「続編の謳いはオマケ」ドクター・スリープ 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
続編の謳いはオマケ
ふと、振り返ってみると、よく原作の映画を見るのに、たぶんスティーブンキングを一冊も読んだことがない。
ドクタースリープのタイトルの由来(これから死ぬ人がかれをそう呼ぶ)となるシーンに感銘をうけた。恐怖や悲しみをかかえた絶命のまぎわに「眠るだけだよ」と話しかけるダンの能力はまさに医者だと思う。
読んだことがないのでわかったようなことは言えないが、ホラーでさえ、温かい人間味を感じることがキングの映画には、よくある。
ユアンマクレガーが善良に見え、レベッカファーガソンが邪悪に見えた。逆の見え方もできるだろう──と思ったので巧いと思った。
アブラ役の少女の顔立ちが聡明で──にんげんの顔には格がある──とつくづく思わせた。またポリネシア系のビリーからは人の良さが見えた。
わたしはスピリチュアルを信じず、霊感もないが、この世のものではないものが見える人がいるのは知っている。だが、受動として単に見えるだけで、その「もの」に働きかける力を持たない。と思う。
ダンやアブラやローズは、想念が交信ができる。心に入って、人をあやつることもできる。不実体が空を駆けて、捜索もできる。まあ、なんでもできる。
なんでもできるわけだから、スピリチュアルや占術でお金を要求するのはぜんぶ詐欺です。(いうまでもないですが。)
ほんとに見える人は見えることをむしろ悩んでいる──わけです。恐ろしい能力を商売にするわけがありません。
この映画もダニー少年(ダン)の自分が持ってしまった能力にたいする恐怖と悲しみから始まる。酒浸りの日々からなんとかぬけ出して再生するのが前半部だった。
ビリーのおかげで健全になり、悪霊も見なくなっていた矢先、幼少以来ディックの霊があらわれ少女を助けるよう依願される。・・・。
映画はいっけん大人しいが、すさまじい残虐性をもっている。悪霊たちは幼い子が苦痛を感じながら死んでいくときの霊魂(の煙)を糧として生きている。トレンブレイが演じたこともあり惨たらしさが際立っていた。それ(霊煙)を高級なTHERMOSの水筒みたいなのに入れて保管している。善良なビリーもマインドコントロールにやられ、アブラの父親もころされる。心理的なシャイニングとは違い、直截的な暴力によって展開する話になっていた。
仲間や身内の喪失も軽めに扱い、気分を沈滞させない。が、恩人のビリーがやられたのはかえすがえすも痛恨だった。
ただしダンにもアブラにも悪霊をはめる戦略性がある。善側が、弱者的・守備的でないところが、この映画に躍動感をもたらしている。やってやんよ──てな感じの少女アブラはたのもしい。この不実体の(超能力による)闘いはディックみたいな印象があったが、血なまぐさいホラー色は残している点においてやはりキングだった。面白い。しかしかなり長いw。
オーバールックホテルに入ってからのシャイニングをほうふつさせるシーン群については、権威主義の批評家が鼻息を荒くしながら縷説しているパートであろうと思われる。ので、とくに思うところはない。
いみじくもドクタースリープのウィキペディアにこんな記述があった。
『『エンターテイメント・ウィークリー』によるインタビューの中で、キングは『シャイニング』と『ドクター・スリープ』の間の継続性について取り組むために、キング自身の研究者であるロッキー・ウッドを雇ったことを明らかにした。』
(ウィキペディア「ドクター・スリープ」より)
どういうことかと言うと(個人的な想像に過ぎないが)キングがこれを「シャイニングの続編」としたのは、マーケティングのためであっただろう。てこと。
キング自身はシャイニングの続編を書きたかったわけではなく、成長したダニーを主役に据えて新作を書いた。のだった。が、続編と謳ったならば続編でなければならない。
なので「継続性について取り組むため」続いている話になっているか整合を第三者に確認してもらいながら書いた──ということ、だったのだろう。本人はそこ(継続性)に特別の興味を払うことができなかったから人を雇ったのであり、多作多忙なキングならば、じゅうぶんに有り得る。と、わたしは思った。
言いたいのは本作がシャイニングの続編となっているのはセールスポイントのようなものに過ぎない──ということ。庶民にとってそんなどうでもよろしいことに着目・固執しているのは、権威主義の映画評論家だけ──という話です。
前述したように、ホスピスの当直をしている彼が、死に瀕した者に「眠るだけだよ、怖くないよ」と慰めてあげる──それがこの物語ドクタースリープの骨子であって「シャイニングの続編」はオマケだと個人的には思った次第。