「ノルマンディーから帰って来た青年は、海を渡りレースに身を投じた。(& Peterのその後)」フォードvsフェラーリ bloodtrailさんの映画レビュー(感想・評価)
ノルマンディーから帰って来た青年は、海を渡りレースに身を投じた。(& Peterのその後)
タイトル詐欺じゃん、ホンマに。イヤ、無茶苦茶萌えた。俺的には、歴史に残るレベルの胸アツ物語でした。ケン・マイルズとキャロル・シェルビーが、フォードとフェラーリの両者と戦ったドラマ。男のロマンは焼けるオイルと焦げるタイヤの匂い。フォードチームのマクラーレンは、あのマクラーレンの創始者ブルース・マクラーレン、出番は無かったけどw
ケン・マイルズにスポットライトを当てたって所が、最高です。彼の最後を知っている人は、最初の登場シーンから泣けると思う。俺がそうだったから。Ford Vカーのテストドライブ中の事故。47歳で逝去したマイルズ。この物語りの開始から、わずか2年後の事。セナはサンマリノのGP中にで命を落としました。開発育成中のテストドライブ中の事故は、マイルズ的だと言えないこともなく。
クルマヲタ必見、言うまでも無く皆んな見るだろうけど。ヲタ視点はじっくり書き足すとして。とりあえずリピート確定だす。
良かった。とっても!
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1/13追記
◆キャロル・シェルビーの心臓病
Carroll Hall Shelbyは1923年、テキサス州東北部のLeesburg生まれ。7歳の時に心臓に弁口漏出が認められ、生涯完治することはありませんでした。高校時代からWillys Automobileと言う「街のガレージ」に出入りを始めます。ジョージア工科大学に進学するも学校にはほとんど通わず、1940年にUnited States Army Air Corps (USAAC) に入隊。フライト・インストラクターとして第二次世界大戦に関わって行く事になります。ビーチクラフトの軍用派生機、AT-11 Kansan や Jeepの愛称を持つ Curtiss-Wright AT-9 が愛用機だったそうですが、いずれも、プロペラの双発機です。
終戦後、友人のMG-TCでレースに参加したシェルビーは、その後、トントン拍子に実績を残して行きます。AC-Cobra、Aston Martin、Maserti 等を乗り継いで名を知られて行ったのが50年代の話。58~59年にはFormular-1でも8戦を走り、59年には Aston Marin DBR1でFerrariを抑えてル・マンを制します。同年、Shelby-American を創立してコンストラクターとしての活動をはじめ、ドライビングスクールを開設、CobraやMustungをスポーツモデル化し販売、レースへの参戦で実績を作って行き、Fordからル・マン参戦へのオファーを受けることになります。
7歳から心臓病を患い、生命の危険と隣り合わせで成長。その持病が故に、戦地へ赴くことはなかったシェルビー。レーサーとして成功を収めコンストラクターへ転身すると言うお決まりのコース。Fordからのオファーを、彼はどんな気持ちで請けたんだろ。
◆ノルマンディ帰りのイギリス人
Ken MilesことKenneth Henry Miles は1918年、英国の鉄鋼の街、バーミンガム近郊のSutton Coldfield生まれ。 家族は米国移住に失敗。マイルズは15歳で学校を中退し、あのVickersが創立した自動車メーカー、Welsley Mortorsで働き始めます。自動車の機構・構造的な知識は、ここで培われたものとされています。その後、British Territorial Army (いわゆる志願軍)の戦車兵として第二次大戦に参戦。1942年にはStaff Sergeant(軍曹。等級不明)に昇進。1944年のノルマンディに参加する戦車部隊に配属されています。
終戦後、英国のVintage Sports Car Clubのドライバーとしてレーサーとしてのキャリアを開始。1952年に米国移住。南カリフォルニアのMGのディストリビューターのマネージャーとして生活を始めます。同時に、MGを独自に改造したオリジナルとも言える車両でSCAAに自費で参戦。53年には14勝を挙げています。その後、Porsche356/550、Shelby Cobra 289 等でレースでの実績を上げ、1963年にShelby-American に、チーフ・テスト・ドライバーとして迎え入れられています。
マイルズはノルマンディ帰り。作家、J.R.R.トールキンも同じく。トールキンは、ノルマンディから帰って来て、自分の物語を語り始めました。マイルズは、スピードの向こう側に見えるものを求め続けました。それが「存在が消える」なのか。自分自身の全てが、無くなってしまう、無に帰る、ってことなんでしょうか。
Shelby-American に参加する、かなり前の事。マイルズは記者へのインタビューに語っていました。
「いつかはFormular Oneも運転してみたい。栄誉や勝利のためにではなく、そこに何があるのかを知りたい。きっと、陽気で楽しいと思う」
穿った見方かも知れませんが、彼は死を恐れることなど無く、むしろ、ささやかな願望すら持っていたのではないかと思ったりします。
◆ヘンリーフォード二世は、何に対して激怒したのか
大金を投じたレースに負けたことも悔しかったでしょう。が、彼が一番怒ったのは、1965年のル・マンの勝者であるフェラーリ250LMは、「ノースアメリカン・レーシングチーム(NART)」からのエントリーだったことだと思います。彼は、ヨーロッパとの戦争だと息巻きました。元々、ブランドが欲しくてフェラーリの買収に乗り出したFord社。「ブランドを超越した存在」であるフェラーリにコケにされた事が、彼のココロに火を点けたのに。逆に、米国マーケットが、フェラーリのマーケティングに侵攻されている事に、我慢ならなかったのだと思います。
◆フェラーリは本当にFordを恐れていた
1965年のル・マンではワークスから参戦した330P2が全滅し、NARTからエントリーした「子供」である250LMが優勝しました。同年、FordのGT Mk.2のスピードを見せつけられたフェラーリは、それまでの275/330Pを全面的に改良する大手術に打って出ます。Fordの社長室で、シェルビーは「フェラーリはFordに慄いている」とヘンリー・フォード二世に囁きますが、その通り。フェラーリは、「技術的な改良を続けることによって進化している」Ford GTを、心底恐れていたのは間違いないと思います。
◆フランスのレース・オフィシャルは、米国Fordの "Dead-Heat Photo-Finish"に嫌がらせがしたかった
マイルズが、同年三冠を逃した件については映画の中での描写通り。しかしながら、オフィシャルはライン・フィニッシュでの勝敗の判定についての情報(20ヤード後方からスタートした#2カーが優勝となる)を、シェルビーに伝えていませんでした。"Dead-Heat Photo-Finish"に理解を示していたが、最後の最後の瞬間に裏切ったと伝えられています。
◆1965年 Milesはル・マンを走っている
映画の中では同行を許されず、ガレージで細君と素晴らしいひと時を過ごしていましたが、事実は、Bruce McLaren とGT Mk.2で参戦しています。ここは、まぁ、演出ですね。
◆Peter Miles のその後
1991年、Ivan StewartがNissan 400でNevadaで勝利した時のチームのChief Crewの名前が、Peter Miles。15歳の時、父親のFord V-Carが200kmph(速度には諸説あり。事故はエアロダイナミクスの問題と言われている)のスピードでスピンし、跳ね上がり、バラバラになった車体から外へ投げ出されて即死した現場に居合わせた、Peter少年です。父親の事故の数か月後には、彼は田舎町のカスタム・カー・ショップで働き始め、24年かけてレーシング・チームのChief Crewになったんです。現在は、ビンテージ・カー販売会社の、Excutive Adminstratorを務めておられるとの事です。
遅まきながら観てきました。ピーターくんのその後気になって、映画館出てすぐ調べました。ああ、なんか書いてないな〜と思ってたら、bloodtrailさん、さすがです笑
間違いなく☆5の映画でした〜。
私はモリーに痺れました。
垂水のハスラーさんへ
コメント、ありがとうございました!
レビューを一度投稿した後、二人の男がル・マンに参戦するまでのキャリアと、ピーター少年の消息だけは皆さんに知って欲しくって、長々と追記してしまいました。お役に立てた様で嬉しいです!
隣に座ってたおばちゃん2人組が、絶対ピーター君は車にかかわる仕事するわよねぇ、あんな詳しいんだもの!トークを繰り広げてましたので、おばちゃんがbloodさんのレビューを読んでくれることを祈ります。
よくパンフレットのプロダクションノートとかに専門家の解説がありますが、こちらのレビューがあれば、もう何も要らないですね。正直、映画の色々なシーンがまた思い出されて、目が潤んでしまいました。ありがとうございます。
いやーもうレースシーンには興奮しちゃいました。
タイヤの数は違うんですけどね、昔FZR250で18000回転190キロを出したときに身体が風と同化して、そのまま飛んでいきそうでした。
時速350キロに達したら、当然マシンは消えた感覚になるんでしょうね。浮力もすごいし。