「歴史のifを通して現代に問う生き様」ふたりの女王 メアリーとエリザベス つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
歴史のifを通して現代に問う生き様
思いがけず、シスターフッドに満ちあふれた映画だった。なんで評価が低いのか、ここまで来ると逆によくわかる。
メアリー・スチュアートとエリザベス1世、勝ち残ったのはエリザベスの方で、全ての歴史がそうであるように、敗者にはスティグマが待っている。
再婚も、イングランドの王位継承権も、もしもメアリーがブリテン島の勝者だったのならば「王族の義務」「凱旋」であり、「淫売」だの「駄々っ子」だの言われる道理はない。
歴史が勝者によって書き換えられる、とはよく言うが、実際のところは勝者におもねる傍観者たちによって塗り固められていくんじゃないかと思う。
美貌を失い、生涯未婚で「既に男になってしまった」と嘆くエリザベスが賛美され、情熱的で美しい「女らしい美徳」がメアリーを窮地に立たせる。それは、「男らしさ」の呪いでもある。
現代も未だにこの呪いに無縁ではない。
「男並みに」バリバリ働いて、子どもを持たず家事など一切しない女は「女を捨てている」ので無能。「女らしく」家事や育児に時間を割き、時短やパートで働く女は責任ある仕事を持たせてもらえず「しょせん女」なので無能。
どっちに転んでも「劣等」というレッテルから逃れられない。
男だって呪いは同じだ。育児休暇を申請し、家事の多くを担えるように時間を作る事を「変わっている」とバカにされる。かたや仕事一筋で不在続きの家ではATM扱いで会話すらなく、定年後に離婚を突きつけられたり。
呪いに満ちた世界では、男も女も完璧超人でなければ「劣等」という罠から逃れられない。
母であり妻であり女であるメアリー・スチュワートと、「女の幸せ」を全てなげうったエリザベス1世。二人の邂逅は史実にはなく、「もしも二人が対面したら」というifのシーンだが、互いに自分の「違う選択をしていた自分」に出逢うような、不思議な感情の昂りを感じる対面だっただろう。
そして二人は、互いに手をとれば「完璧な女王」になれた存在なのである。
この映画のテーマは、メアリーの叫びに集約されている。
「貴女と私は対等に理解し合える。貴女と私を対立させようとしているのは男たち。貴女と私が対立することこそ、彼らの思うつぼ」だと。
映画では権力闘争にまみれた宮廷の男たちを指しているが、本当の「彼ら」とは呪いの世界を支持する者たちだ。呪いの世界の方が都合がいいから、全人類に同じ価値観を植えつけようと企む、呪いの世界の権力者たち。
メアリーのセリフは、この世界に生き辛さを感じる、すべての人に向けられている。
人間を、自分の意志では変えられない「国籍」「人種」「性別」などで分断し、対立を煽ろうとしている。そんな「彼ら」の思惑に乗らないで!それがこの映画のテーマだ。
好評でない理由の1つに、時代背景を無視したキャスティング(主に人種)が挙げられているが、テーマに照らし合わせれば様々な人種を登場させることは、必然のキャスティング。
メアリーやエリザベスの生きた世界と、私たちが生きる世界は、間違いなく繋がっている同じ世界だからだ。
「ふたりの女王」の葛藤はブリテン島だけでなく、「女同士」だけでなく、もっと大きな世界の至るところにある。それを表現するキャスティングなのである。
母であり妻であり女であるメアリーに好感を持つ人も、自分の人生を全て治世にかけたエリザベスに好感を持つ人も、みんな尊ばれるべきなのだ。そして互いが尊重しあい、協力しあうことは、素晴らしいことであり、誰にも阻害されるべきではない。
「ふたりの女王」が手を取り合えたらどんなに良かったか。エリザベスがメアリーの処刑命令にサインした後、少しだけ女王ではなく一人の人物として涙するシーンに、思いは集約される。
エリザベスの姿に思いを同じくした人には確実に届いているメッセージだと思う。