ジョーカーのレビュー・感想・評価
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ジョーカーらしさが無い?
ジョーカーの凄さって世の中を徹底的に騙す、バカにするセンスだと思うんだけどそれがめっちゃ薄かった…
なんで世の中を憎み、悪の道に進んだかすっごく丁寧に描かれていてそれはそれでいいんだけど片手落ちやね
かっこいいジョーカーが見たい!
エリート層の格差是正を目指す努力がなければ、社会秩序は守れない。
評価の上下が激しいし、 下の人に対しての風当たり強いな どんな感想...
もう一度観たい!
主役のアーサーはガリガリで皺だらけの顔。
みすぼらしく、突然笑い出す様は薄気味悪くも感じる。
白く、汚いブリーフで髪を緑に染め、上機嫌に踊るシーンは不気味だ。
しかし嫌いな奴を殺したあとに
ピエロのメイクで派手なスーツを着こなし長い階段を踊りながら降りていく姿はゾッとしながらもカッコ良いのだ。
まさにそれがアーサーがジョーカーになった瞬間であり
ホアキンフェニックスの演技が鳥肌ものだ。
繊細で悲しい悪のヒーロー。
映し方も真正面からのカットが多く
所々にずっと前にみた『タクシードライバー』を思い出した。
デニーロが出ているのも影響あるのかな?
重く暗い映画だけど演出や音楽にもセンスを感じる。
あの子、泣かないのよ
と母親に言われたアーサーだが
映画の中では何度か片目から涙を一粒流す。
思うように泣けず、笑いたくなくても笑ってしまうアーサーは涙メイクのピエロそのものだ。
救いはどこにもなく、
あるとしたらジョーカーとして生きることだけなのだろう。
もう一度、細部までじっくりとみてみたい。
ハピエンでした
何者かになりたかった何者でもない男を演じる凄い役者
仮面をつけた殺人と素顔での殺人
何が現実か、何がどころか全て幻覚か。いまだ答えがでないけど。
正装で階段を躍り降りる姿美しすぎ。なんだか「おめでとう」という一言を言ってしまいそうになる。ホアキンフェニックスの役作りがすごすぎて、演技というか乗り移りレベル。
なみなみコップの表面張力くらいで頑張ってるんだけど、何かのほんの一押しで簡単に溢れていく、そんな怖さを感じた。
ダークナイトファンな私は、もっと憎たらしくサイコパス的な姿でいてほしかった、どこにでも生まれ得る人間だったのであの映画と折合いがつかないなーと思いながらも。あれはあれ、これはこれということでこの映画も好きでいいと思うことにした!あとこういうジョーカーかもしれないと思ってまたダークナイトや他バットマンも観てみよう。
深呼吸もできないくらい一瞬も見逃せず息詰まりながら観ていた今回。何度でも観るたびに違う解釈ができそう。現段階では視聴者の理解に委ねている公式(監督たちなど)、そんな姿も含めて好きな映画。
ゴッサムが舞台であればなんでもやれる
哀しみのジョーカー
画面から流れてくるのはとにかく哀しみと悔しさ。
上手くやれない。
上手く伝わらない。
上手く伝えられない。
上手く受け取れない。
周りも助けられる余力がない。
とにかく何もかも上手くいかない。
どこまでが真実なのだろう?
どこからが妄想なのだろう?
ジョーカーの存在が真実だとして、この先ただ持ち上げられ「混沌の象徴」として市民に使われていくのだとすれば、こんなに哀しい事はない。
なかなか考える
笑わせる者と笑われる者
「笑いは秩序の破壊」という言葉を思い出した。
規律や常識を破壊が笑いを引き起こす。だからこそ、誰かを傷付ける可能性も孕んだ諸刃の剣である。
笑わせる快感と笑われる屈辱。
前者は観客の感情を支配する喜びを感じ、後者は観客の感情のための奴隷としての苦しみを味わう。
哄笑は、泣き叫んでいるよりももっと悲惨な状況を訴えかけてくるものだということがよくわかった。
自分が幸福になるために人を不幸にする構造は、人を悪に導くための構造でもある。
小石を何個も何個も進む道に置かれているような感覚。
何度も何度もつまずかされボロボロになっているのに省みられることがないのならば、そんな世界を恨んで当然だろう。
小石を取り除くことができる人々は、そのために注力しなければならないのだ。
それは巡り巡って自分が所属する世界を整える結果になる。
だから、人には優しく接しよう。心からそう思った。
ダークナイト基準での鑑賞はNG
世界一怖く世界一面白い映画
ある意味『ダークナイト』の時とは対照的なゴッサム市民
ソフィーとの愛も母との絆も全て幻想だったと知ってしまったアーサー。
もう何も失うものが無く、死すら恐くなくなった。そういう状況に陥った人間は、『どうせなら、自分にひどいことをしてきた奴らに報復してやろう』という思考に走ってしまう可能性がある。
アーサーは、
自らを虐待した母を殺し、
自身をハメて仕事を失わせた元ピエロ仲間を殺した。
最後に残るのはあと一人、テレビでアーサーを笑い者にしたマレー・フランクリンだ。
観客である我々には、アーサーと周囲の笑いのツボのズレを散々見せつけられてきた。
アーサー自身もそれを重々自覚している。
そこでアーサーは気づく。
『みんな僕を病気だっていう、けどこれが僕なんだ。僕の人生は悲劇だと思ってたけど、コメディだったんだ。もう自分を偽るのはやめだ。』
そう、これまでアーサーは病気で笑ってきたと思ってた。けど違った、あれはアーサーの主観的に、面白くてしょうがなかったから笑ってたんだとわかった。
『みんな善悪の基準を主観で決めるのと同じように何が面白いかの基準も主観で決めてる。同じことさ、僕だってそうする。』
そのセリフにも表れてるんじゃないか。
最後のシーン、マレーのショーで『僕が証券マン3人を殺した、奴らがクソだったから。』と暴露したのは
アーサーにとっては渾身のジョーク(殺人した、というのは前提の/これさえも妄想なのかもしれないが笑)だった。
だがマレーは言う、『笑えない、オチは?
お前は自分を憐れんで殺人を正当化しているだけだ。』とアーサーの主観的ジョークを真っ向から否定した挙句、アーサーをこれまで二度も笑いものにした。
なぜ自分の主観的ジョークだけが認められず笑いものにされなければならないのか、とアーサーは憤激し、マレーに引き金を引く。
この映画が犯罪を助長すると主張している人がいるが、その意見は少々的外れではないだろうか。もしこの映画を見て『僕(私)も犯罪をしよう』と思った人は映画と自分をもう一度見直すべきだ。この映画は、『誰だってジョーカーなってしまう可能性を持っている』、『ジョーカーが生まれてしまうとどうなるのか』、『またそんなジョーカーは一体何が作り出すのか』を私達に警告した映画である。『思いやりの欠如』が招き得る結末を私達に突きつけたのだ。決して『みんなジョーカーになれ!』とは言っていない。
マレーの言う『お前は自分を憐れんで殺人を正当化している』というのはド正論だ。社会の道徳的に見て、何も間違っていない。たとえどれだけクソ社会(弱者切り捨て・全体主義)やクソ人間(利益追求マシン化・言葉が形骸化/カウンセラーの女性の仕事からそれがよく伺える。彼女は思いやりの気持ちよりも、機械のように、アーサーにカウンセリングの名目で毎週同じ質問を繰り返す。)から酷い仕打ちを受けたとしても、皆我慢して"黙っていい子"にしてる。そうやってひっそりと死んでいく。そういう人生も当たり前になっている現代で、アーサーに共感した人が大勢いる。つまりアーサーと境遇を共にする人間が実際多く存在する。アーサーは思いやりに欠けた出来事を何度も経験し、何もかもうまくいかなかった結末として、ジョーカーという狂気の存在(死すら恐れないためどんな犯罪行為も犯しかねない)へと徐々に覚醒していったのだが、これは、そのアーサーと境遇を同じにする者達の誰にでも起こり得ることなんだ、と我々は気づかねばならない。この思いやりに欠けたクソ人間とクソ社会が姿を変えず存在し続ければ、ジョーカーのような存在が現実世界にも現れ得るのだと。
資本主義の負の側面を嫌という程見せつけられる。人と人・人と社会・社会と社会を繋ぐのは金(利益)だけではないはず。我々人間には"言葉"があり、そして感情表現の一つとして"笑う"ことができる。思いやりのこもった"生きた言葉"をかけ、"笑い合う"ことでも人と人は繋がりを持てるはずなのだ。
この映画は素晴らしかった。笑えるシーンなんてほとんどなく、ただただた目を見開き、苦しい現実に直面し続ける。目を背けたくもなったし逃げ出したくもなった。それゆえ序盤"酷い一日"を経験しトボトボ登った階段を、"自分らしいコメディ"としてここまでの悲劇全てを受け入れ覚醒したアーサーがthe hey songをバックに軽快なステップで駆け下りるシーンには思わず笑みを浮かべてしまったものだ。私的に、この映画は『ダークナイト (08)』を観て以来の衝撃だったかもしれない。『ダークナイト』において、ゴッサムを救ったのはバットマンではなく、他でもないゴッサム市民だった。彼らにはまだ良心が残されていたのだ。そして本作『JOKER』においてゴッサムを地獄に変えたのも、皮肉なことに、ジョーカー(アーサー)ではなく、"苦しみ"や"怒り"が長い年月をかけて蓄積されたゴッサム市民自身だった。この意味で『ダークナイト』と本作は対照的だったと感じている。
だが一つだけ違和感を感じたのは、アーサーがジョーカーとしてマレーのショーに出た後、発言が力強く、ある種説得力のあるものに変わった所だ。これが少し急すぎた気がした。もちろんジョーカーという人物は、賢く抜け目ない頭脳派のヴィランなので正解なのだが、ここまでのどこか頼りない冴えないアーサーを観ていたからか、微妙な違和感を覚えてしまった。だがこれも、自らの悲劇の人生を喜劇として受け入れることに成功した事で"病気の笑い"と"本物の笑い"が統一され、発作として苦しむことがなくなったことでアーサーは自らの意見を正確に伝えることが可能になった、ということなのかもしれない。
なんとも…
満塁ホームラン
悲劇と喜劇
悲劇に満ちた映画だった。
そんな悲壮感が漂う作中で、ジョーカーが「人生は喜劇だ。」
というシーンがある。あれはまさに、物事を主観的に見るか、客観的に見るかで違うということ。それも、見る側が善人か悪人、正気か狂気かでも違う。そこがこの映画のテーマだと思う。最初に不良に襲われるシーン、電車の中で証券マンのシーンも立場・感性を変えて見ると悲劇でしかないが、不良側(狂気的な視点)で見た場合は喜劇でしかないということだであろう。
自身の悲劇に満ちた人生を、喜劇と言ってしまうほどに壊れていくホアキンのジョーカー。
ホアキンの演技力、画の見せ方、狂気に溢れる、或は溢れ始めていく細やかな演出全てがバットマンに繋がっていくのだと思うとグッとくるとこがありました。
あと、観ていて印象に残ったジョーカーのダンス。頭の中に初代、ジャックニコルソンがラストでヒロインと踊ってるシーンを思い出していました。何か繋がるところがあったような感じがしました。
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