セメントの記憶のレビュー・感想・評価
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この世の地獄が白日夢のように襲いかかる
自らもかつて徴兵制によりシリア軍に従軍し、そこで戦争の惨さを経験しているジアード・クルスーム監督が、同じ思いを引き摺りながらベイルートの高層ビル建設に勤しむ同胞たちの厳しい現実に切り込んでいく。セメントの記憶とは、彼らが爆撃で破壊された故郷の瓦礫の中で、また、ビル建設の最中に直接的に味わうセメントの味を意味する。臭いではなく、味。そこに、破壊と創造を繰り返す愚かな人間に対する現場からの警鐘が込められている。しかし、このドキュメンタリーが秀逸なのは、そんな過酷な現実をまるで絵画と見紛う美しいフレームショットの積み重ねによって、別次元へと昇華させている点だ。空中にそびえ立つ高層ビルの梯子から見下ろす、ネオンサイン煌めくベイルートの海岸線、壁の穴から覗くスカイブルーの空、ミキサー車に取り付けられたウェアラブルカメラがとらえる回転する町の風景、等々。研ぎ澄まされた美意識を用いると、この世の地獄がさながら白日夢のように観客に襲いかかる。このような痺れる映画体験はあまりあるものではない。
補えない喪失感
戦争で失ったのは住処と家族だけではない。安全に生きる権利や思い出を失ったまま、富裕層がお膳建てした「Scrap&Build」なる綺麗事の元、過酷な建設現場で働く戦争被害者(シリア移民)達の圧倒的虚しさ。
戦争がもたらした破壊は、決して償ったり補う事が出来ないDestroy(破滅)の類だ。
本来庇護されなければならない戦争被害者たちが破滅と再構築に携わっている状況は、賽の河原を体現しているかの様だ。
もし、シリア移民たちに建築業を斡旋する組織と戦争を起こした側が同じだったら…と一瞬残酷な事を考える。
彼らが危険と隣り合わせの現場で築く高層ビルには、おそらく彼らとは無縁の、富裕層が住むのだろう。
爆撃の破壊音や、鉄板やコンクリートを切断する衝撃音は、体験した者の徐々に心を蝕んでいく。
【以下、疑問点】
●シリア移民に過酷な建設業を斡旋しているのは何処の組織なのか?
●建設現場で働く彼らがスマホを使っていたが、あの環境で通信が使えるんだろうか?
●身元保証が覚束ないのにスマホの契約はどうやっているのか
初めてのタイプのドキュメンタリー映画
このエッセイ(随筆)が父親をしのぶ書き方であったり、それに、家族をシリアにおいて働きにきているシリアからの建築業の人々が故郷を案じている書き方であったりしている。いかに、個人のストーリーを淡々に語っていて、何ひとつ会話がないが、この表し方が、私の心を打つ。目がどうしても、字幕に行ってしまうのが常だが、監督は我々に、視覚で味わう時間を与えてくれている。ストーリーが途切れる間も、かえってこのエッセイの朗読を深く
感じさせてくれる。ゆったりとした低い声で語るエッセイ朗読の仕方が、ストーリーやスクリーンの過酷さとは真逆のイメージを与えるところがいい。青い空と海、そこに高層ビルの建築。ましてや、雑音や騒音をかなり消して、エッセイに趣をおいたのだろうか。視覚と聴覚に訴える映画だが、ふっとセメントの匂いを感じさせる映画だ。今までの見たことのないタイプのドキュメンタリーだ。ベイルートでシリアからの労働者はビルを建設しているが、シリアのアレッポやダマスカスではビルが崩壊されている。皮肉だ。
シリアからの労働者の人間扱いされていない生活や現場での扱い。彼らが、休むところは工事現場の地下、周りに雨水が溜まるところ。それに、手袋、マスクなしで、現場で働く。一人はヘルメットも被っていなかった。無くしてしまったのかもしれない。予備がないのかもしれない。なくしたら、高いお金を払わなければならないかもしれない。そのことはわからないが。この状況をみれば、なんとなく見当がつく。
ベイルートの高層ビルで働く労働者は地中海を臨める景色のよい素晴らしい地域が仕事場だ。ベイルートの高級地域だということは見るだけでわかる。エレベーターで現場まで行くが、12時間も過酷な太陽がギラギラする現場で、目の下に、広大な地中海の見ながら働くという皮肉な労働状態。こんな場所で、肉眼で(ガラスを通さず)肌に感じることができる。夜はレバノンのシリアからの労働者は七時以降は外に出られないと。テレビやスマホのスクリーンで、シリアの内戦(アサド政権によって、アレッポが攻撃され、破壊されているとか、ダマスカスでの同じことがおこっているとか、レバノンにシリアからの難民が流れ込み、差別が始まっているとか。)での様子を伝える。家族は大丈夫かどこにいるかと心配して、スクリーンに釘付けになる。視聴者は、この戦争が起こす悲惨な生活環境に同情するが、その反面、地中海に面している景色に目を奪われる。
視覚と想像力で感じる
視覚と想像力で感じる作品。建設(労働)と破壊(戦争)を繰り返す人間の愚かさを再認識させられる。時折映し出される自然や生物はいつも人間の犠牲者。異常気象や温暖化、海洋プラスチック問題など、その代償は非常に大きく全ては人間自らが招いた問題である。
2019-173
そろそろ微妙になって来た...
去年観た「ラッカ」や「ラジオコバニ」と比べると、明らかに「魂」が抜けてる感は否めない。いや、こんな言い方するのは、本当に憚られるんだけど、そろそろ「シリア内戦被害者の立場を悪用」に入って来てる風体は、ある。
レバノンの高層ビル建築現場のシリア人労働者の姿、おかれている環境を淡々と「言葉無し」で撮り続けます。爆撃で瓦礫の中に閉じ込められた少年の回想録が語られて行きます。コンクリートの味は死の味だと。
シリア内戦で市街地戦のミッションに就く戦車からの映像はショッキング。砲台に据え付けられたカメラは、砲撃によって舞い上がる煙を写す。簡単に言うと、それだけ近い場所を砲撃している事を示します。そう、まさに目の前の住居・建物。せいぜいの場所であっても、それは到底軍事施設とは思えない、一般の建造物。
空爆によって一瞬で瓦礫となった建物跡に男たちが群がる。レスキューでも、軍人でもない一般人です。生き埋めになった者を、掘り返すために。助け出すために。誰かが掘り起こされる。小さな歓声が上がります。倒壊した壁と床の間の狭い隙間に潜り込んで行く男。倒れたコンクリート壁と床の間から、何かを引きずり出そうとしている。それは人なのか?家具なのか?何者かが引きずり出された後に、床下から飛び出している様に見える男の顔と手。生きている。動いている。こちらを振り返っている。だが。どうやってあそこから、この状況から救い出せば良いのか?底知れぬ絶望。
シリア市街戦の生々しさは驚愕です。
破壊し建てる。誰かが破壊した命も誰かが再生する。誰かが奪おうとしている命を、誰かが救おうとしている。映像は、そんなことを語ってくれる。
誰が何を守ろうとしているのかが、すでに分からなくなっているこの戦争は、まだ、終わっていない。
映画への不満は、これらを、あまりに情緒的な追憶の物語風にしてしまっていることです。ドキュメンタリーって呼びたくないよ。
カメラワークが独特です
カメラワークが独特で魅了されました。シリア人労働者の日常がとても丁寧に描かれていますね。極端に台詞を少なくして静寂さと自然な音(波、工事現場、空爆音)のコラボレーションで全編構成されています。ラストシーンのカメラの自転は毎日繰り返されるシリア人労働者の日常を暗示しているようでした。
大胆な画面の連なり、生々しいドリル音と爆音の繰り返し、言葉数少なめ...
大胆な画面の連なり、生々しいドリル音と爆音の繰り返し、言葉数少なめのナレーション、それだけで強烈に訴えてくる画面の力に驚いた。
壊して作る、歴史も彼らの生活も淡々と繰り替えされる。まるで悲しみも喜びも麻痺して感じなくなってしまったかの様に無表情に見える彼らの瞳、高層ビルから望む広々と澄み渡る海を見つめるその瞳の奥には何が写っているんだろうか?
繰り返される悲しみ
ビルの建設現場で生コン打設のアルバイトをしたことがある。生コンは型枠の中に流し込む。鉄筋屋が鉄筋を組み、その周りを型枠大工が型枠で囲い、鉄筋と型枠の状態を現場監督が確認したら、生コン打設となる。ポンプ屋が来て、ミキサー車が来る。ポンプ屋のポンプにミキサー車から生コンを流し込み、ポンプでビルの上まで送る。ホースの先のロープを引いて、生コンを流し込む場所を移動していく。作業員が待ち構えて、スラブ(階を隔てる天井と床を兼ねたもの)の生コンはトンボで均し、壁の中の生コンは空気を出すのにバイブレータを入れて撹拌する。
ある日、生コンを間違って素手で触ってしまい、手が荒れてしばらく治らなかったことがある。ほぼ一皮剥けて、漸く元に戻った。生コン打設は危険で大変な作業だが、早い時間に終了するので人気の現場だった。
生コン打設から2週間ほど間を開けて、型枠を解体する作業になる。生コンがちゃんと乾き切っていれば、スラブが落ちることはない。その間にもさらに上の階の鉄筋組みや型枠張りが行なわれ、再び生コン打ちとなる。これを繰り返して最上階までが終わると、鉄筋工も型枠大工も解体工もお役御免となり、次の現場へ向かう。誰も無口で淡々としているが、一つの現場が終わると、それなりの感慨がある。打ち上げの飲み会で現場でのエピソードが披露され、笑いが起こる。日本は平和だ。
平和でない国の建設も同じように行なわれるが、折角造ったビルが、戦争によって壊されてしまう。ビルは忽ち凶器と化して、人々の上にのしかかり、生き埋めにする。どこからやって来たのか、沢山の人々が集まり、生き埋めになった人々を助けようとする。助かる者もあれば、間に合わずに亡くなる者もいる。瓦礫が取り去られると、再び建設の図面が描かれる。穴が掘られて柱が埋められ、柱から伸びる鉄筋を元にして鉄筋工が鉄筋を組み、型枠大工が型枠を張って、ポンプ屋が生コンを流し入れる。
弾薬を生産する軍需産業や建設関係の企業は儲かるだろう。しかし庶民は戦争のたびに確実に貧しくなっていく。オリンピックの開催地がオリンピック後に、以前にも増して貧しくなるのと同じ図式である。
懲役の中でも最も厳しいとされているのは、一日中穴を掘らせ、次の日にその穴を埋めさせ、そして次の日に再び穴を掘らせて、次の日に埋めさせる、それを繰り返させることだそうだ。変化も進歩もない生活は、人の精神を蝕む。
生と死が表裏の関係であるように、建設と破壊も同じ現象の表と裏なのかもしれない。しかし人間には今日と違う明日、ここではない別の場所が必要だ。もし物理的な変化が叶わないなら、ひとり精神世界の中で変化していくしかない。壁を睨み続けた達磨のように。
作品の印象は静かな怒り、あるいは静かな悲しみである。建設現場のハンマーの音は、ときに子守唄のように、ときに過去を思い出す引き金のように響く。瓦礫の下で味わったセメントの味は、父親との別離のにおいであり、絶望の味だ。世界の何処かでビルが壊され、世界の何処かでビルが建てられている。繰り返される悲しみの果て、いつか最後の人間が息絶える。
美しくて残酷
この映画はどのカットを見ても美しいです。美しいからこそ、残酷である。まさに表裏一体であるこの2つの概念を極限まで映像で表現した素晴らしい映画です。
私達が戦争のない国で暮らしていること、そしてこの映画の制作者が「君たちの世代に戦争がないこと」をどれだけ祈っているか、心に留めて劇場を出ることになるでしょう。
破壊と建設
戦争による破壊行為は食いつくように見入って、淡々と写し出される建築現場の様子には、何にも興味を示さなかった。
自分がそんな奴だと自覚させられた映画でした。
復興は喜ばしいことなのに、そこには我々のスポットが当たらない。
『アレッポ 最後の男たち』がこのタイミングで上映されていたので続けて見たのですが、そうすると、この破壊された街の意味がわかります。
想像力をもって映画を見ると、面白さは(←不謹慎ですが)は、2倍にも3倍にも膨らみます。
建設と破壊と
戦車による建物破壊と繁栄に向けた高層ビル建設。破壊されたがれきの中でのコンクリート臭とビル建設現場で体に染み付いたコンクリート臭。がれきの中から救い出された自分とビル建設の出稼ぎから帰って来た父親、そして今高層ビル建設現場で働く自分。隣国同士で起きている虚しさ、不条理。
画面の切り取り方に驚愕。放つメッセージの強烈さに息を呑む。
ただし、高所恐怖症の方は、冒頭の10分ぐらいは画面を見ているだけで足がすくむかも。
MVのように
惨劇とバブルな市街の風景をミックスして
強烈なメッセージを放つ、
斬新なドキュメンタリーフィルム。
過剰に演出されたインタビューは全くない。
1人のモノローグと映像とインダストリアルノイズだけがけたたましく、時に静かに哀しみを伝えてくる。
内戦で行き場をなくしたシリア人労働者たちが、
地中海の青さに抱かれ
癒されることを祈るばかり。
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