象は静かに座っているのレビュー・感想・評価
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人はなぜこのような街を作ってしまったのか
終始一貫して、灰色でぼろぼろ、風で常になにかひらひらとゴミが舞い、カンカンと耳が痛くなるような音を発し、それに負けじと、クズゴミと喚き歪み他人と自分を引き比べて嘆き叫ぶ人の声に満ち溢れた街、家、家族。わずかに垣間見るとても短いが温かさ感じる交わり。老人ホームに行ってほしいと娘夫婦に迫られている男の孫がおじいちゃんと呼ぶときの優しい違和感。誰もが恐れるヤクザ者の男が好きな女に言い負かされどうにもならないもどかしい違和感。少年がおばあちゃんに小遣いをもらったというときの自己肯定感の刹那、最後のシーンの初めて世界という物と邂逅したような違和感。
ブーの背中がスクリーンいっぱいに広がる。10代の少年とは思えないような、まだこれから、まだこれなら人生のあれこれを経験しようという10代の少年の背中とは思えないすべてを知らないままにら知り悟り諦めた虚しく大きな背中がスクリーンいっぱいに広がり悲しみとかそういうものも、カンという無機的冷たい音がしてはね返されそうだ。老人と上着を交換する、その背中も老人のようだ。
クーリンチェを思い出す作品。クーリンチェは出口がどんどんなくなっていくがこちらは最初から出口がない。夢か幻にもならない、、、、それでも。それでも。
長い、長すぎる💦
ほぼ4時間の映画、長すぎて集中力続かない😔とにかく「間」が長い。長い「間」をカットしない事に監督の意図があるんだろうけど、、、確かに後半の高校生ブーがニセ切符を売りつけられ、絡まれている時の明るい風景から徐々に日が暮れていく様など臨場感はある。
ただ座っているだけの象がいると聞いて、見に行こうとする4人はそれぞれ問題を抱えていて現実から逃れたいと思っている。そして周りの人々が嫌な人ばかり。親も学校の先生も近所の人達も。ガミガミと捲し立てる様に大声でとにかく怒る😤観ていて気が滅入る。
友達に怪我をさせてしまった高校生ブー、母親との不仲。学校の先生との不倫をネットで流されたクラスメートのリン、街の悪党のボス、娘夫婦に老人ホーム行きを進められている老人、4人とも現実から逃れたい為に像を見に行こうとするのだが、ボスは殺されてしまい、3人もバスが運休だったりとなかなか上手くバスに乗れない。
その時の老人の言葉「人はどこにでも行けるがどこに行っても同じことの繰り返し。行かないから、この場所で生きることを学ぶ」人生を諦めたとも思えるような言葉だけれど、重い言葉だ。これまで苦難を乗り越えてきたであろう老人だから言える言葉、ズシッと響いた。
結局ブーに諭され一緒に像を見に行く事に。ラスト、夜中に到着してバスを降り、暫くすると象の🐘雄叫びが聞こえて終わる。象は静かに座っているだけではなかった、、、という事なのか?
ブーもリンも待っているのは警察だし、老人も誘拐犯人になりかねないし老人ホーム行きは免れない。暗い未来しか待っていない。
監督もデビュー作であり、遺作でもある。なんとも言えない、辛い映画である😔
ー追記ー
何日か経って振り返ってみると、長いと感じた「間」は必要なものと思うようになった。実は所々⏩で観たので、普通に観ればよかったと後悔💦
駄作だと思いました。
登場人物は二種類に分かれる。意味なくつっかかってくる人間と「この世はクソだ」と思っている人間。
主要な登場人物は後者に分類されるのだが、人物描写はぺらぺらで奥行がなく、思いやりのある人物は一人としていない。みんな自分の不都合は人のせいだと思っている。
映画的に美しいと思われる場面にも乏しい。
画面の外でアクションがおこっていて、カメラがパンするとその結果がわかる、という表現が4カ所くらいあるが、この手法も映画を楽につくるためのごまかしにしか見えない。
途中から、ああ、この主要人物たちは皆、監督の分身なのだな、とわかってくる。この作品は監督からみた絶望に満ちた世界の描写なのだ・・・と思うとやや落ち着いて鑑賞することができた。
鑑賞者に違った価値観や世界の観方を教えてくれる作品なら、それはそれで価値のあるものだと思う。しかし脚本、監督の表現語彙が少ないので、全然これがリアルな表現につながっていかないのだ。
4時間を超える長尺もそう。
なにかリアルな表現を志してこその長尺だと思うのだが、そこに意味は感じなかった。
最後に主要人物たちが「静かに座っている象を見たい」という共通認識をもって集まり、象のいる場所にむかってバスを走らせる。その部分の構想だけはよいのでそこに1点。
そんな映画でした。
長いけどいい映画
登場人物はみな他人に無関心であり自分勝手であり息苦しい世界観。画面手前にいる人物にしかピントが合わず後ろにいる人物などはぼやけているのが、閉塞感をより一層深めている。
このほとんど救いようがない世界が4時間弱続き、見る方もかなり体力がいる。
それでも終盤に、 満州里に行こうとするブーに向けてジンが「絶望から逃れようとして別のところに行ってもまた絶望するだけ。」「他の地に行きたいと思っても行ってはならない。行きたいと思いつつそこで生きていけ。」と、ある意味真理を突いたことを言うが最終的に何かしらの希望を持って彼らと一緒に満州里に行く姿はじんわり感動した。
また映像面では、中国の廃れた炭鉱の街並みは寂しさを感じるとともに美しかった。(終盤のチェンが撃たれた夕暮れの高台のシーンは特に美しい。)
監督はこの映画を撮った後自殺されたようだが、もっとこの監督の作品を見てみたかった。
偶像を求めて
中国の田舎町を舞台にした友人の女と寝たチンピラ、父親と不仲で学校では粋る同級生に蔑まれる少年、家族の引っ越しで老人ホーム入所を促される老人、母親と確執のあるやさぐれ娘の話。
それぞれが抱えた闇やトラブルから、居場所がない、ここに居たくない、どこかに行きたい、行く当てもない、満州里の大サーカスに一日中ただ座っているだけの像がいるという話を聞きみてみたいとなる展開で、序盤は絡みの無い群像劇かと思ったら徐々に関連していき、又、繫がりをみせて行く。
BGMは殆どなく、暗い画面にたっぷりの間と横顔や後頭部アップで閉塞感のあるつくりで、動きは少なく、多くは台詞で説明しているイメージ。
いらないシーンやめちゃくちゃ長い間が多く、それで雰囲気を作っているのはわかるけど、やはり幾ら何でも上映時間が長過ぎる。その割に話がとんだりして判りにくいところもあったし。
こういう話は好きだし締めも嫌いじゃないけど、半分ぐらいの尺で編集してくれたらもっと高評価したのになー。
スヌーカーの知識が乏しいから調べたけど、アオミのキューが良くわからなかった。
フィルムを縦に切れ!
蒙昧な者の言い訳....4時間と知って、ただ単に見るのを諦めようと思った作品。映画通や映画好きと呼ばれる人たちとは異なり、前評判や監督の少ない情報を知ってみようと思った訳ではなく、ただ暇で、何故か’見なければ’という変な押し付けがましいものが湧いてきたためで、他の人とは違い、いたって不純な動機から鑑賞した。そんな動機なら、書くなってか?
'ボンベイ'と’ハリウッド’の造語ボリウッドもビックリの4時間近い映画。個人的には、その長さが人を選ぶように捉える天邪鬼な者にとって、映画産業として成り立っているのかと余計なお世話様的なことをまず考えた。そして、そんな勇気のある長さの映画に対して、ある意味悪い内容のレビューなんて書くもんなら、裸の王様状態になりはしないか、頭をよぎる。その前に、映画の予告編やこの映画のエンドロール前のテロップでも紹介されている”In memory of HuBo” より、この映画の原作者でもあるフー・ボー 監督に対して、ご冥福をお祈りいたします。
ユー・チェンが朝起きたときに。隣には、友達の妻が寝ていた。
He told me the other day. There is an elephant in Manzhouli.
It sits there all day long. Perhaps some people keep stabbing it
with forks. Or maybe it just enjoys sitting there. I don't know.
映像としては、あえて自然光を使い、余計な照明を使わずに撮影し、ワンショットの長回しを多用している。また被写体となる人物に焦点を当て、その他の背景や人物については、恣意的に焦点をぼかした撮影方法をとっている。しかも、人物が歩く場合やそのほかの時でも人の背後から撮影されたり、顔のアップの場合は、顔が半分きれていてもそのまま撮影されている。また人ごみの多い場所に限っては、腰を中心に下から上の方向に向かって見上げるように撮られている。
シナリオ自体は、群像劇と呼べるもので、4人のそれぞれにバラバラに起こっている殺伐として空虚でしかないような出来事が、実は、なにかの力学が働いたかのように繋がっていき、ラストの満州里市(まんしゅうりし)行きのバスに乗り込み目的を果たすことが出来るかをこの映画は、たんたんと描いている。その途中に色々なイベントと呼べることが、この映画の魅力として挙げられ、ウェイ・ブーが誤っていじめっ子を階段から突き落とし、死なせてしまったことが発端となり、その後、そのいじめっ子のヤクザの兄ユー・チェンから逃げるようになったために行き場を無くした彼が、道連れとなる者と共に幻の象がいる地を目指す物語となっている。義理の息子から家が狭いという理由から、やむなく現代のオバ捨て山を象徴するかのような老人施設。そのワン・ジンが訪れた未来の住処では老人が、何をするわけでもなく、ただ部屋の中を行ったり来たりしている無言の行脚のようなシーンを捉えることで彼の行く末を暗示しているし、言い知れない恐ろしいものを感じてしまう。
Life just won't get better. It's all about agony.
That agony has begun since you were born.
You think that a new place will change your fate?
It's bullshit. New place, new sufferings. You understand?
No one truly knows about existence.
こんな冷たいとしか言いようのない言葉を投げかけられたファン・リンは、家族にも慕う者にも愛というものが存在しないことを身に染みて感じている。シナリオを読めないところがある。ユー・チェンが、ウェイ・ブーを見逃す場面で、ウェイ・ブーが何故見逃してくれるのかとユー・チェンに尋ねる場面。”ただ弟が嫌いなだけさ”ッテ、何それ?
現代中国が抱える閉塞感を制作者は描きたかったのかもしれないし、中国という国の地方都市の住宅事情の荒れ果てた、むかし日本でも駅や地下道の壁に広告の紙が糊付けされたりしていたのを今の中国でも見ることができ、道はがれきが転がっていて、川なんぞに犬の死骸をビニール袋に入れてそのまま投げ捨てるシーンもある。中国が、よくぞ映像化を許したなと思える場面も登場している。とにかく中国の街が汚すぎる。しかも、自然光だけで撮ったとされるものに加えて、冬に撮影されたのか、画面自体が暗すぎることによってか知らないが、シーンとシーン、またエピソードとエピソードの繋がりの歪さが、個人的には、どうしても気になるものとなっている。
1996年に設立された映画産業およびレビューWebサイトのindieWireの’The First and Last Masterpiece of a Great Filmmaker Gone Too Soon’ 2019.5.8
「 この映画は、飛びぬけた気分の良い映画に相応しくはありません。それでも、物語は満州里の神秘的な象を見る絶好の旅行に向けて作られており、お年寄りのワン・ジンは仲間に加わることを待ち望んでいます。」
映画の世界からのより多様であまり知られていない映画公開のいくつかを焦点を当て、支持することを目的としているCineVue 2018.2.21
「悲しみと暴力の持続的に起こる出来事にもかかわらず、美しく、神秘的で、叙情的で、何となくリラックスして、主に彼のカメラの叙情性のおかげで、フー・ボー監督の映画を囲む幻影のオーラがあります。」
視聴者からも評論家からも高い支持を受けている本作。一部何かおかしなところもあり、人が窓から飛び降りて、すぐに”ドサッ”という擬音が聞こえているのが早すぎはしないかとか、教師が教室に入ってきた言葉が、字幕では”警察には知らせるな”と出ているのにその部分だけ無音となっていた。何故? 何かの不良か? いわゆる感情的に訴える、感傷的にさせる映画に対しての評価は、誰しも無茶なことはできない前提があるのかもしれない。この映画は、日本人好みと言えるものか? 言える?
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