「「ゴミを拾う度に宇宙の混沌が1つ減る」」孤独なふりした世界で いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
「ゴミを拾う度に宇宙の混沌が1つ減る」
初めに観たビジュアルで何か得体の知れぬ違和感を感じていた。主人公らしき男の顔がひげ面で厳ついのになぜか体が歪んでいるような感じというか、写真構図の撓みをしたのだ。ティザーを観ていなかったので、本編で初めてその理由が驚きと共に分り、その驚きを持ち得たこと自体感謝した。というのも余りにも予告を見過ぎると勝手にストーリーを解釈してしまうし、裏切ってくれるならば良いのだが、それ以上もないと残念感は拭いきれない。そういう意味でこの村上龍フィジーの小人的キャラ設定は話を大いに膨らませてくれる。そして、やはりエル・ファニングの上向きの鼻にとにかく魅力を感じてしまう癖が消えないことも付け加えておく。
何で他の住人は死んでしまったのかその理由は明らかにはされないが、一人生き残った小人症の図書館司書?それとも単なる事務員なのか男は黙々と家を回って掃除、死体埋葬、生活用品拝借、そして借りっぱなしの本の回収、そしてポートレートも集めている。その全ては過去を整理し、元に戻すことだけに生き甲斐を感じているからである。「1,600人いたほうが孤独だった」と思うのは自分の容姿に対する自虐性が大いに影響していることであろうから、却って誰も居ないこの世の方が荒んだ気持から解放されることはこれこそSFディストピアとしては逆にユートピアなのかもしれないと、自分でも大いに共感できる世界観である。ストーリーとしては、そんな孤独と責任感の喜びを打ち砕く謎の美女が現れて、初めて現実を目の当たりにすることになる男は、他者との関係性という、過去には煩わしかったものを嫌々ながらも付合うこととなるが、その儘ならぬ共同生活の中で徐々に関係することの別の面を見出し、そこに喜びを感じ始める件はほのぼのとしているが不穏さは感じない。そして女の首裏の手術痕が映像として出てきた辺りから一気に展開がスピードアップしていく。しかしながら実は他に沢山の人間が生きていることを、死んでいると思っていたその女の両親とおぼしき男女が急に現れてから逆に作品は、観ている自分を追い越していってしまう程の解釈不能な世界へ連れて行かれてしまうのである。説明不足は自分の解釈で埋めるしかないのだが、これはかなり難解だ。手術痕はロボトミーであり、ネガティブ感情を取り去る精神外科のオペを施した残存人類は、負の要素の全くない未来だけに感心を向ける動物となってしまう。想い出はそれなりに覚えているのだが、感情は一切湧かないように去勢されてしまっている街から女を救出するというエンディングなのだが、後半は失速感というか、雑さが否めない。女がその親役の男を撃ち殺すクライマックスは、確かに片をつけることが展開としてストレートなのだが、そこに向かうまでのバックボーンが薄いからカタルシスは得にくい。というのも、自分としては或る意味、そういう手術が有って、作品中のように五体満足で動ける程の神経ダメージが微少ならば大いなる願望感を持ってしまうからだ。今作品の未来と過去という逆ベクトルの代表的な立ち位置の役割がいて、その対峙がクライマックスならばもう少し説得力有る伏線が敷かれていないと華麗に回収できないことになるのではないだろうか。メタファー的要素で登場する、サイレントムービーや、小説『コレラの時代の愛』等、もしその内容を把握していたならばもっと深層を探れたかも知れないが、知らないと奥深さが分らないという造りではかなり関心も色褪せてしまうと思う。決して悪い作品ではなく、きっかけというかフリは面白いし、ビジュアルというか両主役のキャラもキャッチーだったので、腑に落ちる落とし処を用意して欲しかったのが正直な感想である。とはいえ、孤独と連帯という哲学的な見地を用いた興味深いテーマ性を入れ込んだアイデアを称賛したい。