「作り手の作為がはたらき過ぎた感」ある少年の告白 天秤座ルネッサンスさんの映画レビュー(感想・評価)
作り手の作為がはたらき過ぎた感
これが現代(せいぜい近過去)の物語だというのが、なんだか信じられないというか、未だに信じていないというか。未成年の同性愛者を「矯正」する施設と言うのが未だに存在するという事実。私はまったく知らなかったし、その中で行われていることに関しても、それが現代に行われていることだというのが俄かには信じられないようなもので驚愕した。「ホモフォビア」とまでは行かずとも、同性愛にちょっとした気まずさや違和感を覚える人がいるにしてもそれを「矯正」し「治療」しようという価値観が未だに残っているなんて。
作り手も、そういった「矯正施設」という場所がいかに狂気的であるか、悪質であるか、というところを社会に向けて発信しなければという思いがあったのだろうと思う。そういう意義をもって映画が作られるのはもちろん悪いことではない。
ただこの作品が惜しいなと思うのは、作り手がその矯正施設を"ヤバい"場所であると意識しすぎてしまった、あるいはそれを演出しすぎてしまったところだと思う。
施設が"ヤバイ"というのは映画を見ている観客が自ずと気づくべきことであって、演出で押し付けられるべきことではない。宛らホラー映画の如く施設内の出来事を描写して、施設の狂気を演出してしまうとそこに作り手の作為が加わって、観客としては作り手の価値観を通して映画を見るような感覚になってしまう。言ってしまえば「ドラマ」ではなく「報道」により近いものになっており、施設の外では一人の少年とその家族のドラマとして成り立っている内容が、施設内に入ると途端に「矯正施設はこのようなことをしているのです」「施設内ではこのようなことが横行しています」「施設はこんなに酷い場所なんですよ」といったガイダンス的様相を見せ始めるのが、映画全体として捉えた時に終始ちぐはぐした印象を受ける理由かと思った。
伝えたいメッセージは重要でありもちろん異論もない。ただ映画としてそれを表現するスタンスに少々のずれを感じ、そのずれが時に「作為」に見えてしまう嫌いがあった。それでは本来伝えるべきメッセージが適切に伝わらなくなってしまうし、せっかく意義のあるテーマなのにそれが届き切らないのは受け手としてももどかしく思った。