「父と母であり男と女だった野原夫婦」映画クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン 失われたひろし 9876uさんの映画レビュー(感想・評価)
父と母であり男と女だった野原夫婦
みさえは『女』だった。ひろしは『男』だった。
2人は夫婦で、父と母でありながら、男女だった。
今まで、クレしんを見て『男女』を感じたことは無かった。夫婦愛、家族の絆は沢山あったと思う。
でも、男と女は感じたことが無かった。忘れただけかもだけど。
ひろしは何度もみさえに愛を告げようとした。けど、そのタイミングでみさえは母であり主婦だった。
みさえは何度もひろしに自分が女であることをアプローチした。だけどそれは、うまく伝わらなかった。
そのすれ違いは、とてもリアルな気がした。子供も生まれて、恋愛から家族になった男女の生々しい姿な気がする。
独身子なしの自分には想像でしか無いけれど。
ひろしがみさえのことを愛していることも、みさえがひろしのことを愛していることも、もう何十年も前から知ってた。
だけど、それを本当に思い知った気がする。
みさえが『女』を見せようとしたとき、しんちゃんにギャグにされひろしが笑った。
『女』を傷つけられたみさえが、痛ましくてしょうがなかった。
冒頭のすれ違いの男と女の姿は、うまく言葉にできないけれど、そんじょそこらの恋愛ものより深くて切なくて苦しかった。
自分の親が喧嘩しているようなもどかしさもあった。
そんな二人が、最後の最後、キスをした。
クレヨンしんちゃんにおいて、みさえとひろしのキスシーンを見る日が来ると思わなかった。
でももしかして、見たことあったかな? という気もする。
ただ、衝撃だった。その瞬間、ふと気持ちが子供に戻った。
恋愛映画の最後、再開の果ての幸せのキスには思えなかった。
感情的には親のラブシーンを見てしまったような、胸苦しさの方が強かった。
嫌だったわけじゃないけれど、目をそむけたくなった。
年齢にしたら、私は今年みさえと同じ歳だけれど。
気持ちはきっと、見始めたころと同じ。しんちゃんと同じ目線なんだと思う。
だから、なんだか気恥ずかしくなってしまった。
この映画は、そんな映画だった。
ギャグとシリアス
男と女
夫婦と親子
全てのバランスがとても素晴らしかったと思う
印象的なシーンが沢山ある
でも、個人的な一番はみさえが本音を吐露するシーン
みさえだって、人間だ。大人でも、母親でも、一人の人間だ。
限界だってある。そんなことわかっていたはずなのに、母の裏の姿を見てしまった気がした。
とても苦しくなった。
それをする時ですら、彼女は自分が『母親』であることを忘れなかった。
しんちゃんにひまわりの耳を抑えさせて、
アンラッキーガールにしんちゃんの耳を塞がせた
子供たちの視界の移らないところに隠れて、みさえは叫んだ
その姿が、本当に辛かった。
母親だって無敵じゃない。機械じゃない。心のある人間で、限界もキャパシティもある。
そして、女だ。
そんな叫びに、泣いた。そして、子供たちのもとに帰ってくる時にはケロッといつもの母の顔をしている。
母親とは、本当に強いと思う。
この描写を入れてくれた監督と脚本家の方は凄いと思う。
これは確実に『大人』をターゲットにした演出だったんじゃないかな。
子供には、この苦しさは、難しいと思う。
でもきっと、いつかわかる日が来るんだ。それがとても羨ましい。
次に印象的なシーンが、ひろし。
みさえの為に頑張ったのに、彼女に伝わらなくて喧嘩した。
『おっぱいが歩いてたら見るだろ?!』には爆笑した。そりゃ確かに、見るわ。
ひろしはとても家族思いの、子育てに協力的な父親だと思う。
はじめ、ひまわりを抱っこしているのはひろしだった。そういうシーンがとても好きだ。
ひまのおむつを変えるだか、ミルクをあげるだかでみさえが席を立ったときに、俺が行こうかと自然と言える。
こういう些細なことが、だけどひろしの最高の魅力だと思う。
男ではなく『父親』になってしまった自分と
女ではなく『母親』になってしまったみさえ。
その描写からの、母として家族を守ってくれるみさえを愛するひろしが、最高に、たまらない。
みさえは素直にひろしに謝る。謝りたいと思い、早く会いたいと思う。
ひろしはみさえの『母親』としての姿を大切に思い、早く帰ろうと足を進める。
男女でありながら、夫婦であるお互いを認め合い、大切に思う。
あぁ、これが家族なんだなって、なんだかすごく突き刺さった。
そこからの、花束を買うひろし。バックにはひろしが歌う挿入歌。
最高。
平成を代表している。
対するみさえの歌も、最高。ちょっとわざと崩してうたい過ぎでは? とも思ったけど。
これが『平成最後』の映画であり『新しい野原一家』の映画であることが本当に嬉しい。
そんな花束を持って、信号待ちの間に一輪ずつ付近にいた人間に配る。
幸せのおすそ分けをする姿は、心に来るものがある。うまく言えないけれど、幸せになる。
そんな花束がぺちゃんこにされているのをみるのは、やっぱり辛かった。
今回の映画はバランスが最高な分、緩急が辛いことがある。
泣くと笑うが押し寄せすぎて、キャパが追い付かない。
予告で見たしんちゃんの「誰がかーちゃんをお守りするの?」はアンサーが無かった。
だけど、このセリフこそが視聴者に対する問いなきがする。
ここから何を拾えるか、何を思い考えるか、やっぱり子供の頃にこの映画に出会いたかった。
みさえの「その話、今しなきゃだめ?」の正しい解釈は分からない。
のちの叫ぶみさえをみて、あの時口にしてしまったら『子供たちの前で弱音を吐いてしまう母親』になってしまいそうだったからなのか。
言葉にしたら最後、心が折れてしまいそうだったからなのか。
分からないけれど、この言葉が出てきた時点で、みさえの限界はもう迎えていたんじゃないかなって思う。
アンラッキーガールがみさえの鞄を持ったとき、重たいと言った。
何が入ってるの問いに対し、みさえの返事は『0歳児の赤ん坊がいる母親には必需品』なアイテムなんだと感じた。
世の中を歩く、赤ちゃんを抱っこしたママさんたちが普通に持ち歩いているであろうアイテムだ。
世の中のママさんたちは、いつもそれほど重たい荷物を持って、大切な子供を抱いて生活している。
しんちゃんみたいに、兄弟がいれば小さな子供の手を引きながら。
あたりまえのような光景が、どれほど大変なことなのか。
言葉の節々、描写の一つ一つが生々しく物語っていると思う。
でもこれは全部『女性目線』の見方で、かつ『出産が出来る年齢の女性』の視線だから
小さな子供や、男性から見たら全く違う作品に見えるのかもしれない。
そういった方々の感想をとても読んでみたいし、小さな子たちの率直な感想も沢山聞いてみたい。
でも、ギャグもめちゃくちゃ笑った。
森川ひろしが下品な発言をするのにはとても驚いたし、笑ってしまった。
結構笑った。
笑ったセリフの数々は正直思い出せないけれど、見ていた子供たちより笑っていた気がする。
ひろしが迎えに来たみさえたちを冷たくあしらったとき、私は催眠的なものにかけられているんだと思った。
でも、違った。
そして違うことを、みさえはちゃんと分かっていた。さすが、何年も連れ添った夫婦だった。
分かって、分かっていて、そのうえであの叫びだったのかと思うと、本当に苦しい。
今回の見どころに、みさえ(既婚子持ち)とアンラッキーガール(未婚若い)の関係性もあると思う。
多分今どきの子は、アンラッキーガールの思考の子の方が多いと思う。
どちらかと言えば、私もそっちのタイプだ。
だけど、みさえを…みさえと、しんちゃんとひまを見ていて、きっと映画を見ている私たちと同じように彼女もまた『家族っていいな』って思ったと思う。
だけど、彼女がトレジャーハンターをやめて結婚する未来はあまり想像が出来ない。
良いなと思うことと、なりたいと思うことはまた違うなとも思う。
アンラッキーガールは結構ぐさぐさと痛いところをついてくる。
子持ちのおばさんにできるわけがない、的な。
言いたいことは分かる。そしてその言葉の数々はみさえにとても突き刺さったと思う。
どうして今回の映画はこんなにもみさえを苛め抜こうとするんだろう。
ただでさえ、みさえだけが残されてしまったのに。
そういう観点でも見てたから、余計に苦しくなったのもあると思う。
エンディング、とても良かった。
飛行機の中でみさえの腕を掴んで寝ているしんちゃんが、とても良かった。
野原家は、夫婦で子育てをしている。それをとてもとても痛感した。
だけど、ひろしとみさえは夫婦で男女だ。
そのバランス感が、とても最高だった。考えさせられることが多すぎる映画だった。
エンディングの演出はとてもずるかったと思う。
アルバムの写真はどれも素敵だった。
それを家族…4人と1匹で、春日部の野原家で見ている姿はとても平凡な一日だけど、何よりもかけがえのない幸せな光景だと思う。
家族って凄い。
夫婦って凄い。
親子ってすごい。
これはアニメだと切り捨てるのは簡単だけど、なんだか、思い返せば思い返すほど。
そこらへんのノンフィクションものや、恋愛ものよりも突き刺さる映画だった。
いつかもし、自分が結婚して、子供を産む日が来たら。
また違う感情でこの映画を見るのかもしれない。
凄い映画だった。