ジョーカーのレビュー・感想・評価
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シームレスに繋がる妄想と現実
例えばアーサーと自分、人の感情はシームレスに現実と妄想の間で共振しており、アーサーに憐憫の情を抱きながら、どこかでゴッサムシティと現実のシティに違いなどあるのかと思えてくる。アーサーに抱いたその情とは自己憐憫と言えるものかもしれない。ジョーカーの狂気(狂喜)のダンス、切なく、儚く、そして美しい。
ダークナイトと比べると
見劣りする感じがありました。ホアキンさんの演技については最高だと思いますが、ジョーカーとしての映画としてはちょっとと。カリスマ性があまり感じられないジョーカーでした。バードマンのリメイク版みたいな印象をうけました。
骨ばった背中とダンス 加筆
やっと2回目鑑賞(11/29)。チェロ演奏と全体の構成の素晴らしさに気づくことができた。どれがアーサーの妄想でどれが現実か、遅ればせながら分かった。でも分からないのもある(観客に任せられている?)。または全部が妄想?
ホアキンのかっこよさ、アーサーの孤独、両方にやられた。
…………………
ガリガリの背中と、なめらかなのか、ぎこちないのかわからないダンスと、走る姿と古き良き時代の音楽が頭から離れない。階段、鏡、化粧しながらの涙、倒れて左胸の薔薇から吹き出た水も強烈で忘れられない。
豊かと貧困、拍手と怒号、「普通」と「普通」でない、嘘と本当、虐めと優しさ、笑いと怖い、話してるのに聞いてくれない、全部が隣り合わせのこの町は虚を超えた現実の私達の町。余韻が大きすぎて頭がまだ混乱状態。この映画がきっかけで暴動が起きるのではとアメリカで懸念されてる。そういう世界にした言い出しっぺは誰?
頭、混乱してるけどこの映画好きだ。
何かを語りたくなる
バットマンのスピンオフだと思わないほうが良いと思います。普通のアメコミ映画とは、まるっきりの別物です。
映画館で見終わったあと、近くの席の人が、
「内容が薄い。何も無かった。アメリカの狂人が犯罪者になっただけ」
と怒った調子で言っていました。たぶん、彼はバットマン映画のファンだったのでしょう。アメコミの映画という評価基準なら、本作は駄作です。他のDC映画やマーベル映画を大好きな人は、まったく違うもののつもりで見てください。そうでないと楽しめません。
で、アメコミ要素もそれ以外も、ひっくるめて評価して☆4.5です。
見終わって、いろんなことを語りたくなって、酒を飲みながらSNSで夜更かししました。上にも書いたこととか、フェニックス(ジョーカー役)の演技とか、笑顔が悲しいとか、笑顔が怖いとか、笑わないデ・ニーロとか、社会の歪みがどうこうとか、リアルすぎてせつないとか、悪役への感情移入とか、子供ブルースかわいいとか、ゴッサムシティは修羅の国とか、いろいろ。
あまりに多すぎるので、ここで繰り返すことはしません。この映画をご覧になれば、似たような気分を共有していただけると思います。
今年NO.1映画
なんとなくまたジョーカーの映画やるんだ。
ダークナイトあるからもういいよと思わずに観に行って欲しいです。ホアキン・フェニックス才能の塊です。えぐられます。過去10年で一番衝撃を受けた作品の一つ。間違いなく映画史に名作として名を刻むだろうね。
彼はずっと泣いていた。
笑ってる?
いや、あれはずっと泣いている。
悶え苦しむ気持ちが、笑い声から伝わってきた。
主人公は、人を笑顔にしたい、と楽しく生きようと努力するが、彼の身の回りに起こる出来事は反対のことばかり。よかれと思ってやったことが、裏目に出る。周りの人から気味悪がられ、嫌がらせされたり、暴力を振るわれる。
いつか誰かが、自分の声を聞いてくれる。
いつか誰か、自分のことに気づいてくれる。
いつか、いつか、変わるんだ!
そう信じて、何度も、我慢して我慢して我慢して我慢して我慢するのだけど、みんな、裏切る。
みんな、自分のことしか考えていない。
カウンセラーにも、友だちにも、仲間にも、好きな人にも、自分のことを理解されることはなく、愛してくれていると信じていた母親にも裏切られ、ボロボロにされる。
ああ、自分には味方なんていない。
私は誰からも、嫌われる。
もう抗うのは、疲れた。
これが私の人生なのか、と気づいた時
ジョーカーは、生まれる。
はじめからモンスターだったわけじゃない。
人間の醜さが、彼を生んだのだと思った。
「Why so Serious?」
ダークナイトでの、ジョーカーの言葉。
あの不気味な笑いの裏に隠れていた、真実をこの映画を観て知ることが出来たように思った。
「世間のモラルなんて人間の戯言だ。
足元が脅かされるとすぐにポイ。
たちまちエゴをむき出しにする。」
ダークナイトでも殺人の全てを、ジョーカーが手を下していたわけじゃなく、人が人を裏切り、殺しは広がっていった。人など信用できない。人はすぐ裏切る。
この映画のジョーカーとダークナイトのジョーカーとは一見少し違う気もするけど、双方はちゃんと繋がっていると思うし、ジョーカーほどのモンスターが誕生した、その背景が描かれていて、私は納得した。
主人公の、役者さん。
リヴァーフェニックスの弟さん。
はじめのカウセリングのシーン。
はじめから狂気の目。
これはヤバい人とすぐわかる。
電車で3人殺してトイレで踊るシーン。
サナギから蝶になるような、
人が生まれ変わっているように見えた。
さいご、街の暴動を車から見る表情は、
美しい景色を見るような微笑みで
やっと他人から注目を浴び共感を得られ、喜びを知る。
演技が、素晴らしい。
ジョーカーには程遠い
楽しみにしていたので初日に観ました。
感想からするとバットマンダークナイトで強烈なイメージのカリスマの悪役誕生秘話を期待していただけに物足りない感じがしました。途中眠たくなったし。それくらいの映画でした。
狂気的だがどこか惹かれる
始まりから度肝を抜かれる作品でした。
DCを知らない人でも違和感なく楽しめ、ゴッサムの何かに惹かれ映画「バッドマン」やドラマ「ゴッサム」を見たいと思う方もいるかもしれません。
もともとDCが好きだった私は、いつもとは違う視点で「ジョーカー」という悪役ではなく「アーサー」という人間性に着目して描かれた作品だなと感じました。
観ている私達も、第三者ではなく「アーサー」の様にどれが現実でどれがフェイクか混乱し、同じくなにが正しくてなにが間違っているのか。
正義とは何か。悪とは何か。
そんなことを根本から考えさせられる作品でした。
なぜか胸が苦しくなって虚しくなり寂しさを感じる作品でもありました。
観る人によって思うことや感じることが全く違ってくると思いました。
友達と見に行ってもそのあとの感想を言い合ったりしてみたらまた違った視線で観れて面白いかもしれません。
結びつかないジョーカー像
字幕版を鑑賞。バットマンの敵役のジョーカーがどうして出来上がったのかという話らしい。ジョーカーを主人公にした映画で忘れ難いのは、何と言ってもヒース・レジャーがジョーカーを演じた 2008 年公開の「ダークナイト」であった。撮影直後に主演俳優が急死するというハプニングがあったため、伝説化されているが、本来のジョーカーの設定は、歪んだユーモアを持つサイコパスというもので、必ずしも残虐なキャラではなかったものを、「ダークナイト」で路線が暗い方に変更されたもので、本作もその路線上にある。「ダークナイト」のジョーカーが非常に頭の切れる天才肌のキャラだったのに比べると、本作の設定はただのサイコパスに過ぎず、かなり物足りない思いをさせられ、ヒース・レジャーの作り出したジョーカーには繋がっていないように感じられた。
呪わしい悪人はどうして生まれたのか、を考えるには、神々しい救世主がどうして生まれたのかをひっくり返せば良いと、この映画は言っているような気がした。ハムラビ法典以来、刑罰の基本は同害報復であり、「目には目を」というフレーズは、決して復讐を勧めているのではなく、目を潰されたら相手の目を潰す以上の報復を望んではならないという意味である。その考えで行けば、人を1人殺したら殺した者を死刑にして良いのだが、誤って真犯人でない者を処刑してしまうと、それで同害報復は済んだことになってしまい、真犯人は処刑されなくなるというのが古代法の考え方であった。
このため、罪がないのに刑死してしまったイエスによって、罪深い人間が救われるという理屈がキリスト教の根本を成している。救われる方の人数が1対1でなく、無制限なのは、イエスがただの人間でなく神の子だったからであり、従って、それを信じなければ救済されないというルールになっている訳である。
これの逆を考えてみると、例えば自分を殺した相手を呪い殺すことができた場合でも、殺して良いのは加害者1人だけであるはずなのだが、「リング」の貞子のような存在は、果てしなく人間を呪い殺し続けている訳であるから、人間ではないということになり、一般的には「悪魔」という名称で呼ばれるものとなる。本作のジョーカーもこれと同様な存在であり、まさに人としての所業を超えた残虐な振舞いは、人間としての同情なととは無縁のものである。
脚本では、次々とジョーカーの不幸な生い立ちが明かされ、これでもかという不幸の連打を見せられるのだが、如何に自分の出生や生立ちに呪わしい過去があったとしても、そのせいで他人を殺して良いなどということには絶対にならない。しかも、この映画の中でジョーカーが手を下しているのは、過去は別にしても、いずれも彼に対して憐みや救済を申し出ている者たちばかりである。自分の不遇を外部のせいにして暴力的な手段を厭わずに実行してしまうのは、銃乱射事件などで目にする犯人どもの思い上がりであり、アメリカ的価値観の典型である。ビン・ラディンが行った 9.11 のテロも、発想は似たようなところから出て来ているのに他ならない。率直に言って、この主人公に同情できる人は、これくらい不幸な人間は他人を殺しても仕方がないと考えるのであろうか?私は全く同感できない。最初の看板の事件はダミーを使っていれば防げた話だし、銃はすぐに返しておけば何も起きなかった。全ては本人の杜撰さから起こっているのであって、他人のせいにするのは大間違いである。
主演のホアキン・フェニックスは素晴らしい役作りをしており、若い頃のロバート・デ・ニーロを思わせるほどの怪演であったと思う。奇しくもデ・ニーロ本人との共演となった本作は、彼の代表作となるには違いない。音楽の素晴らしさは特筆もので、緊張感を激増させていたと思う。演出は、R15+(15 歳未満は親同伴でも鑑賞不可)の容赦ない流血表現がリアリティを感じさせていて好ましかったが、母親との関係はイエスとマリアの関係を逆にしたものより更におぞましく、復活を思わせるかのような描写も不愉快で、聖書をひっくり返すのが邪悪の根本だと言いたげな手法には、やや物足りないものを感じた。
(映像5+脚本1+役者5+音楽4+演出3)×4= 72 点。
ホアキンフェニックスの怪演
この映画の8割はホアキンフェニックスの役作りの凄さだと思う。
激痩せ、表情、動き、全てが作り込まれて魂が入っている。ジョーカーは世界でも大人気なヴィランなのでかなりのプレッシャーだろう。
増してジャックニコルソンにヒースレジャーと様々な解釈でのジョーカーが演じられている。
ジャレットレトはなかったことにしてよいでしょうか。
ホアキンフェニックスの役作りもかなりの覚悟だっただろう。
今回のジョーカー誕生に関しては今までのジョーカーのイメージとは解釈が違った。
元々の人間的な弱さや境遇が全面にでていて同情を誘われるが、特別な人間ではないと言う描き方。
ゴッサムがあそこまで腐敗したり、バットマンの誕生のきっかけもジョーカーと言うより社会の貧困層の不満の爆発で、あくまで誰しもがジョーカーになると言うのはなんとなく伝わるが、なし崩し的に支持されてるよりも、悪のカリスマとしてのジョーカーも後半以降もう少し見たかった。
音楽の使い方もよく物悲しさと、不気味さ、突然の笑い声など終始不穏な空気が流れて予測もできない行動、妄想と現実の曖昧さ、とにかく終始ドキドキさせられました。
驚くべきことはジョーカーが銃で殺害するシーンではスカッとしちゃうのは大半の現代社会で生きてる人の現実なんだなあと思う。漠然とした社会への不安、富裕層への妬み。
自分にもジョーカーになる要素はあると思い知らされた。
ラストもいろいろな解釈があるが、今回のジョーカーvsバットマンはぜひ見てみたいです。
ただ、今回に限ってはバットモービルやバットマンみたいな現実離れしたものがでてこないからこそ良かったのもありますね。
自分的にはヒースレジャーのジョーカーを超えることはありえないだろうと思ってましたが、ホアキンジョーカー、ありありです!
単なるコミッック映画じゃない
貧困、病気、環境、社会、単なるジョーカーのコミッック映画ではなくとても考えさせられる映画でした。
面白かったです!
バットマンVSスーパーマンでのバットマン誕生の部分と連結してる部分があります。
ホアキン・フェニックスの名演技、ロバート・デ・ニーロとの共演も良かったです!
ホアキンの演技力全開
評判のよい話題作ですが、期待通りの傑作でした。
時代設定は80年代のようですが、現在の格差社会批判にも通じる内容となっています。
非常に重い話なのですが、アーサーがジョーカーに変わっていく過程を丁寧に描くことで、ジョーカーへの親近感も湧いてこないこともない。
ですが、諸手を挙げてジョーカー万歳という気持ちにもなれず、ややモヤモヤした印象を抱いたのですが、鑑賞後しばらく経ってからも、ホアキンのあの顔が度々思い出されるこの頃。
チェロの音楽もよかったですね。
ヒースへの弔い
個人的に今年のベストワンは今のところアベンジャーズ/エンドゲームで落ち着いているわけだけれども、予告編を観てから公開が楽しみでならなかった一作が「ジョーカー」だ。
DCコミックのバットマンに登場する宿敵として、これほど有名で曰く付きのキャラクターはそういないだろう。
「ダークナイト」でジョーカーを演じたヒース・レジャーが役作りに没頭するあまり、不眠症になり薬物の併用摂取による急性薬物中毒で急死したのはご存知だろう。当時インフルエンザだったと言われているが、若干28歳だった。
この演技が高く評価されて数々の賞を受賞、アカデミー助演男優賞も受賞した。残念ながら受賞したのは故人となってからだったが、この件もありジョーカーと言うキャラクターが神格化されていく。
このダークナイトの続編「ダークナイトライジング」のプレミア上映で銃乱射事件が発生、12人が死亡し58人が負傷した。この事件の犯人がジョーカーを名乗ったの事もありジョーカーと言うキャラクターは人の心に刻まれることになる。当たり前だがアメリカではこの事件の事もありジョーカーと言うキーワードにとても敏感でナイーブであり、批判も多い。
ヒースレジャーの死後も映画やドラマで新しい俳優がジョーカーを演じて来たわけだが、今回ほど注目を集めたジョーカーはいなかった。
そもそもジョーカーを単独で映画にしてしまうという構想が面白いのだが、それを演じるのが個性派ホアキン・フェニックスで監督はコメディ映画「ハングオーバー」のドット・フィリップスだと言う。
この組み合わせを聞いて「はぁ?」となった人の方が多いと思うのだけれども、僕はなんか面白そうと思ってしまった。コメディ映画の監督がシリアスな映画作ったらどうなるんだろうと興味津々だ。しかもその題材がジョーカーなら尚更。
幾度となく描かれてきたジョーカーというキャラクターではあるものの、芯から掘り下げて描いた作品はなかったわけで、おまけにDCEUシリーズからは切り離された完全単独映画だと言うではないか。
マーベルのMCUシリーズに負けじと対抗意識を向けるDCではあるけれども、思いのほか公をそうしていないのが現状のDC陣営。アクアマンのヒットで多少安堵しているであろうと思われるが、まだまだ元気のないDCEUシリーズにジョーカーを注ぎ込みたかったDCトップの希望を打ち崩して単独映画に仕上げてしまった、ドット・フィリップス監督の思い入れに賛同したい。そして何よりもホアキン・フェニックスのジョーカーを楽しみたいと思うのである。予告編から漂う不気味ではあるものの哀愁を感じる雰囲気にこの何ヶ月もソワソワとしてきた。
ようやくご対面となった。
ゴッサムのスラムで母親と二人暮らしのアーサー、ピエロを生業に母親の介護をしてギリギリの生活を送っている。
スタンドアップのコメディアンを目指しているアーサーは病気持ちで脳と神経の病気で突然笑い出してしまう奇妙な青年。
仕事もうまくいかず、だれにも必要とされていないと感じていた。そんなアーサーがどうやってジョーカーへと変貌していくのかというお話なのだが、時系列的にはバットマン誕生前のお話。ブルース・ウェイン(バットマン)の父と母が殺される直前を描いている。
素晴らしいのはホアキンの演技もさることながら音楽が良い。そして階段でアーサーが踊るシーンのなんとすばらしいことか。
物語後半の故ヒース・レジャーを彷彿とさせるシーンにグッとさせられた。意図しての事かはわからないが僕にはそう感じたし、それは彼への弔いのようでもあった。
決してメガヒットするような内容ではないはずだが、期待をいい意味で裏切るロケットスタートで世界を圧巻している。ド派手なアクションシーンがあるわけでもなく、豪華キャスト勢揃いというわけでもないがハリウッド大作に疲れた人にもおすすめの一本だ。
後味苦し。
何回も見たいと思う作品ではないです。
バットマンもジョーカーも見たことがないからなのか世界観には入れず。心に弱さを抱えた夢見がちな男の人がそういう反応をしてしまうことによる結果の結果の結果がどこまでも見てて苦しかった。
ただ、いわゆる悪役のイメージとはキャラが違った。
全てが狂ってル、全て破滅しろ!死ね❗️
こんなフレーズじゃ物足りない、ジョーカー本当に素晴らしい‼️、ただあまりに危険なやつこの化け物を作り上げた今の社会こそ悪です、子供さんは見ない方がよい
圧倒的な哀しみ
虐待、放置、貧困…よく見聞きする。
けれど、主人公アーサーによって体験させられているような感覚になった。
彼は特徴的な声を出して笑う。
でも、その顔も心も泣いていた。
涙を流さずに。
その境遇故に、人を殺めていいという理由にはならない。
あの銃口は本当は自分に向けられていたんだと思う。
殺したかったのは、消してしまいたかったのは自分自身だったんだと。
自分の日々の行動を考えさせられる。
にしても、あのリバーの弟だったとは。
この作品で一番驚いたポイント
負の蓄積
自分の責任じゃないのに給料から差し引かれる不条理なピエロビジネス、蓄積される負の解消は処方される薬か物にあたる事、だけど家に帰れば母の世話が待っているだけどそれは苦ではないし共感しあえる彼女もいる、、、でも違和感。幼少のころ秘密が分かった時泣いて泣いて乾いた時、本来あるべき第2の幕が上がる。不可でしかなかった長い階段さえオレの花道さぁスイッチはHI状態コケにした奴らは血祭りだ!
1人の男の自立を自分自身に置き換えて観てしまった。
産み堕とされたもの
“温室”でぬくぬくと育ってきたような自分には語る資格はないかもしれないけれど、少しだけ感想を。
今作への批判の中で一番多いのが、
「ヒース・レジャー演じるあのジョーカーのような、知性やカリスマ性が足りない」
というものだと思う。
混迷の時代に、我々はカリスマの登場を期待する。
今では独裁者として悪名を馳せているような支配者のほとんども、
最初は、その時代の、その社会の、その群衆の要請に応じて、カリスマとして熱狂的に歓迎されながら登場したのだ。
この時代にも我々はカリスマの登場を期待する。
それがフィクションの中であったとしても。
それが「悪」の側のカリスマであったとしても。
しかし、今回のジョーカーは、悪のカリスマとして、“上”から颯爽と登場することはなかった。
むしろ、世界の最底辺から産み出された。
他の方がレビューで指摘しているように、彼は下へ下へと階段を“昇って”いった結果、
ジョーカーとして産声をあげる結果になったのだ。
ジョーカーを生み出したのは、我々だ。この世界だ。この世界の醜さと哀しみだ。
彼は世界の、我々の身体の一部だ。
我々は、神格化されたカリスマとして彼を仰ぎ見ることは許されない。
自分たちとは別の世界の、別の存在として、切り離して見ることはできない。
彼は自分たちの世界と地続きの、すぐそこで、ここで、誕生したのだ。
確かに、彼はみんなが期待した“あの”ジョーカーではないだろう。
しかし彼は、今の時代に、それでもどうしようもないくらいの切実さと狂気に満ちて、必然的に産み堕とされたジョーカーだ。
“ジョーカー”成らざる者が“ジョーカー”に成りえる、今の時代の我々のジョーカーだ。
今ここに、“ジョーカー”が生まれようとしている、いや既に生まれている、そんな時代に、我々は何を思うのか。
重く、しかし軽やかに踊りながら問いかける、残酷で優雅な物語だ。
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