ジョーカーのレビュー・感想・評価
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誰でもジョーカーになり得る
日本だけではなく、世界の各地で虐待や貧困層の問題などがある限りJOKERが生まれてくる要素があると考えられた作品でした。 ロバートデニーロが若くなったような気がするけど、久しぶりに元気な姿が見れて嬉しかった。 撃たれ方もさすが年季が入っていました。 creamとguess whoの曲が出たのはびっくりしましたねぇ。
悪=ダメ?
悪と呼ばれる人も意味をもち殺しをしている。
一時的な恨みの感情であっても、相手にムカついたから殺した。
どうしてその感情が巻き起こったか?
それを解決しないと殺しは続いていくと感じた。
仕事をクビになって精神を病んだピエロは自分がバカにされたりした相手を次々に殺していく。
彼は養子。
その母親から暴力も受けていた。
母親は市長と禁断の愛を育んだ。
良い内容でした
映画観で観ました。とてもストーリーが良かったのですが、映画観で観なくても良かったなと思いました。 社会への訴えもあり、ふだん何気ない行動してても誰かを傷つけていると思い、ハッとさせられました。
ホアキン・フェニックスの圧巻の演技に文句なし!!
心優しいアーサー・フレックが異常者「JOKER」へと変動していくという物語なのだが、なんと言ってもホアキン・フェニックスの圧巻の演技がすごい。はっきりと変わったところが分かるわけでもなく、映画を見終わってから最初に登場したときのアーサーと異常者となってからのアーサーを比べてみるとあまりの変わりようにとても驚かされる。そして、映画バットマンシリーズへのつなぎ方もバッチリだ。最初から最後まで完璧と言っていいほど素晴らしい作品になっているので自信を持って15歳以上の方におすすめできる。
ネタバレなし!ただ心のままに!
いつからだろうか 視点が変わったのは 確か私は外から彼を見ていたはずなのに いつからだ? いや、いつといつだ? 妄想と疑えるシーンは確かに私は彼を外から見ていた しかしふとした瞬間気づくと彼の中にいるのだ 自分の中の叫びをいつの間にか掬い上げられ、いつの間にやら手を取り彼とダンスだ 気づくと私はジョーカーで、おかしくないのに笑ってる ホントは世間とダンスがしたかったのだ だけれど誰とも歩調が合わない なんでだと思って顔を上げると誰もが振り向いてこちらに白い目だ 呪縛から逃れるには縋るのをやめるしかないじゃないか 茫然と見上げる人々の上を、戯けながらダンスする かまってかまってと頬擦りしていた鎖を投げ捨てて、解放を愛おしみ天を仰ぐのだ! ああ、これこそがわたし!
善と悪、真実と嘘。その曖昧なものの上で成り立つヒーロー論
この映画は彼が様々な境遇の中で「悪」に染まったという話を描くものではなく、「正義」とは何かを描いた話。倫理的に「善」とされている行為だけが正義ではなく、例えば人々を喜ばせることが正義であれば、彼はその役目を全うし、この世に存在している意味を成したことになる。「正義」なんてものは、所詮は利己的な思考性に基づくものであり、その証拠に視点を変えるだけで、「善悪」なんて概念は簡単に入れ替わる。
そして現実世界では「真実」と「嘘」も同様。所詮は人それぞれの視点で、都合よく捻じ曲げることだってできる。何が真実で何が嘘なのか、そんなことを当事者はおろか、視聴者の我々に判断できるわけもない。それくらい曖昧なもので一限的に「正義」を語るんじゃない。。。という近年のアメコミヒーローブームへの風刺メッセージにも思えた。
彼自身の正義(=彼が成し得たいこと)は、映画の序盤と終盤で変わったのだろうか?実は何も変わっていない。自分の社会的立ち位置をまざまざと認識し、物事の捉え方がほんの少し変わった、そして目的に向かうための行動を変えた。
ジョーカーがスクリーン越しに問いかけているようだ。
敵を倒して、人々を喜ばせる。『これの何が悪い?バットマンだって同じだろ?』と。
そして、後のバットマンとジョーカーの因縁を匂わせる描写。
「正義」だなんて言ってるけど、『結局、みんなキッカケは個人的な動機なんだろ。俺と同じだろ』と。
『なぜバットマンは「ヒーロー」と呼ばれ、俺は「ヴィラン」と呼ばれるんだ?』と。
バットマンに救われる人間もいれば、ジョーカーに救われる人間もいる。バットマンを生んだのはジョーカーであり、ジョーカーを生んだのはバットマンということを改めて理解するとともに、世の中でよく使われる「必要悪」という言葉も改めて考えさせられる。
ただ、この映画を見てジョーカーという「存在」をわかった気になるのは少し違う気もする。多分彼の言う通り、本当の意味では「理解できないさ」ということなのかもしれない。
#100 It's not funny
なのに何故にここまで日本でもヒットしたのか? 1960年代から70年代の荒廃したアメリカと今の日本が似てるってこと? ここまで世間が病んでいると気づかない私が変なのか?
本物のJOKERが生まれる物語か!?
映画を愛する自負のある方はとうに観ているでしょう。もし観に行こうか迷っている人なら、是非映画館でご覧いただきたいです。 上から目線のようなコメントで申し訳ありません。 歴史的名作と言って良い作品だと思いました。 この時代に生きて、この時代に上映され、今のあなたが今生きているこの時に観るべき映画だと感じています。
脳裏に焼きついてるシーンがたくさんある。序盤はずっともやもやしてた...
脳裏に焼きついてるシーンがたくさんある。序盤はずっともやもやしてたけど徐々に振り切れていくジョーカーにスカッとした。不思議に思うところが多くて目が離せない。観終わった後の考察にも花が咲いた。
この映画でしか体験できない物がある
最初に観た時は憂鬱な気分になりかなり落ち込んでしまった 僕はそういった体験をとてもプラスに捉えている。 本当のジョーカーって誰? 誰にでも起こり得ること、ちょっとした事で人間はアーサーみたいになるのかもしれない。 とことん訴えかけてくる映画でありキツイが、その反面勇気をもらえる作品でもあった もはやドキュメンタリーとして映画という枠を超えている。 希望の一本である事は間違いない!
圧巻の演技力
失礼ながら、主演俳優の作品はあまり見たこともなく、予習をしていきませんでした。 予習していても、どの作品ひとつと同じ役者が演じているとは思えないですが… ジョーカー🃏哀しき喜劇、そして自分もがジョーカーになりうる可能性は無いことはない、という恐怖感を覚えました。 劇中のダンスステップは軽やかであり、美しくもありました。 もう一度、観たい作品です、細部にわたる深い作品のお宝が隠されています。 強烈作品ですよ、もちろん、おすすめします。
名作かつ音楽(音響)も秀逸
映画を観た人の意見が2分されているようですが、忘れてならないのはこの映画がバットマンというコミックスに登場するジョーカーの話であるという点。彼がいかにジョーカーになったのか?がドキュメンタリー仕立てで描かれ、進行して行きますが、架空の人物の物語であり、決して現実の話ではないのです。 とは言え「映画の中の話」では済まないというか、いつでも現実に起こり得るリアルさが充満しています。現実として捉えたら単純にかわいそうな狂人、でもアメコミ映画の1キャラクターとして捉えたら、まさに悪のヒーロー誕生の物語。どちらと捉えるか?が評価の分かれ目でしょうか。
さておき、ジョーカーと言えば当初冷酷でサイコパスな性格の設定キャラクターでしたが、50~70年代は残虐さを抑えたいたずらキャラに、70年代以降は再びダークなキャラクター性に戻っています。そういった意味で、バットマンにおけるジョーカーの設定は曖昧な部分があり、ある意味いろんなタイプのジョーカーが生まれても不思議の無いところですが、本作では薬品の影響で完全にイかれてジョーカーになったという基本設定すらなく、善良な男が社会の被害者としてジョーカーに生まれ変わっていく様が描かれています。またジョーカーにとっての犯罪はジョークであり、それに常にレスポンスをしてくれるバットマンのことを最高の観客、最高のツッコミ役、最高の遊び相手と捉えていますが、そのような関係性に結び付く要素も皆無なため、ほぼこれまでのジョーカー像を刷新しています。
犯罪をジョークやある種のアートのように行う悪党=ジョーカーではなく、社会に見放された人間がやむ無く法を犯して行く様を、非常にリアルに、社会の被害者として描いています。ジョーカーは超人的な能力を持たないので、極悪になるためにたがが外れる理由が必要ですが、そういう意味ではこの設定も個人的には納得。
やっていることはもろ犯罪ですが、最後には「自由になれて良かったね」と思って観ている自分がいました。ただし本作のジョーカーがバットマンと戦う姿は想像できません。
バットマン・シリーズから離れ、1本の単体映画として観た場合、配役、演技、演出、映像、どれをとっても最高の出来です。
中でもHildur Guðnadóttir(ヒドゥル・グドナドッティル)の音楽(と音効)が最高に素晴らしかったです。「この曲を聴くとあのシーンを思い出す」というようなキャッチーさはありませんが、物語のシーンの内容と演技、映像と混然一体となって、胸にダイレクトに訴えかけてくるような音響演出がとにかく秀逸。
最近は何でもかんでも某シンセサイザーの音で埋め尽くされがちなハリウッド映画にあって、さすがはチェリスト!と唸るまさに珠玉のサントラでした(← あくまでも映画の演出としての音楽という意味で、音楽だけを聴いて楽しめるかというと、暗過ぎ・ヘビー過ぎで疲れ果ててしまうでしょうが)。
それにしてもトッド・フィリップス監督はコメディ畑の人だと思っていましたが、いやぁ凄い監督さんですね。
この映画の解釈は幾通りも考えられ、夢落ちだと考えている人もいらっしゃいますが、個人的には、ラスト・シーンがすべての事の始まりであり、アーサーの妄想含め、全てが現実に起きたJoker誕生へと繋がるストーリー(と言っても映画の中の)なのだと思いました。
※ 余談ですが、私は70年代をNYで過ごしました。当時のNYはまさにこの映画に描かれているように、貧困がもたらす犯罪が横行している危険な街でした。沢山の良い思い出がありますが、沢山の悲しい出来事にも遭遇しました。
安全で豊かであるはずの日本でも、子どもの貧困、下流老人、貧困女子などの言葉を聞く機会が増えていますが、社会弱者に対するケアや意識を変えて行かないと、日本でもジョーカーのような人が出てくるかも知れませんね。
社会の悪意が「ジョーカー」を生む
ジョーカーを観て、真っ先に思い浮かんだのは数ヶ月前に観た【存在のない子どもたち】と「結愛ちゃん虐待死事件」。前者は「ぼくを愛して育てられないのなら、産んだ責任をとってもらう」と両親を訴える子どもの話で、後者は記憶に新しい連れ子を虐待死させた凄惨な事件。
根底に共通するのは児童虐待。上のルポを読むまで知らなかったが、雄大被告が暴力と異常なしつけに走った遠因は、子ども時代に受けた暴力が根底にあった。頭蓋骨が陥没するまで父親に殴られたことがあるという。
ジョーカーことアーサーも同じように子供時代に虐待を受け、それがそもそもの不幸の連鎖の原因にある。
この映画は、独りの人間をいくらでも助けられる瞬間があったにも関わらず、それをしなかったたくさんの悪意が、ジョーカーを生み出してしまったことを描いている。
ジョーカーことアーサーは、脳に受けたダメージにより突然笑い出してしまうという疾患を抱えており、多少奇行じみた行動をとるものの、至って普通の情動を持つ人間だった。それを他人や同僚、職場の雇い主たちの心無い悪意が蝕んでいく。
そして何より父かもしれないと心の拠り所にした人物(バットマンの父親)や憧れの人に、邪険にされ晒し者にされた瞬間、彼の「他人にいたわりや優しさを求める心」は崩壊するのである。
緊張したり悲しんだり苦しいときに限って笑い出してしまうことが、彼の悲惨さをより強調する。鑑賞後はどうしたってアーサーに同情してしまう。
もともと人間社会は平等などではない。持たざる者と持つ者は生まれたときから決まっている。努力ではいかんともしがたい格差がそこには横たわる。持たざる者が少しおこぼれをもらおうとしても、持つ者はそれを阻む。ほとんどの者が「持たざる者」である社会で、「この話は私のことだ」、もしくは「私はジョーカーになりえる」と感じた人も少なくないのでは無いか。
であれば、その平等ではない社会をぶっ壊す権利はあるのではないか?というジョーカーの主張に、どう反論すればいいのだろう。彼の言う「人は自分の判断基準で生きるべきだ」という考えが蔓延した社会は、所謂無法地帯である。
しかし法というものは、それが無いと人間社会が成り立たないから皆で守っているだけであって、必要があれば変化していくものである。
であれば、「生まれたときから他人によって決められた法を、なぜ自分が守らなければならないのか? 社会が、『自分を無視し、不必要で消えていい存在だ』と追い詰めるのであれば、自分がそれに反抗して何が悪いのか」とジョーカーに問われれば、答えに窮する。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに「自分(または自分の大切な者)が殺されたら困るから」という答え意外に、実際何があるだろうか。
そこで立ち返らなければならないのは、アーサーは元々は「ハグして欲しい」という小さな願いを持った不器用な人間だったということ。
現実の殺人の動機がニュースで報じられると、「こんなことで」と言われることがよくある。でもそのたった数行の裏に、何年も積み重なった恨みや一言で言い表せない人生があったことを考えなければならない。先天的に人を殺したくてたまらないという衝動を抱えて生まれる訳ではなく、人とつながり、優しくされたいと欲する心の方が先にあるのだから。
他愛ない笑顔や挨拶、ちょっとした労りで誰かの心を一瞬でも救えるのなら、それで救える悲劇もあるのではないか――。
ダークナイトのノーランの世界を踏襲したとことん重い世界観ではあるが、ヒース・レジャーのジョーカーとはまた違う生々しさがあった。
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