「☆☆☆☆ 掃除の時の水。雹。雨。水溜りの泥水。海水。 全ては水によ...」ROMA ローマ 松井の天井直撃ホームランさんの映画レビュー(感想・評価)
☆☆☆☆ 掃除の時の水。雹。雨。水溜りの泥水。海水。 全ては水によ...
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掃除の時の水。雹。雨。水溜りの泥水。海水。
全ては水によって洗い流される。
メキシコ発のネオリアリズモ。
以下、個人的な意見ですので、かなりの部分で勘違いなレビューになっていますので。ここは1つ寛大な心でお願いいたします(_ _)
ファーストシーン。
この作品の主人公にあたる家政婦クレアは、雇用主の家の駐車スペースを洗っている。
飼われている犬は絶えずこのスペースで糞をする為に、清掃は欠かせない。
この場面で、彼女が撒く水はまるで鏡の様に天を映す。
カメラは下を向いているのだが、自然と天を見上げるが如くに!
何故かと言うと。この家がかなり裕福な為に、※ 1 このスペースは大理石で(おそらく)ツルツルだからだろう。
1971年のメキシコ。メキシコオリンピックから既に3年が過ぎた時代。
知識が無いので、当時のメキシコ事情は分からない。だが、どうやら大きな学生運動らしき事件が起こる等。この国では大きな社会変革が起こった時代とゆうのは、観ていても分かる。
その一因として、富裕層と貧困地域との格差が有ったのか? それは勿論、此方の知識が足りない為に分からないのだが…。
それでも、牧場へ旅行に行くと、富裕層らしき人達が射撃を楽しむ一方での、それに使えていると思える貧困層との違い。
栄えている都市部が有る反面で。彼女が男を探しに行く地域での社会インフラの遅れは、やはり対比させている様に見える…と思ってしまう。
但しそれらの部分は、物語の背景にしか過ぎないのかも知れない。映画が関心を示すのは、あくまでも家政婦のクレアに起こる様々な出来事なのだ。
ネオリアリズモは映画の歴史に於ける一大変化をもたらした。しかし、社会が繁栄するとそれを伝える事が難しくなって来る。
そんな中で、エルマンノ・オルミは『木靴の樹』とゆう名作を産む。
特に何も起こらない日常、それを淡々と写実するだけの3時間。しかし、そんな何も起こらない日常にこそ大きなドラマが『木靴の樹』には隠されていた。
子供を学校に行かせるかどうかで揉め。
娘に恋人が出来た様だと心配する。
人よりも数日だけ早くトマトが熟しては喜び。
特別な日には豚を解体するなど、3軒の家族が寄り添って生活する。
だが、そんな何も無い地域でも確実に戦争の気配は近付いていた。
『ROMA』本編でも上映が始まると、特に何も起こらない。ひたすらクレアを中心とした軸の中で、淡々と日々の暮らしが続いて行く。
そんな内容に、何処となく『木靴の樹』を思い浮かべていたところで、映画は突如としてクレアに大きなドラマが起こる。だが、まるでクレアは自分の運命を飲み込んでしまったのか?やはりこの後も淡々とした日々の暮らしが積み重なって描かれて行く。
だが…!
映画の中盤でこんな台詞が有った。
「山は低くても緑は繁る」
クレアは聖なる心を持つ女性だった。
犬の糞を始末しろと言われれば嫌な顔をせずにこなし。指輪には憧れるが、自分の指にはめる事などせず。バラバラになりそうな出来事が起こったこの家族に静かに寄り添う。
クライマックスと言える海岸の場面。
帰宅した子供達は笑い話の様に、その時の出来事を語る。大事に至らなかったからこそ、笑い話として話せる幸せ。おそらく、そんな話はいつの日にか日々の暮らしの中で直ぐに忘れ去ってしまうに違いない。
だが、月日が経てば特別に大した事では無かったのかも知れないが。間違いなく《アレ》は小さな奇跡に違いなかったのじゃないか?…と、ラストシーンのカメラは雄弁に語っていたのかも知れない。
ファーストシーンと違い、ラストシーンでのカメラは直接天へと向けられている。
エンドクレジットが終わり。映画は完全に終わろうとしているその刹那。微かに聴こえる鐘の音が3回囁く様に聴こえて来る。
「神様!あの奇跡は、あなたが聖なるクレアに形を変えて助けてくれたのではありませんか!」
※ 1 どうやら石畳が正解らしい。そして監督の自伝的作品であるのを鑑賞後、数時間経って知る。
また、帰宅中からこのレビューを書き始めたのだが。ラストシーンの意味を考えるにつれて、鑑賞中よりも時間が経ってからの方が数倍もの感慨に溢れて来る。余韻の深みが半端ない。
尤も、このレビュー自体はちょっと怪しいのだけれども(u_u)
2019年3月9日 イオンシネマ板橋/スクリーン5