天気の子のレビュー・感想・評価
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ハッキリ言おう!面白くないと。
新海監督の作品はシナリオ共に映像がとても緻密で繊細に描かれているので有名になった。しかし、今作では君の名は。のようなインパクトや魅力を感じることが出来なかった。それに踏まえ、物語の進み方などに違和感を覚えた。今作は本当に新海誠が作っているのだろうか?
この感想を見た皆さんには、1度天気の子を見て頂きたい。
最後に一つ君の名は。の名前を借りた一作と。
でも、絵は綺麗
その後の展開を想像してみたら…
この映画、自然の光景と音楽は、美しく調和してるけれど、
人の描写と結末は、中途半端で、それは、現代社会の私たちの中途半端さと、
直面している問題の困難さを反映している。
だから、『愛にできること』を探しませんか?
とメッセージしているのだな、と思ったのが、1回目でした。
その意味で、新海監督は素晴らしいし、その後の想像も掻き立てられます。
ということで、いろんな想像があると思いますが、
その後、どうなったのかな?を書きます。ハッピーエンドを考えました。
◎『どうしたら、みんながハッピーエンドになるか?』
百人、千人、全員が天気の子に成ればいい。
◎『天気の子の条件』
大きな愛、豊かな感性(陽菜の母への想いと、自然界との一体化能力)
◎『ストーリー』
陽菜と穂高は、天気の子の素質を解明しようと、『天気の子 研究会』を発足。
ひょんなことから「君の名は。」の三葉に出会い、
陽菜「三葉さんって天気の子っぽくないですか?」
ということで、三葉もスカウト。瀧くんもついてくる。
瀧くんは、名前からして、雨の子。
「もっと、天気の子を増やすには!?」と考えたところ、
穂高は、Youtubeとインスタをやろうと陳腐な提案。
陽菜は、みんなが楽しめる大道芸をやろうと言い、
三葉、瀧くんは、沈黙。そこで、
凪「お姉ちゃんたち、アイドルグループでもやれば?」
鶴の一声で、陽菜と三葉はアイドルグループを結成することに。
その名も、『てるてる・Qラブ(くらぶ)』
しかし、陽菜は、「それならまだ、お笑いか大道芸のほうがいい!」と主張をゆずらず
よって、折半、
『日本興業エンターテイメント』を立ち上げ、史上初の、
本格的な、アイドルとお笑いがマリアージュしたグループを結成。
そうこうしている内に、瀧くんは、
天気の秘密を解明、空の奥には、まだ見ぬ天の世界があることを知る。
天の世界の存在たちは、彼らが、
世界を明るくするために、動き出したことを知っていた。
そこで、陽菜たちは、天の光の存在たちと、契約を結ぶことになる。
そう、ここからが、
日本興業の『光営業』のスタートだ(笑)
光営業とは、太陽のように、24H営業、年中無休の無給。
ブラックに聞こえるが、この上なく、クリーン。
いや、本当は、最大の報酬がもらえるのだ。
天気の子として働くとき、一人で抱えるから、負荷がかかる。
でも、2人以上の天気の子がいるなら、
愛のシナジーで、爆発的な歓びが与えられる。
それは体に受ける負荷を上回るパワーを発生させる。
それが、100人になったら、どんなに素晴らしいことだろう!
その真実を知った、てるてる・Qラブ一行は、
ファースト・アルバム
『愛にできることはまだあるかい』
を発売、被災地をメインに、各地のイベントスペースで披露することになる。
この初回限定版DVDのB面は、お笑い企画で、
『絶対に笑ってはいけない穂高のチャーハン』となっている。
とてもワクワクする内容だ。
しかし、イベント当日は、伊勢台風の30倍の未曽有のスーパー台風100号の接近
誰もがあきらめる状況となり、全国規模の、特別警報、緊急事態宣言を政府が発令した。
てるてる・Qラブは、必死の思いで、神社のゲイトをくぐり、
天の世界へと助けを求めに行ったところ、帰ってきた答えはこうだ。
『大難を小難にするには、正中台風に変えるほかない。』と。
太陽(火)の力と水の力(水)が必要だという。
その器になるのが、陽菜と穂高だ。
しかし、2人の力で変えられるのではない。
天の気とは、人々の気と連動し、
莫大なパワーとなって降り注ぐ。
それを仲介し、増幅する役割を持つのが、天気の子なのだ。
人々の心の中に、明るさがなければ、増幅することはできない。
人々の心の中に、明かりを見つけた時に、コラボレーションすることができる。
それが、本当の、晴れ女の力なのだ。
中略。
こうして、イベントスペースでは、無事、
歌とダンスとお笑いが絶妙に繰り広げられ、
台風を変えた力を観たくて来る人も多く、
爆発的なヒットを記録、1週間の公演の間に、
youtube再生回数5670万回を達成し、さらには、
メンバー志願者が多数続出、計36人になった。
この明るいムードが、子供や若者たちに希望をもたらした。
『大きな愛と豊かな感性で世界を照らす
てるてる・Qラブ!!!』
このキャッチフレーズは、瞬く間にその年の流行語となったのだ。
若者だけではない、大人たちにも希望をもたらした。
天気は、変えられるのだということ。
ムードは、変えられるのだということ。
人々のムードが、社会に影響を及ぼし、天気に影響を及ぼす。
天気が、人々の心に影響するのだとしたら、
逆もまた、しかり。
自然界の法則に一方通行はない。
それが、本当に、可能だ!ということを示してくれた彼らに、
大人たちも、ようやく、『光』を観ることを思い出したのだった。
おわり。
長文をお読みいただき、ありがとうございました。
大人こそ観るべき
繊細さが失われ、ずいぶん大味になった。
映画を見終わって「一体何がどう大丈夫なの?」と思ったまま私の思考は一時停止。あなたたち二人は大丈夫でも、あなた以外の人々は少しも大丈夫じゃないんだけど?と冷静になってしまう私は、この映画にロマンを感じられるほど盲目(※)ではいられなかった。(※)使用の難しい言葉だと分かりつつ、他の言い換えがしっくり来ず。差別的な意味はないのでご容赦ください。
私は本来ラブストーリーが好きだし、他者を巻き込み犠牲を払いながら愛を貫いていく物語も好きだ。そういう物語を決して否定はしない。でも帆高と陽菜の関係にそこまでの愛を感じなかった。青春の淡い初恋としてならいいだろう。ただ東京を海に沈めてまで守るべき愛だと思えるまでには到底至らない。二人の絆がそれに相応するものだとはどうしても思えない。それを許せるほど二人に魅力を感じない。二人を見ていて、東京なんて海に沈んでしまえ!晴天なんてなくていい!それでも二人は一緒にいるべきだ!とは、とても思ってあげられなかった。
それはまず主人公の帆高の愛の枯渇や孤独感がまったく切迫して見えないというのが理由のひとつで、どうやら家出をして東京に来たらしいことは分かっても、どうして家出までしたのかが帆高から汲み取ることが出来ず、結果地元でしっかり高校を卒業までしているところを見るに、ただ中二をこじらせただけで家を飛び出してきたかのようにさえ思える。彼が一体何と戦い、何から逃げ、何を求めているのかがずっと漠然としていて、だから彼にとって陽菜が不可欠だと感じさせるだけの材料が揃わない。陽菜の設定も「両親を失い弟のために年齢を詐称して自活する少女」というまるで20年前のケータイ小説のようなフレーズにロマンを感じているだけで裏付けが存在せず、いちいちツッコミどころが多くて敵わない(いっそファンタジー設定は許すとして、社会的な設定など滅茶苦茶で)。
新海監督の作品は、世間でもよく言われるように「童貞的」な感性があってそれは長所だと思う。繊細でナイーブな少年のハートをそのままアニメーションに出来る人だ。ただ今回は演出が随分と大味になったと心底思った。音楽が流れ出せば分かりやすく画面は空へパンするし、聞かせたい台詞は「これは決めの台詞ですよ」と言わんばかりに際立たせる(そして私はその都度脳内で「は?何言ってんの?」と思う)。以前からそういう演出の手癖は分かっていたけど、それでもそこにある繊細さは損なわれていなかったはず。でも今回は繊細さがごっそり失われ、ストーリーもそこに描かれる帆高たちの感情表現含め実に大味で大雑把に思えた。
片腕に手錠をぶら下げて警察から逃げる少年やら、震える手で銃を構える少年やら、そしてそこにロマンを感じる感性やら、とにかく中二的でもう見ているこっちが恥ずかしい。帆高が年上の綺麗なお姉さん(陽菜も当初は年上と騙っていた)にからかわれて可愛がられているのもいかにも童貞的できまりが悪いし、なんだか・・・今回いつにも増して内容も演出もひどくクサくなったような・・・。ロマンだけを追いかけたクサい演出が「思わせぶり」ばかりを散りばめ、それらを決して回収することなく物語が強引に押し通されていくだけ。
シンプルに面白くなかったし、最終的に感じたのはひたすら「虚無」だった。
ジェネリック青春映画
まず、期待しすぎてしまったから低評価というのが大きいとは思います。
デートムービーとして教科書通りの作り方をしていると感じました。設定は面白かったけど、描き方と展開が既視感満載でした。「BLACK CAT」みたい。
年間に映画を何本も観る人を対象にしているのではなく、1年にこれだけを観る人を対象にしているという印象です。
今までずっと新海作品を観てきましたが、「君の名は。」で感じた違和感は今作でさらに大きくなり、自分が新海作品の対象外になったのだなぁ、と感じました。それが、少し悲しかったです。
「言の葉の庭」を観た時のあの気持ちを新海作品から感じることは、今後もうないのかな、と思うと寂しいですが、映画界全体としてはこれがヒットすれば潤うと思うので、良いと思います。
10代の頃に見たかった
あめ【雨=天=海】とつながるための映画。人の評価など気にせず楽しんでください!
天気の子、やっと観れた。
映画のレビュー書いたりするのも最近やらなくなったが、今年もたくさんの映画を観まくり、神社やお祭りも、ライブや展覧会も、行けるときにどんどん行ってるから、その都度書きたくても追いつかないからいっそのこと書かないと決めていた。
海獣の子供がすごくよくて、いいのかこんなことを映画館で見せちゃってと思いながら、でも、今このときだからこそやらなきゃならない使命感のようなものがあったと思わせる、今まで見たアニメの中でも最高クラスに響命できる内容だった。
今回の天気の子も、前作君の名は。に海獣の子供の後でのしかかる期待を吹き飛ばすような、今このタイミングだからこそ世に放つべく公開された映画といっても過言ではない。
とてもヒットする内容とは思えない前評判のよい映画だけど、実際は賛否両論の微妙な映画だともいえる。
わたしは、もちろん感じ入る場面が多々あり、細かな不平不満のあるシーンはチャラにしてでも総合評価は高いを維持した。
新海監督の表現する世界に近いものを感じてる。
かつての勢いがなくなったジブリ世代を満足させる勢いがあるのも確かだけど、それは旬なだけで、熟した完成度の高さでいえばジブリを超えられない、まだまだ伸び代のある監督だと思う。
君の名は。で、現代社会の中に過去と未来の時空をつなげた。
今回は、現代社会の中に天と地をつなげた。
これで縦軸と横軸がクロス。
ここからちょっとストーリーにも触れるネタバレ注意。
映画のほとんどが雨のシーン。
災害クラスのはずなのに、あまりにも美しく描かれていて魅入ってしまう。
異常気象などなく、たかだか100年そこそこの観測で史上初のとか記録更新で騒いでるけど、この龍神が描かれた絵は800年前で、それ以前からずっと自然は自然らしく振る舞ってるだけだ。
東京も昔は海の入り江だった。
そこに戻ろうとしてるだけ。
異常でも何でもない、ごく自然な流れ。
別に雨が悪者ではなく、雨によって中断される人間側の勝手な都合が、雨を悪者呼ばわりしてきただけだ。
自然界にとって、夏の雨季は大切。
川は増水するために流れてる。
川の自然堤防はいつも決壊したがってる。
それが都市で起きるとどうなるか、想像どころか現実になってきている。
雨、あめ。
そう、天もあめだし、海もあめ。
雨も天も海も、中国の漢字で分別される前からあった“あめ”という言葉はすべて同じ意味でくくられていた。
高円寺にある、気象神社。
晴れは稲荷で、雨は龍神。
天気は、天の氣。
昔は旱魃があると、雨乞いで人柱を捧げてきた。
だけど、天気を恨んだり異常気象とは呼ばなかった。
雨がつづけば、雨乞いと逆の呪術を使って踊った。
天気の子は晴れ女という設定で、人柱など同じような世界を表現。
天の積乱雲にも深い海のような世界があって、不思議な魚が泳いでる。
雨と天と海は同じだと。
あめとして、今でもすべてはつながっている。
そんな、天気の子の映画だった。
監督の良い意味での青臭さを感じた
自分はちょうどよく感じたが映画館のほかの席の反応を感じとるに展開がやや早めなのかも。
特に映画の終盤に主人公がある場所に行かなければと思い立つ部分に関してはなぜそういう考えに至ったのか
なんとなく納得している層と色々ツッコミたい層とそもそも理解出来ない層が生まれると思う。
ラストの結末に賛否両論あるかと思うがあの結末を選んだ監督に自分は好感が持てる。
この映画の伝えたいメッセージを色々補足すっ飛ばしてシンプル&勝手な解釈にするなら
主人公=若者たちへ
今の社会には若者たちへ理不尽を強いられる選択があるかもしれない。しかしたとえ社会基盤をぶち壊してでも若者たちには選択権があること、そして壊れたところで元々世の中が狂ってるのだから問題ないこと。気にしないこと。
だから今、若者に見てもらいたいと
そんな希望を託してるのかなと
新海誠という人をとても若々しく感じた。
ストーリーの余白が多い
とてもきれい。特に雨粒がはねる描写、荒れた空の描写。
「君の名は」もそうだったけど、設定のつじつま合わせを考え始めるとおかしいところや語られていないところが多くて気になっちゃう。昔ならイライラしてたけど、まあアニメだしな…と思う。
「よくわかんないとこは雰囲気で」っていうタイプの監督なのかなぁ。自分であれこれ考察したり妄想したりできる、余白が多くていい映画だと思う。
映像がほんとにきれいで、映画館で見てよかったなと思った。描きたいとこだけしっかり映像にしたって感じがした。
須賀さんの奥さんも晴れ女だったのかなーそんで空に消えちゃって、彼はあきらめたのかなー娘も守らないといけないしね、という妄想をしながらみていたけど、特にそういうエピソードは出なかったな。
(追記:同じような妄想してる人たくさんいたわ。やっぱりそう思うよね?)
これが噂の「新海誠」、か・・・。ほーん( ´_ゝ`)
まず、「天気」は嘘をつきません。自然現象ですから。
ありのままを、私たちに訴えてきます。
しかし、アニメは人がつくりますので、自然ではありません。
そこには、私たち人間の野望や邪悪、虚偽や犯罪、偏屈や理不尽が混沌します。
それに対して、本作の主人公、深海真君は映画の最後にこういうらしいです。
「ふざけんなー!人間! ふざけんなー!地球!」
どうやら、現代社会に生きる我々は、作者の新海誠監督を含め、疲れているようでした。
と、
冗談はさておき、なるほど~。これが噂の新海さんですか。
「君の名は。」に続き、2019年も、大ヒットの予兆を見せていますねぇ。
まず、なぜ新海作品はヒットしているのか。
1、背景美術の美しいディテールにより、作画中毒者をわしづかみ
2、ラッドウィンプスの独創感あふれるサウンドトラックと挿入の良さ
3、アニメーター 田中 将賀による、大衆受けにもってこいキャラクターデザイン
4、青春×日本舞台×SFを100分以内、自然な流れで、展開する脚本のうまさ。
5、そもそも新海誠やラッドウィンプスが哲学系
6、俳優、女優、声優をバランスよくキャスティングし、それぞれの声を違和感なくキャラに乗せてくる演技指導
特に5は、注目すべきかな。新海誠だけじゃなく、ラッドの曲にもメッセージがありますから、憎いですねぇ。
憎い組み合わせです。
観客は「自然な哲学」が好きなんですよね~。
人とは何か。社会とは何か。「愛にできることは何か」、ってね。
でもー。
私は、ぶっちゃけ。あまり、好きじゃないんですよ。新海さんが、ではありませんよ。ラッドさんが、でもありません。
この作品が、です。
なぜ、好きじゃないかっていうとね。
「個性」が薄いんですよ。
それは、映画だからってのもあるかもしれません。映画はだいたい100分でおさめなきゃいけませんからね。
美しく細かい背景美術はそれだけで、見る人を魅了させます。
しかしながら、「細かすぎで伝わらない」んです。
細かすぎて、リアルすぎて、超現実的じゃないんです。シュールじゃないんです。
アニメって感じが、しないんです。背景が、きれいに加工された写真なんです。
奇麗なのはもちろんいいんです。しかし、アニメっぽさがないんです。これ、わかる人、いるかなぁ。まあ、アニメを良く見てる人なら、わかる人は解ると思います。
そして、「キャラクターの個性が薄いですね」
アニメって、何が一番大切なのかっていうと、「キャラクター」なんです。まずは、キャラクターを好きになってもらうことが、味噌なんです。
しかし、新海さんの作品は、「キャラが好き」ではなく、「背景や音楽が良い!」っていう、観客が多いんですよ。皮肉なことに。
つまり、キャラが弱いんですねぇ。
好きなのが、キャラクターではなく、美しい美術やラッドさんの音楽が目立っちゃってるんですねぇ。
これは、アニメとしては、うーん・・・。ですねえ。
だから、敢えて辛口に言いますと、
「少年少女が言葉だけ伝えてる」
「大事なセリフをキャラクターがキャラ自信のものにできていない」
「キャラクターに大事なセリフをしゃべらせてる感」
なんですよねえ。
キャラと言葉が別々になっちゃってるんですねぇ。
意味わかるかなぁ。
私が、新海さんの作品(君の名は。以降)に違和感を感じたのはそこなんですよ。
だから、好きじゃないんです。
私個人としては、もっと癖のある、キャラが欲しいんですよねえ。
ってか、癖があるキャラが、アニメなんですよねえ。
まあ、癖が強すぎると、敬遠しちゃう人も現れるんですけどねえ。
それでも、自分は、「個性のあるキャラ」が好きですねえ。
新海誠さん。そして、このアニメをつくった関係者さん。
その他、ここを覗いてる皆さんも、覚えておくといいですよ。
新海さん、アニメ、頑張って作ってくださいね。
4回観たので感想と考察
『天気の子』を4回鑑賞した。
5回目以降も鑑賞しようとは思っているが、せっかくなのでレビュー、考察をしようと思う。
ちなみに『君の名は。』では5回鑑賞したが、レビューする気にはならなかった。何故なのか自問自答していたが、天気の子を4回観て分かった。
1つ目は、君の名は。では、結果的に全ての人が救われるいわゆる丸く収まるハッピーエンドに対して、天気の子では世界を犠牲にして陽菜を救ったという賛否両論の残るエンドだったからだ。私はこの終わり方がとても好きだ。
「知らないフリ」をし続けて、大切なことから目を背け続けた大人達とは対照的に、迷わず大切な人を選び、階段を駆け上る帆高の姿には思わず涙した。(その際のRADWIMPSのなんと素晴らしき曲の入り方であることよ)
少し蛇足になるが、この「知らないフリ」も、物語のキーとなる要素だと思われる。考察の最後あたりに述べる。
2つ目は、天気の子では、作中に散りばめられている各々のシーンに意味が多数見受けられたからだ。そのシーンについて私が目についたものに限るが考察しようと思う。
1.帆高の家出
親戚の家に遊びに行くと須賀に嘘をついた帆高は実際は家出少年。理由は陽菜の家に訪問した際に述べていた。
「家も、学校も、息苦しくて」
また、警察が陽菜の家に来た際に帆高と帆高の父親の写真が映るシーンがあった。父親は髭を生やし、見るからに厳格そうだった。窮屈な家庭、窮屈な島で育った少年がある日体験したのは雨の中の光。その光の先を追いかけようと思いついたのは家出することだった。追いかけた先の東京ではチンピラに足を引っ掛けられるわバイト先が見つからないわで途方にくれてしまう帆高。3日間マク○ナルドのスープで飢えをしのごうとするが腹の虫は止まない。そんな時にバイトしていた陽菜にもらったハンバーガー。
「16年で一番美味しかった夕飯」と帆高は感じたのだ。
また、最初の帆高は顔に絆創膏を貼っていたが、あれは親との喧嘩の結果なのかもしれない。もしくは虐待をされていた恐れもある。これらの言動に基づけば、帆高が家出をしてきたのは最も合理的であると思った。
2.須賀の奥さん(アスカ)について
須賀の奥さん、アスカについて様々な考察がなされている。
とあるレビューの「アスカ=晴れ女」説は私は肯定する。
『天気の子』では、全般的にキャラクターの言動がそれぞれ鍵を握っていると思われる。この説では須賀が鍵だ。
須賀はしきりに指輪を触っていた。そのシーンは、(私が覚えている限りでは)晴れを依頼して陽菜と帆高の間に座ったシーン、酒を飲み「みんなそうだろ」と言い放ったシーン、刑事に問われ「俺に言われても」とぼやいたシーンなど。これらのシーンはどれも、『晴れ』や『逢いたい人』に纏わるシーンばかりだ。晴れであることと、指輪を触ることに何の因果があるのか。
それはアスカが実は晴れ女で、人柱としてこの世を去ったということに関係があるように思われると感じた。人柱としてこの世を去り、残された須賀は後悔の念に駆られてはいたが、これが大人になる事であると自身で言い聞かせ、そして次の自分になると思われる帆高にも「大人になれよ」と言い放つ。須賀の言う「大人」とは一体何なのだろうか、私は「誰にとっても良かったと思われる人になる事」つまり「自分の主張を捨てる人」になる事だと思った。
大事な人より世界を選んだ須賀と世界より大事な人を選んだ帆高の対立は胸熱だった。結局は須賀が、逢いたいと叫ぶ帆高に心を突き動かされ、捕まりかけた帆高を助けたシーンは本当に泣きそうになった。
作中の須賀の言動だけでアスカの正体が本当に晴れ女か完全に証明することは出来ない。何故なら、これは「須賀の物語」ではなく「帆高と陽菜が世界の形を変えた物語」であるからだ。作中の須賀の言動はあくまで「須賀の物語」の一部であるため、その数少ない言動だけで決めつけるのは難しいと思う。だが、証明が出来ないということは反対にそうではないとも言い切れないので、私はこの説を推す。
3.水の魚の正体
魚の形をした水を覚えているだろうか。陽菜の体に纏っていたあの水の魚のことだ。水の魚の正体についてふと感じた。あれは一体何なのだろうかと。
私は『歴代の犠牲となった巫女達』説を提唱する。
というのも、帆高と夏美がツイッターを見ているシーンで、『中に内臓の器官のようなもの』と呟いているツイートがあった。これはもしや、人柱として天に召された巫女達の身体から、あの水の魚達は出来ているのではないかと考えた。そう考えると少々グロいが、あり得なくはないと思う。
4.陽菜が助かったのは本当に帆高のおかげ?
帆高が彼岸に行き、陽菜を見つけ出し2人で逃げ出したことで陽菜を人柱から解放し、救い出した結末。陽菜が助かったのは帆高のおかげなのか、そもそも帆高は何故彼岸に行けたのか。
3回目までは私は帆高が救ったと信じて疑わなかったのだが、4回目を観たときにアレ?と思った。
2人が鳥居で倒れているシーンで、陽菜のチョーカーが割れているではないか。あのチョーカーは元々陽菜のお母さんのものだったと思われる。というのも、最初の病室のシーンで、陽菜の母親の手に、今の陽菜がチョーカーとしてつけていたアクセサリーがつけられていたのだ。その頃の陽菜の首にはチョーカーはついていない。つまり、母親を亡くしてから、陽菜はあのチョーカーを着けるようになったのだと思う。いわゆる形見である。
また、立花家に晴れを届けた際に、冨美ばあちゃんが初盆について話した時に、「お母さんに守ってもらえるよ」と言ったあのシーン。あのシーンに意味を持たせるとするならば、いや、新海監督ならきっとあのシーンに意味を含めているだろうと感じた私は1つの結論を導き出した。陽菜が人柱を回避できたのは、『母の守りがあったから』である。立花家のおかげで初盆を迎えることができた陽菜は母親に守ってもらうことが出来たのだ。その媒体となるものが形見であるチョーカー。役目を終えたチョーカーは世界に帰ってこれたときに割れたのだ。
では帆高は必要なかったのか?と言われるとそれは否定したい。帆高は世界で唯一陽菜に会いたいと強く願った人物。(凪は置いといて)そんな帆高の目の前に落ちてきたのは、つい先程、陽菜にプレゼントした指輪。この指輪が、帆高を彼岸に連れて行ったキーアイテムと思われる。
そもそも、空へ行ってしまった陽菜がチョーカーは落ちず、指輪だけ落ちて行ってしまったからにはそれなりの理由があると思う。
(もらって日が浅いため、天に持ってこれたものの陽菜の所有物として結局認識されなかった。など)
何にせよ、指輪は一度天に行ったのだ。それが、帆高が天に行けたことと繋がると思われる。
本来、人柱として巫女だけしか、つまり女の人だけしか行くことができない天に、帆高が行けたのは、陽菜が天へ持って行った指輪が入場券のような媒体として働き、辿り着くことができたからだと思われる。もしあそこで帆高が指輪を持たないまま鳥居をくぐったら、何も起こらずに熱血刑事に顔面床ドンされてまた血塗れになってたんだろうなと感じた。
どうあれ、帆高は指輪のおかげで天に行くことができ、人柱として身を捧げようと諦めた陽菜を救い出す逆転劇を行うことができたのだ。
5.帆高の言い放った「知らないフリ」
追い込まれた帆高が銃を向け、「皆何も知らないくせに……知らないフリして!」と言い放つシーンを覚えているだろうか。
このセリフこそ、作中の自分達以外の人間(つまり"オトナ")への最大の反抗、皮肉だと思う。
須賀の奥さんの母親の「現代の子達は可哀想。昔は春も夏も素敵な季節だったのに」も、須賀の「ま、人柱一人で世界が救われるってんなら、俺は喜んで〜〜てか、皆そうだろ」も、刑事からの質問にも。
もちろん刑事は陽菜のおかげで天気が戻ったなんて考えもしないし、須賀の養母だって同様だ。
そうやって"大人達"が知ろうとせず、目を背け、知らないフリをし続けた結果が、この世界なのだという現代の大人達への反逆を示唆した台詞が、帆高のあの台詞なのだと思う。
6.瀧と三葉
これはほぼ余談なのだが、瀧と三葉は果たしてこの世界線で出会っているのか、考察をした。
終盤で帆高が立花家に再び訪問した際、冨美さんの右腕に注目してほしい。組紐のようなものを手に巻かれていると思う。これが、もしも三葉、もしくは瀧からのプレゼントだとしたら、三葉と瀧は出会っていて良好な関係を築いているのだと私は思っている。
様々な考察を述べたが、この考察が合っているかはどうでも良くて、言いたいのは天気の子は、ちょっとしたシーンが実は深い意味があったり、結末に賛否両論あったとしても大丈夫なんだってこと。
とても味わい深い映画だった。
5回目以降と観ようと思うので、また考察が変わってしまうかもしれないがそこは追記しようかと思う。
ふんわりしてる…これが今の若者?
「君の名は」と比較すると、前作超えません。
率直な感想は、
・スポンサー付きすぎてカオス
・東京に縁がない人が見ても面白いのか?
以下、ネタバレです。
映画を観ての疑問点を羅列すると、
・帆高があれだけの家出をした理由が最後まで明かされない。
・須賀が帆高の故郷(島)に滞在していた理由が語られない。
見ていていまいち感情移入できないのは、拳銃を拾って携帯している帆高に信念やらが感じられない点。社会への反逆でもないし、ただ一人の女の子を守るためにしても所持している意味が弱い。
それと、警察から逃げまくるのは非現実的すぎますね。シティーハンターかと(笑)
陽菜が晴れ女の力を手にした理由も都合がよすぎる…それを言ったらキリがないが、「君の名は」のキャラクターを登場させる意味はなんだろう?せっかく瀧たちが守ってきた世界はなんだったんだ?と思わざるをえない。というか、たった一作のヒットで新海ファミリーって早くないか?いつからCLAMPの世界になったんだ。
新海誠がもっているのは、映画の世界と2019年の気候が似ていたという点。雨ばかりで異常気象、そこのところは今年のためにあるのではないかと思う冒頭だった。
愛を貫いたことの正しさ、美しさ
『君の名は。』よりはタイムスリップとか入れ替わりみたいな複雑な要素がなく、綺麗にまとまっていて観やすかったです。また、前作よりも会話や流れのテンポが上がっているように感じて、気持ち良く観ることができました。絵は圧巻の美しさで、曲も不自然なものは無く映画とよくマッチしていたと思います。話の流れは大体予想できるものだったので後は終わり方がどうなるのかということをワクワクしながら観ていました。結論からして私はあの終わり方が最善だったと思います。これはトロッコ問題によく似ていて、陽菜と街の人々の暮らしのどちらをとるのかというのがEDの分岐点になっています。私はどちらをとっても正解だと思います。帆高は陽菜を選んだというだけで、別に何も解決しない(雨が一生やまない)としてもそれは正解の選択肢だったのです。だから何も解決しないことが間違っている、意味が分からない終わり方だというのはすごくナンセンスな意見だと私は思います。帆高の「陽菜と一緒にいたい」という真っ直ぐな気持ちのもと走り出す様は私の心を強く打ちました。その意志の強さは我々もアニメのキャラとはいえ、見習わなければならないと思います。一つだけ不明瞭な点があるとすればなぜ拳銃がばら撒かれているという設定があったのかという点です。大人に対抗するための武器を帆高に与えたかったということだけが理由では無いようには思いました。しかし社会の黒さを表す象徴だとしたらちょっとオーバーかな…?とも思いますし、そこだけがもやもやではあります。でもそれを差し引いても良い作品だと思います。
「それでもなおしがみつく」帆高と陽菜は私には綺麗に思えました。
映像と音楽は絶品、でも感動できない自分がいる
少年が出した答え
気分爽快🌥️
世界は元から狂ってる
見てよかった!君の名は。よりストーリーは単純でファンタジー感が増したなーと思いました
瀧くんと三葉出てきたの気づけてめっちゃ興奮しました笑てっしー出てたことは、エンドロールで気づいたのでどこかわからなかった...
ヒナさんとほだかの声はいい意味で特徴がなくて、なににも染まっていない少年少女という感じがしてすごく好印象でした。小栗旬さんの声も対比で垢まみれのおじさんって感じがしてよかった笑
君の名は。の時にすごくストーリーが作り込まれていて、ファンタジックな題材ではあるけどアニメなのにリアリティを感じていたので、今回はそのリアリティはあまりなかったかなという感じ。なんでそうなるの、え、展開早っというところは多かった印象。加えて、前半部分がシーンが展開する変わり目で音楽流しちゃうのが舞台の場転みたいで違和感ありました。でも映像とか終わりかたとかがすごくよかったので結果的にあまり気になってないです笑
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