劇場公開日 2019年12月27日

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「ノスタルジー、ノスタルジー、ノスタルジー」男はつらいよ お帰り 寅さん keithKHさんの映画レビュー(感想・評価)

ノスタルジー、ノスタルジー、ノスタルジー

2020年1月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

ノスタルジーほど強烈に人の心を揺さ振り、掻き乱し、誑かす感情は他にありません。人をトランス状態に陥らせ、挙句に夢現にさせてしまいます。
本作は、没後23年を経た故・渥美清演ずる”車寅次郎“への、ほぼ四半世紀を経て繰り広げられる壮大なレクイエムにして、雄大な讃歌であり、ストーリーらしいストーリーのない散文詩であると云えます。
最早その姿を求めても届かず、叶わぬ想いほど、人を動揺させ、切なく、儚くさせるものはありません。約2時間に亘り、徹底した絶対的なノスタルジーを観客に只々訴えるだけの映画という、非常に稀有な構成の作品です。

思うに、『男はつらいよ』の実質的最終作『寅次郎紅の花』が制作され公開された1995年、80年代に絶頂を謳歌したバブル経済は、彼方此方に綻びが露顕し、破綻に向けた道程を確実に歩み始めていました。並行して日本人の自信と誇りが徐々に崩壊していく、将に繁栄から奈落に転落していく終りの始まりの時期でした。
奇しくもシリーズが始まった1969年は、翌年の大阪万博を控えた高度経済成長の頂点を極めた時期であり、その後2度のオイルショックでの停滞を経つつも、日本経済は概ね右肩上がりに順調に拡大発展を続けていた時代、これが『男はつらいよ』が熱烈に支持され、26年間に亘り公開された毎作が年間興収ベストテンにランク入りし続けたことと見事に照合します。
只管経済重視、効率重視の一律的でドライな価値観に基づく日常生活には、どこかでウェットな心のオアシスが希求され、それこそが伝統的日本的家族に根差した車寅次郎的生き方が永く広く愛された所以だろうと思います。
思えば渥美清氏の逝去は、それまでの日本社会を支配していた経済合理性一辺倒のパラダイムの終焉と、偶然にせよ一致しますが、その後経済の低迷によって国民が困窮化し、社会全体が混迷し統一的価値観が失踪し、完全に自信喪失してしまった日本社会では、車寅次郎を顧みる余裕は到底持てなかったでしょう。『男はつらいよ』にとってはヒットを続ける最中でピリオドを打つことが出来たのは幸福だったと思えます。

では今何故『男はつらいよ』なのか。
失われた20年を経た後も東日本大震災や人口減少、イスラム・中国・ロシアを巡る不安定な国際情勢によって紆余曲折がありつつも、令和の新時代を迎え56年振りの東京オリンピック開催を控え、経済面での落着きと新たな成長への期待が芽生えつつある今だからこそ、山田洋次監督は少し浮かれ気分の日本人への警鐘として、心の原点回帰を訴えたかったのではないかと愚考するしだいです。

上述のようなコンセプト作品の内容を評価して論じるのは無意味かもしれませんが、映画作品として捉えると、元々『男はつらいよ』は、主人公・車寅次郎の旅する日本各地の風光明媚な風景と土地土地での人との出逢いがアクセントになり、本来の物語展開の舞台となる柴又「くるまや(とらや)」と交錯する所で起きる騒動ひと悶着によって進行するパターンですが、今回は主役の寅さんが不在なので抑揚が出せず、従いアクセントがなくなり、その分を過去のフラッシュバックを挿入して、専ら室内での会話劇のみで展開することになっています。その結果、スジらしいスジのない散文詩的構成になってしまったのでしょう。
そのために、矢鱈と寄せカット、極端な人物の大写しカットが多く、またやや仰角気味のカメラ目線でのカットとなり、観客は常に少し見上げながら大顔が迫ってくるので、一種の催眠状態に漂わされます。
それだけだと浮揚感が強まり、更に過去の生前の映像が頻繁に挿入されることにより現実感が薄れてしまうところが、セットの設えや装飾に過去と現実の違和感が全くないので、自然な映像の流れとして受け容れられます。これは偏に美術スタッフに倉田智子氏が入ったことによると看做しています。彼女の力量は、多くの時代劇映画の美術実績で既に十二分に証明されていましたが、現代劇でも確かな腕前を見せてくれ、本作のテーマである「ノスタルジー」を見事に体現した最大の貢献者だと思います。

尚、日本社会が苦悩し続けた、この四半世紀ですが、ほぼ30年に亘りドル箱だった『男はつらいよ』に取って代わるシリーズや路線を見出せないまま、最も踠き苦しんでいたのは、他ならぬ松竹自身ではないかと思うしだいです。

keithKH