「結論は「だいじょうぶ」」天気の子 コロックさんの映画レビュー(感想・評価)
結論は「だいじょうぶ」
本作は少年少女が自己の運命を選択する物語である。周囲に流されず帆高が駆け抜けた選択を、それに応えた陽菜の選択を誰が責めることができようか?
本作を鑑賞して私は『魔法少女まどか☆マギカ』を想起した。惹き起こされる災厄に立ち向かう少女、周囲には決して理解されえない少女の哀しい運命、親しく交わった者だけが洩らす「こんなのってないよ」という嗚咽・・・『魔法少女-』では、ヒロインは自ら犠牲にして全世界の平穏を希求するのである。
対して『天気の子』は? アンチテーゼであるかのように、2人はお互いの存在を感じ合える世界を選んだ。世の災厄は除かれず、人々は激変した環境に適応し生きている。公益ではなく自身の愛を選んだ帆高、“天気の巫女”の役割を放棄して帆高の愛に飛び込んだ陽菜は果たして“2人の関係ばかり考え、世間の被害を鑑みない身勝手な男女”なのだろうか?
私はけっしてそうは思わない。なるほど、ヒロインが愛する家族や友人との別離を選択し、自らの功績を誰が理解するでもないのに世界のために身を捧げるストーリーは実に美しく、その英雄的犠牲精神は何人も冒瀆することはできない。だが、それは絶対的な価値観ではない。むしろ現代2019年の日本で、いったい誰がそれを絶対善として実践できよう?陽菜は一旦それを決心するのである。愛する帆高に「この天候が止んでほしいと思う?」と問いかけ、何も知らぬ相手が素直な気持ちで肯定すると、絶望を浮かべつつも大切な弟を託して自らを犠牲とする昇天を決意するのである。だが、それは行動原理が“愛する帆高のため”であるがゆえに、彼が追ってくると陽菜はそれに応じた。わが身さえ現実味のない雲の上で陽菜はプレゼントの指輪を地上に落とし、身を震わせていたではないか。それこそがリアルではないか?少女が選ぶのは漠然とした“世間”ではなく“強く惹かれ合う異性”であるのは当然の帰結であり、明快でリアルな回答であろう。
帆高は一見幼稚なようで、強い主体性を秘めている。内なる良心を指針とし、彼は流されない。陽菜をスカウトマンから救うとき、警察を振り切って彼女を追い求めるとき、恩人である須賀へさえ拳銃を向けるとき、彼の意志は一度だって揺るぎないのである。目的のために手段を厭わない姿勢は時に人の批判を受けるであろう。“常識的な大人”からはまるで理解されえないがゆえに、彼は駄々っ子のように反発する。対話でコミュニケーションを持とうにも“共通の言語”を帆高と大人たちは持たない。反発心の象徴として、彼は拳銃を握り、引き金を引くのである。人生経験が浅く、権力で押さえつけようとする大人たちを信頼できない帆高。かれが果たして、その大人たちの集合体である“世間”のために愛する陽菜を犠牲にするルートをそのまま受け入れて諦められようか?帆高はそうはしなかった。須賀、夏美、凪をを犠牲にしてでも大切な人を守り抜いた。「私が帰ったら、また天気が」と叫ぶ陽菜に「もういい!お前はもう天気の巫女なんかじゃないんだ。天気など狂ったままでいい。俺がお前がいる世界を選ぶ」と答える帆高のまっすぐな気持ちをどうして身勝手、幼稚だと批判できようか。
帆高はあとで自分たちが“世界を決定的に変えた”と自責を吐露するが、私はこの認識も的を射ているとは思わない。彼が拒絶したのは“一人の少女を代償に平穏なる日常を享受する世界”であり、選んだのは“狂った天候の中でも、特定の誰かを生贄にすることのない未来”であり、私には帆高の選択がよほど真っ当な感覚に思われるのである。確かに須賀の「誰か一人の犠牲で狂った天気がまともになるなら、誰だってそれを望むだろ」という考え方は実にリアルで説得力があるがその分恐ろしく、そして極めて正義に反した“マジョリティ”の発想なのである。
帆高は葛藤と自問自答の中で、ついにラストで自己の選択を心の底から肯定する。結論が“だいじょうぶ”とはどういう意味か?私にははじめ理解できなかったが、EDの歌詞がそれを教えてくれる。崩れそうな陽菜に「だいじょうぶ」と強がりを言わせるのではなく、自分が支えとなることに生きがいを見出す帆高。そのきっかけは、坂の上で雨空に手を合わせる陽菜。他の方のレビューにもあるが、天気の巫女としての力を喪失したはずの、陽菜があの場所でもし3年間晴天を願い続けていたとしたら・・・?それは涙を禁じえない美しい心ではないだろうか。
確かに「僕たちはだいじょうぶ」とは賛否の別れる結論である。
まだまだ私はこの意味を十分に理解できたとは思わない。
それでもなお、私は安易な自己犠牲を称揚せず、少年少女のまっとうな選択の物語を脚本した新海誠監督に敬服するばかりである。
見当がつかないのは、陽菜が年齢を偽った理由だ。「私は早く大人になりたい」という台詞や、容易に年上の異性を部屋に上げられない家庭の事情がヒントになるのだろうか?
瀧と三葉について。『君の名は』の2人は2021年の東京で再会したはずである。『天気の子』ではその期間、東京に雨が降り続けている。果たして2人は雨の降りしきる階段でお互いの名前を問うたのか?この再会シーンを変更させてしまったのなら、穂高と陽菜は確かに“世界を決定的に変えてしまった”といえるのかもしれない。