ジョーカーのレビュー・感想・評価
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ホアキンフェニックスの圧巻の演技。参りました。 作品が凄すぎてグゥ...
ホアキンフェニックスの圧巻の演技。参りました。
作品が凄すぎてグゥの音も出ません。
映画をダメにしたのはマーベルとDCだなんて言ってごめんなさい。
負の連鎖
何故ジョーカーになったのか、DCのオリジナルの話、余りに負の連鎖の2時間、リバー・フェニックスの弟のホアキン・フェニックス、実際の生活も貧困で、兄は薬物の箇条摂取で亡くなる、側に居たらしい、そんな経験からか、22キロ減量して、哀しみからの狂気な演技は凄かった、あの、特別特徴がないホアキンが、迫真の演技で大人になったなぁと、余りにも不幸続きなので、哀しい。
凄い…ヴィランなのに同情してしまった…。
『ジョーカー』鑑賞。
*出演*
ホアキン・フェニックス
*感想*
バットマンのヴィランであるジョーカーを主人公にした本作。バットマンの知識は少しだけあります。レビューサイトでは高評価ばかりだったので観に行きました。とても良かった…鬱になりかけたけどw
「どんな時でも笑顔で人々を楽しませなさい」という母親の言葉を胸にアーサーは笑いを届けるためにコメディアンとして、ピエロの格好をして笑いを届けようとするが、やがて次々と理不尽な出来事がアーサーにふりかかり、やがて笑いを届けるはずが、徐々に善人から悪人に染まっていく。。
「そんな~嘘だろ…?」と思わず呟いてしまう場面が多々あります。
可哀想で仕方ない物語でしたが、最後のアレはアーサーが貯めていた思いが一気に爆発させてました。ヴィランであるはずが、思わず同情してしまいました。精神的な問題、貧困、理不尽な社会、、アーサーの場合はどんな理不尽な出来事があっても笑う。でも、心の中では大号泣しているんです。
ちなみにバットマンでお馴染みのゴッサムシティ、そして後のバットマンになるブルースが出てました。
前半は辛かったけど、後半はまさに爆発!!
総じて、大傑作!とまでにはいかないけど、ホアキンの演技がめちゃめちゃ凄かった。
徐々に悪のカリスマ・ジョーカーに染まっていく描写がとにかく素晴らしかった!\(^^)/
ジョーカー、カッコ良すぎ!!最高!!
IMAXかドルビーシネマか迷って 先日オープンした丸の内ピカ...
IMAXかドルビーシネマか迷って
先日オープンした丸の内ピカデリー3のドルビーシネマに。
元々500席あったシアターを250席に
減らしてるので足元は人が通っても、
自分の足を引っ込める必要が無いほど余裕があるしシートは革張り!
肘掛けは一座席毎に両サイドにあるので
隣の人とケンカすることの無い親切設計
(ちなみにドリンクフォルダーは
ペットボトルは入れられないようになってるのはここだけの話し)
IMAXが迫力の映像美だとすると
ドルビーシネマは鮮明さが際立ってる気が。
デモで「黒」の見えかたの違いの
映像を流していてその違いに驚いたけど
本編映像でも色に輪郭が付いたような
鮮明さで更に驚き。
音響は既に色々なスクリーンで
導入済みのDollyAtomsなので
思った程の驚きは無かったけど。
それでもIMAXとは違った没入感があったし、ドラマ性+色彩度の高い本作品のような映画はドルビーシネマとの相性がいいのかも。
映画を観る環境は整ったのでいざ本編
予想していたほどの衝撃は無くて
中盤、少しだけダレたけど
いちキャラクターが何故うまれてしまったかが主軸だからそこは仕方ない。
けれど、
いちキャラクターだけに終わらせずDCを描く脚色には唸らされたし
不条理な世界でアイデンティティーを
見いだすことは今の世界でも同じで
それをいちキャラクターを確立させつつ
描いてしまう脚本は秀逸さを感じた。
「個」から「集団」
これは本当に恐ろしい。
アイデンティティーの確立に苦しむ人間が「集団心理」のトリガーに
なっていたと知ったら向かう方向性は
限られる。
DCコミック原作を読んでいないので
コミックをどこまで忠実に描いているか
わからないけど、忠実では無いにしても
このキャラクターを知るに有り余る
内容だったと思う。
R15指定だそうで、R指定が入った要素については個人的にはあまり気にならなかったけど、アメリカで物議を呼ぶのは解る。
脚本や脚色も素晴らしいと思ったけど
劇伴の力が凄い。
ホアキンの演技の相乗効果で
視覚と聴覚を刺激されっぱなし。
曲が無かったらホアキンのあの動きは
クラゲの模写にしか映らん。
とは言え、ホアキンを観るだけでも
価値は十二分にあると思う。
どうしたらあれだけの
表情をだせるんだろうか?
ただただ感心するばかり。
表情が多過ぎて全て見きれなかったので
おかわりしようかな……
底辺のガス抜き鬱映画か
受けぬジョークを口にする男
噴き出す不快な笑いは抑えられぬ哀しき性
親の弱さが子に傷を付け
社会はそのかさぶたを忌む
男は性善から性悪へと生まれ変わり
妄想を経た夢が叶う時
狂気の薔薇が牙を剥く
棘に絡まれし少年もまた復讐の荊の道をゆく
最後の精神科医は瀬川瑛子さん似
他人に目を向けてみよう
評価良かったので観てみました。バッドマンの知識あまりなかったですが、ほかに観たい映画がなかったので。
結論、映画らしい映画を久しぶりに観たなってがっつり思いました。絶対観なきゃ損するっていう感じのタイプではないけど、1800円払う価値ねえよスペシャルドラマでいいじゃんってレベルのものでは全くなかったです。良かったと思います。
ただ、目を背けるシーンがあったりするので血とか殺人が苦手な人、ハッピー気分を味わいたい人、は注意です。
役者の演技が素晴らしくて。あんな上手に笑える役者。いやはや本当に役者って凄いです。
日本にはこんな貧富の差と今の香港みたいにああゆうデモはしないからもっと遠い国の話のようにみてたけど、だんだん、日本にもこうゆう親の介護と仕事がうまくいかない、お金が十分じゃない、生きにくいって人達はいるんでしょうなって思うと、治安が良くて良かったって思いました。
でも、自分の状態が悪いときに、そこらへんにいる馬鹿な輩にイラッとしたときにプツンとジョーカーみたいになってしまう人もいそうでぞわっとした、、何も知らない他人と乗ってる電車がわりと怖いなあって感じてしまった。
ジョーカーのラストの方のセリフで、他人と生きることについて、すこし考えされられました。気遣うことの少ない朝の満員電車。自分さえ良ければいい人達。(軽い)
階段で踊るシーンが血とか忘れるくらい綺麗でかっこよかった…!
確かに良かった。良かったけど
アーサーが最初から最後までかわいそうで仕方がなった。何やっても悪い方にしか行かず、しかも誰からも愛されてないどころか、気にかけてももらえない。そんなアーサーを見てるのが本当に辛かった。ただ他の方も言ってるようだけど、別にジョーカーじゃなくても割と成立するような映画だったかなとは思うよね。ジョーカーをテーマにすることでその狂気じみた部分がより浮き出るっていうのもあるんだろうとは思うけど、この映画の視点は「冷たい社会」みたいなところだろうし。
内容以外のところだけど、まずホアキン・フェニックスの演技が素晴らしすぎる。もし仮に内容がイマイチだったとしてもホアキンの演技は絶賛されるべき。っていうかむしろホアキンがやってなきゃこの映画はこんなに話題にならなかったと思う。後、こんな狂気に満ちた映画をあえてコメディちっくに終わらせて、この映画を「笑える冗談」とするところがまたいい味を出してる。
まぁ極論言っちゃえば人を選ぶ映画だから刺さんなかったら「そんなもんか」と思えばいいんじゃないですかね。
(蛇足:ダークナイト(ヒース版)のジョーカー比べてる人結構いるけど、そもそもあのジョーカーとは同じラインに立ってないから比べるのは無意味。あのジョーカーが好きで見に行く人はそこを理解しておいた方が見やすいかも。)
みんな嘘をついて生きている
政治は貧困層を救うと吹聴しながら、社会保障を打ち切る。
夢を与えてくれたコメディアンも、弱者を笑いものにする。
愛していた母との繋がりも、偽物。
そして、恋人も自ら作った虚構と気づく。
社会も、他人も、自分も虚構まみれ。
虚構は自分の梯子を外し、地の底に叩きつける。
虚構に踊らされ、虚構に絶望した彼は、
虚構を捨て、虚構そのものに牙を向ける。
真の混沌とは誰もが虚構を捨てた世界なのかもしれません。
新生ジョーカー誕生‼️
何故彼は狂気染みているのか!そしてジョーカーになってしまったのか!それが垣間見える作品ともいえる狂気染み作品といっていいだろう‼️数々の名優達が演じてきたジョーカーも狂気染みていて自分は好きだったのだがそれを一気に越えるぐらい凄い‼️
ホアキンフェニックスの演技恐るべし😱
劇薬。ただし一部の方には効きにくい場合がございます。
狂う=仮面を外す
社会全体が貧しい時代。貧困層は切り捨てられつつある。ここで間違えてはいけないが、富裕層は決して、意思を持って「切り捨てよう」としているわけではない、ということだ。差別は無知や無関心から生じるもの。富裕層も状況を改善したいと思っているが、具体的な行動を起こすわけではない。また、貧しい彼等のことを知ろうとしないので、何をすべきかもわからない。ただ社会に心を痛め、上っ面の言葉を並べるだけだ。寄り添うことはない。しかしそこに、悪意は無い。
さてこれは、映画の中だけの話だろうか。
正直に言うと、私にはこの映画、あまり刺さらなかった。彼に感情移入できなかったから。狂う程追い詰められた経験が、結局私には無いと悟った。そして劇中の富裕層のように、何も感じず、何も行動せず、それでいて社会を悲しむ(ふりをする)、自分を恥じた。
救いがあれば・・・
名作、タクシードライバーに雰囲気が似ているな・・と思っていたら、まさかデ・ニーロ様が出演していたとは!
予備知識無しで鑑賞していたので、ビックリでした。
さて話の方は、主人公のアーサーが、段々と闇に堕ちていく様が印象的でした。
引き金は、職場の同僚がくれたピストルですね。
あれが道を外れた原因。
最後にトドメを刺したのが母の秘密。
元々は心優しい人間だったので、どこかで救いがあれば・・残念です。
名作だと思いますが、カップルでは観に行かないことを、お勧めします。
混沌の本質を知っているか?
社会は多数派の主観によって善悪が決まる。
富裕層にとっての「普通」
中間層にとっての「普通」
貧困層にとっての「普通」
これらは別世界だ。
つまり、どの層に何人の人がいるかによって社会の秩序が決められていく。
自分が殺されたくなければ、人殺しを悪とする隣人とルールを守って生きる他ない。
現代では多数の人が不満や不安を抱えて生きている。
作中のゴッサムシティは他人事ではなく、富める者は弱者から永遠に奪い続ける社会だ。弱い者は死ぬまで働き、何も報われずに死んでいく。
そう言った社会の中で生み出されたのが今作のジョーカーだった。
私の中でジョーカーはジャックニコルソン版とヒースレジャー版に落ち着くのだが、ホアキンフェニックス版も良かった。
ニコルソン版でのジョーカーは本名はジャック。バッドマンの両親を殺したチンピラで、後にバッドマンとの戦いで酸の海に落ちたことで顔を整形する。整形の過程で顔面が引きつり、笑顔のまま表情が固定される。時々、舌舐めずりするのは口が完全に閉まらず、口が乾くからだと思う。作中で幾度となく笑うが、表情の下では泣いていると語っている。
ヒースレジャー版でのジョーカーは本名不明。口が裂けているのは父親にナイフで裂かれたからと説明しているが、サイコパス は息を吐くように嘘をつくので真偽の程は定かではない。人の心の奥底には妬み辛み憎悪や嫌悪、恐怖があり、どんなに潔癖な人間でも皮膚の下は残酷な本性があることを望んでいる。人に「笑え」と言う割に自分はあまり笑わない。ニヤリとしたから睨みあげる笑顔を見ただけでジョーカーの狂気に震えが走る。
ホアキン版ではおそらくヒース版のジョーカーになっていくのかな?と言った印象。精神的に少しずつ人間の倫理や理性が壊れていく演技は素晴らしかった。
ゴッサムシティの悪を死刑して回るバッドマン。
ゴッサムシティの善を死刑して回るジョーカー。
両者の違いはどの層を敵と見なしているかの違いに過ぎないのではないか?見方が変われば、善悪の立場は逆転してしまうのではないか?と言う不安を煽られる。
若い世代がこの映画を観たら、確実に思いのままに生きるジョーカーの思考に感化されると思う。
30代の自分でさえ、自己中心的に生きるジョーカーの傍若無人な姿に魅力を感じずにはいられない。いられないが、こんな生き方をしたら群の中で生きていけないことは明らかなので、良い子は絶対に真似をしてはいけない。そのためのR指定作品だと思う。お子様には思想的影響が多大にあると思う。
大人とはなんだろうね。人と生きることができるようになったら、社会の一員として生きていけるのかも知れない。ただ、自分がどの社会で生きたいのかはきちんと考えなければいけない。
私の生きる社会も、ゴッサムシティの隣にあることを忘れてはいけない。
ジョーカーのカリスマ。
子供の頃バットマンの敵キャラが
なんてアホなんだろ?
イカれてる!実際にこんな人
居ないと思ってた何故?が、
この映画で分かった気がします。
ジョーカーが出来上がるまでの
リアルなドラマが面白かったです。
depressed
共感も同情もしないのに物凄く悲しくなった。
ただ悲しくなる対象が何なのか分からないけど、自分自身への恐怖なのかもしれない。
正義が何かなんて疑問に思わない。
彼の生い立ちによって左右される事もない。
ただただ深く悲しくて、とてつもなく怖い。
これはフィクションなのにリアルであって、近い将来な気もしてしまう。
ただ。
帰宅したら両親から小包が届いて、開けた瞬間涙したという事は
彼の悲しみに思いっきり触れていたんだと実感した。
バットマンを見てからが良いです
絶望感×喪失感×ほんのすこしの希望?×憎しみ×虚無
なんだろう。
この映画は一言では語れない。
自分でも不思議だけど、共感してしまう部分もある。
現代に生きるからこそ、ジョーカーの世界観にどっぷり浸れるのかもしれない。
不謹慎だが、ジョーカーの公開を合わせたように香港で覆面禁止令が出たのもたまたまか?
こんなに重い映画を見たのは久しぶりです。
しかしなんだろう。
また観に行こうとしている自分がいる。
あらかじめバットマンを復習した上で観に行くことをお勧めします。バットマンは出ませんが、バットマン誕生の1つのプロセスがあります。
ジョーカーを鑑賞した後にダークナイトを観ると、尚更脚本が腑に落ちました。
ジョーカーとバットマンは正反対の生い立ちなので、一生わかり合える事はないでしょう。
他の方の評価にもあるが、メンタルが落ちている時の鑑賞はお勧めしません。
変なおじさん
タイトルは意味無し
ホアキンののめり込みっぷりは凄まじかったです
のですが、肝心のお話はあんまり乗れませんでした
悪役は悪役。ジョーカーみたいな強烈なキャラクターは成り立ちはボヤかしておいたほうがミステリアスでよかったのでは…
あとゴッサムシティ、住みたくない街だなあとw
どこにでもいるかもしれない人間の話
本当にボコボコにされました。
今作はバットマンシリーズのもう一人の主役であるジョーカーがメインのお話であり、DCコミックファンからすれば待望のお話であったことは間違いない。
だが、蓋を開けてみればDCコミック、バットマンシリーズとの関連抜きにしても成立してしまう人間の弱さ、醜さを徹底的に全面に出したおぞましくも共感できる極めて稀有な作品となりました。
この作品の鑑賞後、現実と空想の違いは最早ないなと考えさせられ、今でも何処かにジョーカーはいるのではないかと思わされています。それほどまでに何処にでもいる人間が成りうる話だったのです。何も特別なことはありません。様々な時代にはジョーカーのように狂ってしまった者が必ず存在します。本作品はそんな大勢の中の一人を映像に納めてくれたように思いました。
内容の濃さ、音楽、カメラワーク等どれも素晴らしいものでしたが一番目を惹いたのはジョーカーの演技。あまりに馴染みすぎているというかジョーカー本人なのではないかと疑ってしまうほどの雰囲気に圧倒されてしまいました。不気味なダンスや痩せ細った身体、笑い声、ちょっとしたしぐさまで細部に渡ってジョーカーを演じていたのだと思います。本当に感謝しかありません。
鑑賞はオススメしますが、ジョーカーというカリスマに感化され過ぎないようにしてください。
以上興奮が未だ収まらず、色々と考え込んでしまった一個人の感想です。
革命的なアメコミ映画の新たな形!
DCにおける代表的な悪役であるジョーカーのキャラクターをベースに見事なヒューマンドラマに仕上がっていた本作はまさにアメコミ映画の新しいスタイルを確立したと断言できる程だ。これはある種の「革命」と言ってもいいかもしれない。
とにかくホアキンフェニックスの怪演が最初から最後まで素晴らしすぎる。これだけでも本作は観る価値があり、もしもこれでアカデミー賞主演男優賞をゲットできなかったらアカデミー会員は全員クビにすべきだし、アメリカの映画界は終わることになるだろう。ゆえにキャッチコピーの「アカデミー賞確実!」はまず間違いないと言い切りたい。
作品としてもアメコミを題材としていながら、究極的に闇に堕ちていく人間を描いたヒューマンドラマとしての完成度は大いに絶賛されるべきだ。
現実と妄想の描写の切り替えの演出も見事としか言いようがない。全体的にダークなドラマでありながらも全くダレずにグイグイ画面に引き込まれ終始目頭を熱くさせられた。
これまでのDC映画やMCUのようないわゆる漫画的なエンターテインメントを期待してしまうと、だいぶ好みは異なるかと思われるが、個人的にはそーしたものとは一線を引いた作戦は大成功だと思うし、他のDC映画とは絡ませないで欲しいということを強く願いたい。
そして何と言ってもこの機会にホアキンフェニックスがとてつもない役者であるということが広まっていく事をとても喜ばしく思う。
久々に映画らしい映画を観れて、幸せだとしか言いようがない。
「上下逆転」を意識しながら観ると分かる
★はじめに
・どこにも「ダークナイトの前日譚だ」という記載がないにも関わらず、『ダークナイト』によって形成された「わたしのジョーカー像」と比較して低評価する人がいる
・自分の「ジョーカー」像は、どんな映画・ドラマ・コミック等メディアから形成されたのかを思い返すほうが良い(自分の思い込みを疑うこと)
・過去に色々なジョーカーは存在したが「この映画は」ジョーカーをどのように描こうとしているか、単体で見ることは出来るか。(前提知識や事前情報を無視して評価するとどうなるか?)
・勿論、DCコミックの「ジョーカー」を謳っている以上、過去のジョーカーとの比較は避けられない。
・「過去のジョーカーとの比較」と「この映画におけるジョーカーを単独で見る」をバランス良く行うことが、この映画に対する正当な評価ではないか
・では、過去のジョーカーとどこが違っていて、何を共有しているか?
→自分のレビューでは後者について述べます。「『あべこべ』こそがジョーカーの本質だと製作者は考え、映画の語り口全体を『あべこべ』(上下逆転)で表現しようとした」のだろうと考えました。
米コミックでは、同じキャラクターでも、作者によって、異なるデザインで、異なるストーリーで描く。作者ごとに異なった「ジョーカー」と「ジョーカーの物語」がある。だからといって、好き勝手にジョーカーを描いていいわけでもない。ではジョーカーの本質とは何か?見た目は勿論、どんな発言、振る舞い、犯罪スタイル、過去を以て「ジョーカー」は定義されるのか?その境界線を手探りする作業が、漫画家や映画製作者には求められる。
日本の漫画読者は、「この作者が描いたものが正しい」という考え方をする。米コミックは、同じキャラクターを色々な作者が、自分のデザインと自分のストーリーで描いてもいい。一方日本の漫画では、原作者によるデザインと、原作者によるストーリーが「正しい」とされる傾向にある。
「キャラクターが、原作者の手からどれくらい離れているか」は、米コミックと日本の漫画では異なる、という点を意識すると、『ジョーカー』に対する評価の視点も変わるかも知れない。
★★この映画を観る時は「上下逆転」を意識する
・社会の底辺はのし上がりたい
・ジョーカーは転落するほどヒーローになる
・転落するほど「本当の自分」を解放できる
・悪役をヒーローに(バットマンを悪役に)
・階段を降りている時、実は昇っている!
★★★ -(マイナス)を+(プラス)に変える
→なんでも逆(あべこべ)にしてしまう、道化師の本質
「上下逆転」を意識すると分かる映画
以下本題。
・・・
トリックアートの代名詞、マウリッツ・エッシャーの作品に『相対性』というものがある。階段を昇り降りする人物群を描いた絵画だが、1人の人物が降っているのと全く同じ階段を、全く同じ向きに、別の人物が「昇っている」。
もしこの作品を知らない人は、「エッシャー 相対性」でググってみてほしい。
このトリックアートと同じような効果を、映画『ジョーカー』は利用して、下降と上昇を全く同一のこととして提示してみせた。
劇中、主人公アーサーは何度か階段を昇り降りする。特に降りる場合に注目すると、彼が階段を降りるたびに、カメラはまるで彼が階段を「昇っている」かのような角度から急勾配で写し出す。昇っているときは降りているかのように。降りているときは昇っているかのように。落ち込む背中が階段を昇るときは下に落ちていくようだし、階段を下る背中はむしろ上昇するかのようにウキウキしている。(ジョーカーというのはあべこべな存在である。悲劇は喜劇。喜劇は悲劇。表は裏で、裏は表。)
その意図は?
下降すれば下降するほど、彼は上昇する。それはバネのようなもので、押さえつければ押さえつけるほどよく伸びる。助走の距離をたくさん取れば取るほど遠くに飛ぶ。
ジョーカーが転落すればするほど、タガが外れた彼の爽快感は大きい。人殺しというまさに最底辺の行いこそ、彼に最も爽快感を与える。それも彼が社会の最下層へと押さえつけられたゆえだ。彼は勝手に下降したのではない。抑圧され、下に押しつぶされたのだ。上がりたくても上がれないのだ。
転落しきったジョーカー=アーサーだが、一旦暴動が発生すると救世主がごとく祭り上げられる。その様はまさにヒーローだ。ジョーカーと言えば「バットマン」シリーズ最凶の悪だ。だがこの映画では、貧困層の立場からすれば彼は善なのだ。(いわば今作は『ジョーカー・ライジング』。バットマンがパトカーの上に立つ姿が、『ダークナイト』あるいは『ダークナイト・ライジング』のポスターアートとして存在したと思う。今回はジョーカーがパトカーの上にRISEする。これははっきりバットマンに対抗している。バットマンが民衆の上に立ち上がるなら、俺も民衆の上に立つ、と。)
悪は善に、そして善は悪に。ジョーカーが善ならば、バットマンは悪。バットマン=ブルース・ウェインは、資産家ウェイン家の一員として、上級民と底辺層への分裂構造を生み出した、悪者の側に位置づけられる。
よく考えてみればこれはすでに『バットマン・ビギンズ』や『ダークナイト・ライジング』でも描かれていたことだ。両親の死に憤り、犯罪者への罰を望むも、司法は腐敗して機能しない理不尽な世の中に直面するブルースに向かって、幼なじみレイチェルは「貧困が犯罪を生む」という現実をつきつける。ブルースは自分の潤沢な資産を使って貧困を改善するのではなく、武装(おもちゃ)し、私怨から犯罪者を叩きのめす。これでは問題の原因解決になっていない。バットマンの行動は、純粋な善ではないし、合理的な解決策でもない。ただ自分の憤りをぶつけたい。発散したいのだ。結局バットマンは、金持ちであるという立場を利用して夜遊びをしているのに過ぎない。(理不尽に直面し「自分で行動しなければならない」となった点で、今作のアーサーに似ている)
そんな彼を罰するように『ダークナイト・ライジング』でブルースは屋敷も地位も執事アルフレッドも失って、裸一貫での再出発(とはいえやはりスーツも武器も持ったままなのだが)を促される。そしていつのまにか、本当は金持ちの側として叩かれる側なのに、民衆の側に立ってベインを叩く。(民衆の側にあったはずのベインがいつのまにか民衆の敵になっている。このような転移を許容せしめるものは何だろうか?)(それもこれも、バットマンがシンボルだから出来たことだ。金持ちだとかの背景が、仮面の裏に隠されているから出来ることだ。だからバットマンはズルい。姑息だ。そこが彼の特徴でもある。ダークナイトだから。)
(補足)バットマン=ブルース・ウェインは両親殺害当時幼く、金や権力を利用して何か悪事を行ったわけではない。しかしその父親は、ウェイン社のトップであり、政治家でもあった。具体的にどんな罪を犯したかは知らないが、アーサーを始めとする底辺層からすれば父親が報いを受けるのは「当然のこと」であり、ブルースも「父親と同じ」側なのだ。だからブルースが犯罪者を憎むのは逆恨みであり、本当は自分の身を振り返るはずなのに、していない。『ダークナイト』三部作ではトーマスは医師であり、ウェイン社の経営は譲渡し、市民のために安価な鉄道を敷設するなど貧困をなくすためになにかをしようとしていたから、今作のように「バットマンこそ自分の身を振り返ってみろ」と言う描かれ方がより強いかたちで成されるのは初めてのことだ。(むしろノーランが、バットマンが責任追及されるのを避けるようなかたちで、トーマスを貧困の原因から外したのかもしれない)
以上のような『ダークナイト』三部作における「犯罪の原因=貧困」論を踏まえ、『ジョーカー』は、バットマンという上級層からの視点ではなく、底辺層の立場からを描く。
バットマンが上級層の善ならば、この映画におけるジョーカーは底辺層の善=ヒーローである。善を悪に、悪を善に。暴力行為がヒーローとなるのもまた、主人公アーサーが抑圧されにされた結果である。降下すればするほど上昇している。
『ダークナイト』では、ジョーカーの鮮やかな犯罪手腕に爽快感を覚えた人もいるかも知れない。そのような、悪事がもたらす爽快感こそ今回の「下を上に」ということだ。(文明社会において禁止・抑圧されている数々の行為、おこないにこそ、人間の本性とでも言うべき、爽快感が眠っている。)
……というのもまた、ジョークだったというオチ。
涙は笑いに、笑いは涙に。全てをあべこべにする道化師。この映画全体を彼の妄想として見せられたとき、観客は「何が真実で何が嘘か」の拠り所を失って不安になる。それは劇中でアーサーが感じていたのと同じ狂気だ。
人は嘘でも笑わなければいけない。理不尽さを味わされているにも関わらず、相手の機嫌を取って、耐え忍ばなければいけない。それが正気だとされる。そして「本当の自分」を出す人間ほど「頭がおかしい」と避けられる。正気こそが仮面で、狂気こそが真実だ。そのような逆転、あべこべ現象は既に、この世の中に現前している。(本当の自分=内面が抑圧されればされるほど社会的には上昇する。本当の自分を解放するほど、社会的には転落する)
「この映画はあくまでジョークですよ」というのは、「この映画は決して革命を促しているわけではありません」という最後の予防線なのかもしれない。とはいえ、この映画が今現在燻る民衆の不満を汲んでいるというのも事実だ。下を上にしたい、という。
追記①「何も本当のことを言えず、お道化しかしない」という点で、事前に『人間失格』(太宰治)を想定して鑑賞した。不満があっても強い者が勝つ、物事を良くしたくても既得権益がそれを阻む、という諦観や失望においては今作と共通するのかも知れない。葉ちゃんの「お道化」はいわば仮面であるが、世渡りをすることは仮面を被ることだという点ではある意味で真理を体現している。道化師は嘘を装って真実を語るのだ。(『バットマン・ビギンズ』でも、ブルースに向かってレイチェルは言っている。「この仮面が、あなたの本当の姿なのだ」と。嘘がまことなのだ。)
また黒澤明監督作品『乱』には、狂阿弥という道化師(演・ピーター)が登場する。このような殿様控えの道化師は、場を盛り上げる役割を持ち、多少の無礼は許されたという。いわば「イジり」が許された。イジりは、個人の外見や言動、性格を取り上げて馬鹿にすることだ。しかし目上の者が目下の者に行えばパワハラ事案だし、目下の者が目上の者に行えば不興を買ってこれまたパワハラに繋がりかねない。特に後者の場合のようなイジり(目下→目上)を行うことが許される場が「無礼講」である。道化とはいわば、この無礼講を常時行う特権を有した職業であった。「冗談」を装って真理をつくのである。権力を使ってナワバリを守る人間の権威を崩す、それがコメディアンだとか風刺の1つの役割なのかも知れない。
追記②
バットマン不在の今作は、単独でも成立するが、バットマンと似ながらにして対極にある両者の相補的な関係をよく認識させてくれるように思った。共に仮面で装った存在であり、『ダークナイト』三部作と『ジョーカー』においては貧困問題という同一の事案から、バタフライエフェクト的に誕生する。今作は特にジョーカーを、いわゆる犯罪者側のヒーローとして描いた。(革命が成功したあとの世界では、バットマンは悪の側の好敵手として記録されるだろう)
そしてもしかしたら、2人とも同じ人間を父親に持つのかも知れない。(ただし『バットマン・ビギンズ』と『ジョーカー』ではトーマス・ウェインの描き方が全く異なり、別人物とも言えるから、必ずしも本作は『ダークナイト』の前日譚としては捉えられない)
両者は同じものから生まれたにもかかわらず、対立する関係を持つ。今作は特に貧富格差という構造内部に両者を配置することによってさらに、対立関係を克明にした。
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