「悪いのは監督か、ホアキンか、JOKERか。」ジョーカー JYARIさんの映画レビュー(感想・評価)
悪いのは監督か、ホアキンか、JOKERか。
ポップでもクールでもないジョーカーがここに誕生した。
ノーランのバットマンでジョーカーを認知した私には、この作品をどう評価すべきか分からない。
まず、ジョーカーを美化しすぎである。病気だし、障害のある貧困層が必ずしもああやって屈折していくわけではないだろう。どんなに酷い境遇だって強く生きることができたはず。それなのに、その境遇を理由に、社会の悪になるのも仕方ない、社会が悪いんだという描き方をされても、こちらとしてはふざけるなである。ああいうやつを持ち上げる市民がいるのも世相なのだろうか。
また、本来のジョーカーのキャラとはかけ離れた(ようにみえる)キャラクターにも納得がいかない。何事も俯瞰していて計算高く、それでいて下品ではない私の知っているジョーカーのカリスマ性が全くもって現れないのだ。一人で銃をもって芝居するのは、タクシードライバーのトラヴィス?自ら髪を染めたりするのも気に食わない。
ティムバートンの描いたジョーカーはアメコミからそのまま出てきたようなポップさが魅力だった。クリストファー・ノーランの描いたジョーカーは悪と善の間で我々を翻弄する生き様が魅力だった。今回のジョーカーの魅力はなんだろう。弱いものには優しいところ?強いものには理不尽に食って掛かるところ?彼が守ったのはしょせん自分のプライドだけのように見える。結局は自分が弱いものと認められるのが嫌で、必要以上に自分を強くみせ、自分の妄想を実現させる勇気はなく、自分の立場を危うくする邪魔者はぶち殺す、そんな身勝手な人間でしかない。そんな自分にもあるレベルの感情を持たぬのがジョーカーだ。私の理解の範疇を超えたところで悪に仕えるのが、ジョーカーだ。
この映画で最も要らなかったシーンは、同じ階に住むアフリカ系女性との日々が嘘だったと発覚するシーン。回想シーンで彼女の姿が消されている映像が流れるがあれは本当にいらなかった。あのシーンが無くても十分にわかるようにできていたし、急に現実に戻された感覚と、さあここで驚きなさい、と言われている感覚に陥った。
この先、ジョーカーと同じ障害や虐待、病気や貧困に苦しむ人々が彼と同じ生き方を見つけないように願うばかりだ。
追記:
最近ホアキンがルーニーマーラちゃんと婚約して嫉妬していたのは事実です。そのため映画が始まった途端から彼に嫌悪感を抱いていたのも事実です。さらに彼の汚さが露出する度に幻滅し、ルーニーマーラちゃんを思い出してしまったのも事実です。不純な鑑賞をしてしまい不本意であります。
しかしホアキンのダンスと表情は圧巻でありました。歩き方から笑い方まで非常に研究されているなと。ピエロになった姿なんて本当にホアキンなのか分からないくらいです。
さらに追記:
随分とこの作品を責める書き方をしたが、つまるところ私は非常に傷ついた。
アーサーがジョーカーになっていく過程で、私は仲間がダークサイドに墜ちてしまうその瞬間をみた気がした。仲間が傷付けられ、社会の隅に追いやられ、ついには居場所をなくし、そんな仲間をみたくなかった。鑑賞中はずっと、彼が何かしでかすまいかと心配でならなかった。何もするなとずっと願っていた。耐えろ耐えろ耐えろと。さらに、笑うすべ、生きるすべとして悪を発見してしまった彼に絶望した。勝てなかったと思った。笑いの力は社会を変えられないし、彼を救えなかった。その事実が示されたとき私はむしろ、この映画に反抗的になっていた。
さらに備忘録:
社会のマイノリティであることよりも苦しいのは、こんな社会でも肯定して生きていかなきゃいけないこと。受け入れて生きていくこと。そこまで描ききれていないと思う。
キリングジョークを読んで:
ジョーカーの本質を知りたくて、キリングジョーク完全版(アランムーア著)を読んでみた。なるほど、わかったことがある。
おそらく、ジョーカーの孤独やら悲劇やらを語るのに、バットマンは欠かせないのでは?正には負が、喜びには悲しみが、正義には悪がなければ、その存在さえも際立たないのでは?というか、在るからこそその間で人は揺れて、学んでゆくわけだと思ったりする。だから、ジョーカー単品でのゴールというのは、本来なくてこの映画はそこ自体が不正解というか、映画単独で成り立っていないように思えてしまうんだよなあ。もうどうすればいいかわからんくらいの悪への対処って、もはや社会には出来ないと思う。今回のジョーカーだって、社会には救えなかったし、救いの場がなかったし。だから、バットマンという絶対的正義がいて、そんなバットマンをも苦しめる悪だから、ジョーカーはこの世界で輝くのではないかとおもうんです。