「さようなら、さようなら。すべてのクソムシどもよ。」惡の華 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
さようなら、さようなら。すべてのクソムシどもよ。
「僕を理解できる人間がこの街に何人いる?」と、自分は特別な何かと勘違いしている文学少年の春日は、まるで厨二病そのものだ。そこに突然のように悪魔に変貌した仲村が現れる。人に明かされては一大事の秘め事を黙っているかわりに”契約”を交わす二人。
はじめ、随分と度を越した、変態中学生の学園コメディだと思ってた。ド変態のSに課せられたミッションをこなすうちにド変態のMに変貌していくお笑いだと思ってた。
しかし、見落としていた。原作が押見修造だってことを。「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」なんて素晴らしかったもの。だから、やはり最後には泣かされていた。前半の時点では、まさか涙が流れるラストなんて想像ができるわけがない。快楽的なベチョベチョの変態女子が、糞まみれの生ごみみたいな男子を弄んでるイジメでしかないのだから。だけどなあ、だんだん切なくなっていくんだよなあ。いままで仲村は、どんな気持ちでこの町で暮らしてきたんだろうって想像したときに。一緒に”向こう側”に行ってくれそうな春日を見つけたことが、どれほどの喜びだったんだろうって想像したときに。
たぶん、ほんとうは春日はずっと普通人間だったのだ。仲村に毒されてタガが外れただけなのだ。もしかしたら仲村を憐れんで、アムステルダム・シンドロームのような心理状態になっただけなのかも知れないのだ。だけど、夏祭りでの二人は、間違いなくシンクロしていた。春日は仲村と一体だと信頼していた。だけど。仲村はそうじゃなかった。ある意味、彼女は冷静だった。だから春日を・・・。
ああ、かつてあんなトランス状態を共有した二人と、それを理解できる常盤とのラストシーンは、なんて美しくも儚いのだろう。相手を分かり合える嬉しさと、一緒にはいられない悲しさとが、三人の意識の間を、刹那刹那で交差していくのが見えるのだよ。だから、泣いてしまうのだ。そしてまたどこかで人知れず、小さな惡の華は咲き続ける。傑作だよ、この映画。その証拠に、さっきamazonで漫画全巻とボードレールの詩集を買ってしまったもの。そのくせ満点ではないのは、端正な伊藤健太郎じゃ感情移入しきれないってとこか。岡山天音あたりなら良かった気がするなあ。
はたと思いだす。
そういやクラスにいたなあ、何考えてるんだかわかんない女子が。ほとんど声を聴いたこともない。いつも、本を読んでるか教室の隅で外を眺めていた。あれは「仲村さん」だったんだろうって今はよく分かる。男子は皆、彼女を変わった奴って敬遠してたけど、たぶん当時の青臭い僕らは、彼女から変態の認定を得ることさえもできない程度のクソムシだったのだ。もしも僕が真性の変態だったなら、彼女に”向こう側”へ行こうと誘ってもらえてたのかな。あの子、今どうしているんだろう。どこかの寂れた町の食堂で、普通のおばさんの振りをしながら店員をしていてもおかしくないかもな。やる気のない態度で、不愛想に。そうあの子、何て言ったかな名前。あれ?ヤバいな、覚えていないじゃないか。