「抑制の利いた語り口」アマンダと僕 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
抑制の利いた語り口
あらかじめ、無差別テロによって姉と恋人を失うという物語の契機を知っていたので、その描写を観るのは嫌だなと思いつつ静かなスクリーンを見つめた。
ところが、血生臭い事件を現在進行形で表すシーンはなかった。その後も、亡くなった人の葬儀、役所や親族との養育に関する話し合いなど、「事件」としての物語には必須の要素が、画面には全くと言っていいほど現れないのだ。
しかも、観客がそれらの要素の不在を認識するように、登場人物の台詞では言及している。ここではスクリーンに映していないことが、人物の置かれた状況、直面している問題を正しく認識するために必要な情報なのだ。
映画は、スクリーン上に表象するものと、あえて表象されてはいないものの間で、人物の心情に焦点を絞っていく。
特に、ロンドンで主人公が母親と久しぶりの再会をする場面での、この母親の人物造形が素晴らしい。
自分の生んだ息子に対してフランス語のvousで呼びかけるよそよそしさと、ときにtoiでも呼んでしまうぎこちなさ。何よりも、子や孫に対して親戚以上の親しみを表わせない初老の女を、グレタ・スカッキが上手く演じている。
彼女の近況や、主人公たちへの感情に関する表現は抑制されており、主人公の心情へと観客を集中させる。
ただ、大切な人を失う原因が無差別テロであることと、テニスの試合を観に行くことは、この物語に不可欠の要素であるようには思えなかった。
人が亡くなる原因は事故でもよかったような気がするし、ブルカの女性を終盤に登場させる意図は分かるが、無用だと思った。
大切な人を失くしてしまうという経験は、それがテロによるものだろうと、事故によるものだろうと辛いことには変わらないのだ。