「一般人は「天才の苦悩」には共感できない」蜜蜂と遠雷 にゃかのさんの映画レビュー(感想・評価)
一般人は「天才の苦悩」には共感できない
まず第一に、原作は「天才がいかにスゴイか」を筆を尽くして書ききった作品であり、そこがとにかく素晴らしかった(ここでいう「天才」には、個人的に努力し続ける才能を持つ高島明石も含めている)。
しかし今回の映画化にあたっては、2時間という枠に収めるうえで「天才の苦悩」という分かりやすいドラマにはめ込もうとし、そして失敗をしている。
「苦悩」を描くのが悪いわけではない。事実、同日に公開された「JOKER」は主人公の苦悩を延々と描いて素晴らしい作品になっている。「蜜蜂と遠雷」の劇場版のダメな点は、「苦悩」の本質を描くことから逃げ、敵役(ジェニファ・チャンと小野寺)を登場させることで彼らを一時的に葛藤させただけで終わっている点だ。
「天才の苦悩」に私たちのような一般人は共感できない。だから、天才を描く作品では、「天才のスゴさ」にフォーカスするべきなのだ。本作では4人の天才たち(繰り返すが、私自身は努力する才能を持つ明石は天才の一人であると思っている)の「天才」を描ききれていない。亜夜にいたってはラストシーンでのみ突如天才然とした演奏をしてみせるのだが、それまでの展開で彼女の天才性が描かれていないため、突然過ぎてまったく説得力がない。
ピアノコンクールの話なのにほかのコンテスタントの演奏シーンがほとんどない点、原作におけるキーパーソンであるナサニエル・シルヴァーバーグと嵯峨三枝子の関係性が描かれなかった点(三枝子がシルヴァーバーグの離婚に言及するセリフがあるが、あれは当の相手が三枝子だと分かるようなセリフではなかった)、「木の鍵盤」という安直なツールを出すことで風間塵の天才性が霞んでしまった点、小野寺とオーケストラにされたダメ出しを3人が克服するエピソードの描き方に不足がある点 (そもそも、あんな状況ならもう1回ずつリハをやるでしょう?) など、数々の要因により、原作のエッセンスすら感じられない映像作品になっていた。原作の絶大なファンとして残念でならない。
末筆ながら。本作にはほとんど登場していないが、本戦の協奏曲はもちろんとして、第一次予選、第二次予選、第三次予選(そう。原作で予選は第三次まであったし、映画の中でも冒頭で「3つの予選がある」と英語でアナウンスされるのに、映像では二次のあといきなり本戦でしたね…)で4人が弾く曲の全てを、実際に4人のプロピアニストが演奏して録音したアルバムが発売されている。映画を見て興味をもった方は、ぜひ聴いてみて欲しい。まあ、そこまで音楽に労力をかけておきながら、映画で4つの「春と修羅」と、3つの協奏曲のさわりしか聴けなかったのは非常に物足りなかった… (砂浜のシーンとかいらないから、もっと曲が聴きたかった…)。