「老年」運び屋 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
老年
今、世のなかではおっさんの蛮行が目立っている。ニュースの社会面をみると、わいせつや暴行や窃盗や自動車事故やトラブルなどは、たいていおっさんや老人の専門分野になっているし、日常、たとえば商業施設にいて、おや何か揉めごとかな──と思って騒ぎのほうを見ると、かならずおっさんが渦中にいる。
きょうび、喚くのも泣くのも駄々をごねるのもおっさんであり、絡むのも勘違いも水掛け論も否認も、おっさんの得意とするところになった。
そうなってみると、必然的に、まともにおとなしく生きているおっさんが、生きづらくなってくる。もともと肩身のせまい思いをして生きているおっさんが、さらに世間の風潮からあおり風をうけてしまうのである。
どうでもいい日常のあるあるだが──個人的なあるあるであって、ふつうは無いのかもしれないが──たとえば道を歩いている。すると前を歩いている女性が、やおら振り返って、なんかやたら心配そうにこっちを見たりする、のである。
わたしは長身で厳つい体型をしているが、とりわけ夜分でもない。とりわけ至近距離でもない。とりわけわたしとその女性だけしかいない──わけでもない。
世のなか、みょうなことばかり起こるので、警戒心はわかるが、まあ、たいがいにしつれいなわけである。そういうことがあるので、状況的に、女性や子供のうしろに位置してしまったばあい。わざと通りを跨いだり、待ったり、迂回したり、ずらすことがある。
街でも交通機関でもモールでもレジ待ちでもスタバでも、どこであろうとかならずそうする。
現況、禍(新型コロナウィルス)にあって、世のなかが、ソーシャルディスタンスをしきりに叫んでいるのだが、わたしとしてみれば、そんなことはかねて習慣化していたことが慣用句になったに過ぎない。公にあるとき、人に近づかない、なんてことは、まともなおっさんにとって、息をするごとく普通の習性──なのである。
この世が生きづらくなるほど、犯罪の老齢化現象は、なんか、わかる。わかってしまう。
わかってしまうから自戒する。
老いたら梯子を降りたほうがいい。
著名人が、老害と言われながらも、TVの中心位置で踏ん張っているのを見かけるが、みっともないからやめろ、と思う。
老いたら何か甲斐を見つけて、公でじぶんを満足させようとするのはやめたほうがいい。
個人的には、この日本に、死ねる選択肢がないのは理解できない。
先般の嘱託殺人には「老害」元知事と同意見である。現代社会では武士の情けが犯罪になる。
難病でなくても、あらかた終えてもういいと思ったら恍惚となる前に、ふつうに死にたい。それは哲学でもタブーでも重い命題でもない。ミリオンダラーの終局でヒラリースワンクが幇助を懇願するのとおなじことだ。
人様の厄介にかからず、厚生を扶け、生き残る人に幾ばくかキャッシュも余蘊する。なにが悪いのだろうか。何の問題があるんだろうか。マギーがフランキーの思い出のなかにいるなら、それでいい。
公人がそれを言うと、罷免や辞職になるが、実存の見地からすると世界は有用な人間の場所だと思う。それをすぐさま優生思想だと難癖する人権派が好きじゃない。無用のものに生きる資格はない──とは言わないが、有用でないなら、せめて自覚していい。人様に迷惑をかけない意識があっていい。
人命は尊いものだという、無意味なポーズが、ほんとのたわごとになる時代が、かならずやってくる。日本に真っ先にくる。
映画は二つの見え方を持っている。
現実世界で、クリントイーストウッドは老齢にしてクオリティの高い映画を連発するもっとも精力的な映画監督のひとりである。そのことを、前述をふまえて、身もふたもない言い方をしてしまうなら、価値ある老人──である。
加えて映画世界で、犯罪とはいえ、老人が一個の役を担った。回を重ねるごとに、ガレージ内の悪党たちが親近を寄せる。
「やあタタ調子はどうだい」
犯罪であっても、それが人間界の生き甲斐だ。First Run、Second Run・・・わざわざテロップが入るのは、人が人に重用され活路を見出していく段階をしめしている。人生の梯子のミニチュアである。まだ生きていていいと思わせる甲斐である。
社会や家族から見放されていた老人は、にわかに人に慕われ、にわかに小金持ちになる。それをクリントイーストウッドが演じている。その二つの見え方を呈しつつ、映画は、家族をないがしろにして生きてきた男の末路へ向かう。
良さと悪さの両義が見え、ゆたかな教訓があった。
三島由紀夫の談話に、じぶんのためだけに生きるほど人は強くない、なにかの理想やだれかのために生きたいと望む、という一節がある。文豪自身がそれを体現した。
わたしも、なにか、だれかのためでありたいと思う。強くなりたくはない。
なんてね。