしい角川映画を彷彿とさせていただけに、本当に勿体ないと悔しい限りである。
おはようございます。コメントありがとうございます。まあ、僕の場合、イメージしたことを順に書いたってのがほんとうのところなんです。ただ、僕達は近代化にあたって、先人の工業化の努力とか讃えがちで、こうした切り捨てたものは実は多くて、それを忘れたり、隠しがちであることも事実だと思うんです。
コメントありがとうございます。
私の場合、恥ずかしながら、少女を眩しく見つめるオヤジ目線なだけかもしれません。確かに村上さん演ずる若者目線、大人への失望みたいなものを膨らませていくキッカケになったかもしれません。そこは気がつきませんでした。
自分の気が付かない視点は多様な価値観を学ぶという意味からもとても大事なことだと思ってます。ありがとうございます😊
この映画のやや物足らない微妙な感じについて、贅沢で無駄な構成、というのは簡潔で的確な表現だと感心致しました。