「シュナーベルの自己満足で作り変えられた、悪趣味なゴッホ像」永遠の門 ゴッホの見た未来 Imperatorさんの映画レビュー(感想・評価)
シュナーベルの自己満足で作り変えられた、悪趣味なゴッホ像
史実をとらわれずに作った作品であることは、観る前から分かっていた。
しかし、シュナーベルの自己満足で作り変えられた、このゴッホ像はひどすぎる。
違和感がある部分を挙げれば、キリがない。
(1)自然がない、色彩がない
ゴッホは事物の実際の色彩を無視して、非常にカラフルに描いたが、逆に、シュナーベルは、確信犯的に色彩を削ぎ落としている。
南仏の自然や風物は、どこに行ったのだろうか?
強烈な太陽や、吹きすさぶミストラル。
果樹園や花盛りの庭、青いアイリス。
アルルの街や公園。
働く農夫、洗濯女。
地中海。
夜のカフェやカフェテラス、そして星月夜。
麦畑や積み藁。
代わりに映されるのは、何も生えていない畑や、ただの原っぱである。
そのため、他ならぬ“ゴッホのアート映画”とは言い難い色調の作品となっている。
(2)許しがたいほど、ゆがめられた人物像
(a) 「“耳切り事件”の前に、すでに精神に異常をきたして入院している」(アルル)
ゴーギャンが来る前は、比較的落ち着いて「果樹園」、「跳ね橋」、「漁船」などを描いていたことは、周知のことである。
しかし本作品では、早い段階で施療院に入って、「人を殺すか、身投げするか」と語っているのだが、そんな事実は無い。
何より、ゴッホが“画家の共同体”を夢見ていたことを、完全にスルーしていることが許せない。
ゴッホが、金欠のゴーギャンを南仏に強引に誘ったのであって、ゴーギャンが「南へ行け」と勧めたのではないのだ。
(b) 「羊飼いの女にモデルになってもらおうと乱暴して、施療院に監禁された」(サン=レミ)
何のためにこんな暴行事件をでっち上げて、ゴッホを侮辱するのか?
また、「許可を得ずに施療院から脱走しようとした」ことはなく、何度も襲ってきた発作ゆえに、ほぼ自発的に施療院で過ごしたのだ。
(c) 「自分をイエス・キリストになぞらえた」(サン=レミ)
ゴッホが神父との会話で語った、「神が“時代”を間違えた」とか、「自分は“未来の人々”のための画家である」と考えていたという話は、一つの人物解釈として、十分アリだと自分は思う。
しかし、画家になって宗教とは距離を置いたとはいえ、「イエスも無名で、30~40年後まで知られていなかった」などと、イエスと自分を比較するような傲岸不遜はあり得ないと思う。
(d) その他、あり得ないと思う改変は、まだまだある。
アルルで「ゴーギャンへの“謝罪のため”に、耳を切って、ゴーギャンに届けようとした」というのは、勝手な創作だ。
また、いかに正気たらんと欲して苦しんでいたかを思えば、オーヴェルでガシェ医師に「病は人を癒やす」とか、「狂気は最高の芸術」などと語っているのは、全く信じがたい。
ゴッホは、言うことがコロコロ変わる人だ。
本作品で、キャラクターが最初から最後まで変化せず、生き生きしたゴッホ像が描けなかったのは、勝手な改変を積み重ねた挙げ句、史実から離れすぎて、身動きが取れなくなったためだろう。
演じたデフォーの年齢のせいではない。
(3)無駄に長い、あるいは、意味不明なシーン
たった111分の映画だから、無駄なことをしている余裕はないはずである。
しかし、ジヌー夫人(酒場でのシェイクスピア談義)、家政婦(花瓶の西洋キョウチクトウ)、同僚の患者(施療院の浴室)等との間で、何の意味も無い長い会話シーンがある。
また、最初や最後の方で、ゴッホが延々と走り続けるシーンがあるが、これもよく分からない。
エンドロールでは、スクリーンが黄色くなってゴーギャンの言葉が語られるが、あの“ダジャレ”に何の意味があったのだろうか?
(4)おとなしすぎるキャラクター、奇妙なカメラワーク
デフォーの熱演は素晴らしかった。
だが、ゴッホにもゴーギャンにも、男盛りの“生臭い”人物像や、強烈なキャラクターに欠けている。
また、カメラの“手ぶれ”もさることながら、「遠近両用サングラス」を使ったという、“下半分のピントがぼやけた”映像が気になった。
それらの“小細工”で、ゴッホの“錯乱した精神”を描写しようとしたとすれば、馬鹿げているとしか言いようがない。
(5)意外にも良かったシーン
とはいえ、普通のゴッホ映画なら、まず描写されなかったであろうシーンがいくつか見られた。
・葦(公式サイトでは“竹”となっているが嘘だろう)で、ペンを作ってドローイングする
・冗長でイマイチだが、“頭で描く”ゴーギャンと、“自然から描く”ゴッホとのアート談義がある
・石を投げられるなど、子供たちに虐待される
・自分を賞賛するアルベール・オーリエの評論に、不快感を示す
特に、モデルに窮していたゴッホが、ゴーギャンのおかげで、ジヌー夫人をモデルに描けたシーンは良かった。
帰宅して、ジヌー夫人が居るのにびっくりして、慌てて画架を降ろして、油絵で直接描き始める描写は素晴らしかった。
(6)結語
その生涯が謎の人物なら、馬鹿げた創作でも許されるだろう。
しかし、よりによってゴッホは、“手紙”の存在で例外的にその人生が知られており、また、そうであるがゆえに、悲劇的人生とあいまって、今も人々を惹き付けてやまない画家なのだ。
ガシェ医師を演じた俳優は言う、「監督を通してゴッホを見て、またゴッホを通して監督を見る」(公式サイト)と。
つまり、本作品で描かれているのは、ゴッホではなく、シュナーベル自身なのである。
シュナーベルは自身、モダンアートの作家として、世界中の観客を挑発したくて、“ゴッホを利用した”と言えるのではないだろうか?
ゴッホが描いた絵は、ゴッホのものです。だから、別に写実的でなくても構わないでしょう。
しかし、シュナーベルが描いたのは、シュナーベル自身ではなく、実在した別人物です。
よって、(この映画が広く流布することも考慮すれば)対象の「解釈」というレベルを超えて、ゆがめて描くことには慎重さが求められると考えます。
暴行事件、自身をイエスになぞらえたこと、自身の病気を肯定したこと、この3点は自分には是認しがたいものでした。何のためにそんな解釈を?という気分です。
むろん、「ゴッホの人生にインスパイアされた、架空の画家の物語」と銘打っていれば、何の問題もありません。
“エッセンス”などは、自分には全く感じられませんでしたね。ヴィニィさんが、“エッセンス”を見いだされたなら、ご自分でお書きになったらいかがでしょうか?
むしろ、ゴーギャンとのアート談義や、葦ペンの挿話、ジヌー夫人の模写のような枝葉の部分に、シュナーベルというアーティストならではのアプローチによる面白みがあると思っています。
この方は史実に基づく再現ドラマを期待したのでしょうか?
すいません、わたしには
ヴァンゴッホに君の描く自然は写実的でないと仰っているのと同じ様に聞こえます
本質的なエッセンスを作品から感じられればまた違ったものが見えたかもしれませんね