Girl ガール : 映画評論・批評
2019年7月2日更新
2019年7月5日より新宿武蔵野館、ヒューマントラスシネマ有楽町、Bunkamuraル・シネマほかにてロードショー
かつて映画が描いてきた“トランスジェンダー”を、一気にアップデートする
2009年にベルギーの新聞に衝撃的な記事が掲載される。それは、トランスジェンダーの少女がバレリーナになるための葛藤を記したものだった。その記事に触発された当時18歳のルーカス・ドン監督が実に9年間を費やし、完成させた映画は、バレリーナ独特の薄皮のような皮膚の内側で起こる性同一性障害の現実を生々しく描いて、時に目を背けたくなる衝動にすら駆られる。
ベルギー国内有数のバレエ学校に人より遅れて入学してきた主人公のララは、家族の理解の下、定期的に通院して男性としての二次成長を抑制する投薬量法を受けている。ホルモン療法によりさらなる女性化を目指すララだが、自然の摂理として生まれ持った性がそれを拒もうとする。レッスンでは、パッドでバストを強調し、股間にテーピングを施して逆に突起を隠し、華麗にピルエットを舞うララだが、彼女の才能に嫉妬したクラスメイトたちから残酷な嫌がらせを受けることもある。肉体の性と性同一性の不一致は、かくも日常レベルで過酷なものなのか。
やがて、ララに訪れる決断の時。それは、かつて映画が新たな概念の1つとして描いてきたトランスジェンダーへの一般的認識を、一気にアップデートするもの。人によっては理解の範疇外にあった世界を、同じ肉体を持つ人間として共感できるレベルにまで押し上げてくれる。
だから、ララを瑞々しく好演するアントワープのバレエ・スクールに通うトップダンサー、ビクトール・ポルスターが、役柄の設定とは違いシスジェンダー(肉体の性と性同一性が一致している人)であることを問題視する論調は、決して的を射ていない。誰が演じるかではない。人が本来の自分として生き抜くための努力と、挫折と、そして、葛藤の果てに訪れる自由こそが、作品のテーマなのだから。
それにしても、ララの家族や医療関係者の、何とフラットなことか!? 黙々と冷静に的確な治療を提案するドクターは勿論だが、娘の幸福のためならすべてを投げ打つ覚悟のシングルファーザーの父親が、どんな時も愛に溢れていて涙が出る。これは、ベルギーという国の成熟を痛感させる映画でもある。
(清藤秀人)