ROMA ローマのレビュー・感想・評価
全167件中、1~20件目を表示
時と場所の垣根を超える、モノクロゆえの親密さ
ああ、いいもの観たー、と久々にしみじみと思った。その一方で、この素晴らしさは、言葉にするのは難しいな…とも。けれども、やっぱり自分なりに心に留めておきたいので、敢えて言葉にしてみようと思う。こぼれ落ちないように、余計なものを足さないように。
「天国の口、終わりの楽園。」に出会って以来、アルフォンソ・キュアロン監督について行こうと決めた。だから、当時距離を置いていたハリー・ポッターシリーズも「アズカバンの囚人」だけは、いそいそわくわくと足を運び、今も子らに推している。 そんなキュアロン監督の新作を、映画館で観ることができる。席に着いただけで、すでに満足感があった。
冒頭のクレジットの背景で、白地に点在する黒いものが取り除かれ、何度も洗い流される。これは何だろう…と、じーっと観ているうちに物語は幕を開ける。少しすると冒頭の種明かしになり、凝視していた分気恥ずかしくなるのだけれど、それはいっときの話だ。
家政婦として働く、あどけなさが残るヒロイン・クレオは殆どしゃべらないし、情感を盛り上げる音楽も流れない。掃除に洗濯、料理に子守を求められるままに黙々と片付ける。彼女の思わぬ妊娠から出産を横糸に、挟み込まれる暴力的な内乱を縦糸に、淡々と物語は進む。彼女が寡黙な分、働いている家の中でのいさかいや、街の喧騒が耳に刺さる。
分かりやすい事件は起きず、彼らの日常にいきなり放り込まれた感覚が強い。初めは少々面喰らう。けれども、モノクロの画面に向き合っているうちに、いつの間にか、彼らと共に過ごしているような気持ちになっていく。
物語になじみ、気を許して身を委ねていると、終盤でふたつの大きな揺らぎが現れる。人の限界を突きつける一度めと、自然が牙をむく二度め。彼らを容易く呑み込もうとする画面いっぱいの波に圧倒されながらも、まばたきを惜しんで見つめずにはいられない。モノクロゆえに、泡立つ波の白さ、砂のざらつきや体温が生々しく想起される。身を寄せ合う彼らの輪に自分も加わっているような、不思議な親密さに包まれて、胸が熱くなった。
夢から覚めるように、物語は終わりを迎えてしまう。けれども今も、私の一部は、時と場所を超えて彼らとともに生きている。同時に、彼らがひっそりと私に寄り添ってくれている。(特に、クレオのように荒れた部屋を片付けているとき、汚れものをきれいにしているとき、洗濯を干しているとき、彼女と繋がっていると思える。)そんな得難い感覚を日常に与えてくれる、かけがえのない作品だ。
追記: モノクロ、区切られた空間の中の移動という骨組みは共通しているけれど、物語は対照的な「ヴァンダの部屋」との二本立て、体力が許すならば観てみたい。
不吉な予兆を追いかけて。
気がついたら四回観てしまっていたが、繰り返し観たことでわかったことと、いまだにわからないことがある。
まるでどこかの家の日常を覗き見ているような映画だが、実はものすごく計算されて作られている。顕著なのが「子を失う」という展開を予見させる前振りの数々。例えばクレオが妊娠を雇い主に告げる時、幼いペペが泣いているクレオに気付く。雇い主(ペペの母親)が「クレオはお腹が痛いの」とその場しのぎの嘘をつくと、優しいペペは「痛いの飛んでけ」とクレオ気遣う。そしてクレオに宿った厄介ごと=子供は、死産という形で飛んで行ってしまうのだ。
不吉の予兆は他にもいくつもある。大晦日のパーティーで祝いの盃が割れるのがわかりやすいが、その直前に家政婦仲間が「子取り鬼でもくるっていうの?」と冗談を言う。しかし子取り鬼は来るのだ。クレオの子供を奪いに。本作の脚本は実に隠喩に満ちている。
わからないままのは、幼いペペが何者なのか?という疑問。ペペがたまに口にする「大きかった時の自分」の話は、いちいち予言的なのだ。ペペにはどこか異界と繋がっているような佇まいがある。一体キュアロンの真意はどこにあるのか? 掘れば掘るほど迷い込むのも、本作の魅力だと感じている。
画面を支配する"グレーのグラデーション"
広い邸宅のリビングからキッチン、階段を上った先にある個々の部屋、洗濯物を干すベランダ。ゆったりと動くカメラが映し出すのは、外からの光の案配や、前後の位置関係によって微妙に変化する"グレーのグラデーション"だ。ただ色彩を排除することで色を想像させるのでもなく、モノクロの美しさを単純に探究するのでもなく、これほども豊かな映像表現というものに久しく出会ってない気すらする、撮影監督、アルフォンソ・キュアロンの戦略的カメラワークに思わず惹きつけられる。そして、一人のメキシカン・ネイティブの家政婦の体験をベースに綴られる、廃れゆくブルジョワ家族の儚さと悲しみに心が震える。メキシコの近代史を描きながら、この映画が国籍や人種を越えて人々にアピールするのは、誰の胸にもある懐かしい我が家の記憶を呼び覚ますからだ。時は移り、記憶は薄れ、国家は分断され、国境に壁が建設されても、家族という最小で最強のコミュニティは存在するはず。監督、キュアロンの祈りのメッセージは、今、ストリーミングを通して世界中に伝播中である。映画はあくまで"どう作る"であり、"どう見せる"ではない。筆者はキュアロンの意見に賛同する。
喜びや悲しみを超えて、寄せては返す波のように紡がれゆく記憶たち
映像の深度。ふとそんな言葉が浮かんだ。映画館のスクリーンに比べるとこれっぽっちのサイズでしかないPC画面(NETFLIX)での鑑賞ではあるものの、計算され尽くした構図とカメラの動きが、観る者を深い記憶の潜行へといざなってやまない。しかもその全ての演出がいっさいこれ見よがしではなく、カメラの存在を忘れてしまいそうなほど、ナチュラルに胸に沁み渡っていく。物語そのものはとても小さくて個人的なものだが、そこに映し出される延々と横移動し続ける街並みや、遠く遠くまで開けて見える奥行きなど、このPCの小箱が一つの考え抜かれた視座、あるいは「記憶の覗き穴」でもあるかのようだ。
寄せては返す波のようなオープニングは、やがて訪れる生命の鼓動、陣痛、そして終盤の海辺にもつながる。何気ない喜びや悲しみ、そして歴史が物語る惨劇を乗り越えて、日々が大切に、穏やかに育まれていく様がこの一作に集約されているかのようだ。
とても澄んだ作品
「ゼロ・グラビティ」がすごく良かったので、アルフォンソ・キュアロン監督作品である本作も鑑賞。
なんときれいなモノクロだろう。生々しいほどの日常生活もきれいに撮れていて映像がとても澄んでいるため、生活音や街の喧騒すら心地好く感じる。日常的な雑多な音の拾い方が絶妙で、耳に届くちょっとした音すら澄んでいる。
そして、時代のせいか一部例外の男性もいたものの、基本的には登場人物皆の心も澄んでいるので、ストーリー全体としてもとても澄んでいる。特に、海で溺れた子供達を迷わず救った主人公の損得勘定なしの澄んだ心は、まっすぐ過ぎて思わず涙してしまったほどだ。
その他にも本作にはコメディチックなトリッキーさもあり、とても魅力に溢れた作品だ。
それにしても、時たま映り込む飛行機、なかなか良いアクセントになっていたな。
さすがはアルフォンソ・キュアロン監督、次作は必ず劇場で観るぞ。
アルフォンソ・キュアロン監督の子供時代の追憶
モノクロの画面が美しい映画でした。
物語よりも映像で語る映画。
アート系の映画です。
ファースト・シーンで、
タイルの床に水が流される。
大きなバケツで汲みきれないほどの大量の水。
そこはキュアロン監督が子供の頃を過ごした家の床面。
美しいタイルですが、犬の糞が転がっていて、避けて歩くのは難しそう。
1970年メキシコシティの中産階級居住地区コロニア・ローマの
広大な邸宅の家政婦のクレア。
その雇い主のアントニオとソフィアと4人の子供と祖母の家庭の
1年間が描かれる。
この映画の後にキュアロン監督の制作ドキュメンタリー映画
「ROMA/ローマ完成までの道のり」を観ました。
監督の意気込みが伝わってきました。
商業映画ではない本当に自分が撮りたかった映画を撮れた喜び。
ぼくが本当に創り出した【初作品】なんです。
そう熱く語ります。
監督の過ごした子供時代の思い出。
若い家政婦のクレア。
医師の父親と科学者の母親と祖母。
父親はカナダのケベックへ出張と度々家を留守にします。
夫婦仲はどうも微妙な様子。
一番の印象的なのは家族と家政婦2人が住む【瀟洒な邸宅】
1階から2階は吹き抜けで、居室には仕切りが無い。
1階の車庫。
間口ギリギリにやっとこさで駐車されるバカでかいフォード・ギャラクシー。
そこは飼い犬の遊び場と共有で犬の糞が点々と落ちている。
そして屋上が洗濯干し場。
(中産階級といっても、上流階級のようです)
若い家政婦のクレア。
洗濯・掃除・炊事と忙しく働くクレア。
子供たちがとても懐いていて、クレアを大好きなのが分かる。
クレアの初体験の日のエピソード。
クレアの妊娠。
不実な恋人フェルミン。
(妊娠を告げると映画館から逃げ出します)
遠方の仕事場まで訪ねるクレアに、
「2度と来るな!!本当に俺の子か?」
とひどい仕打ち。
そして暴動の日に破水。
(それは不実なフェルミンが抗議団体の民衆に銃を突きつけた直後)
そして出産。
ストーリーより映像。
子供の時の記憶の心象風景がまず初めにあって、
台詞はその場で監督が指示していましたし、
その場面で自然に生まれる言葉が台詞でした。
クレアを演じたヤリッツア・アパリシオはオーディションで選ばれた
先住民族の女性で、ミシュテカ語が話せます。
もう1人の家政婦のアデラとの秘密の会話はミシュテカ語。
アカデミー賞の監督賞・撮影賞・外国語映画賞を受賞。
Netflix作品は監督の撮りたい作品を実現するのに力を貸す。
そう感じます。
2のシーンが心に残りました。
《クレアの出産》
クレアが産気づき破水して出産するシーン。
実は演じているヤリッツアに、秘密にされていた事があり、
役に没入したヤリッツアは驚きで感極まって泣き出します。
このシーンは演技ではない。
そこでクレアになりきり、彼女はクレアとして生きていた。
(満足の出来に感激症のキャメロン監督は何度も何度もヤリッツアを抱きしめる)
《ラストのビーチのシーン》
波打ち際で遊んでいた子供2人が大きな波にさらわれそうになる。
泳げないクレアが必死になって波に逆らって沖の方へ進む。
特別なCGやVFXや特撮はないと思います。
ごく自然な緊迫感。スリル。
見事なシーンです。
ラスト。
クレアと一家が帰宅する。
アントニオとソフィアは離婚を前提に別居が決まり、
アントニオが荷物を運び去って、ガラーンとした一階。
クレアはアデルに、
“いっぱい話があるの“
と告げる。
きっとミシュテカ語のお喋りは盛り上がるのでしょう。
今も交流があると言うクレアのモデルの家政婦さん、
暴動も地震も大火事もあるけれど、
何処か郷愁に満ちたキュアロン監督の優しい眼差しを感じます。
民族間や他人との見えない壁を痛く感じさせる作品。
内容は、アルフォンソ・キュアロン監督の幼い時の回想録を映像化。監督自身の切り取った少年時代1970〜1971年を再構成した作品。主に召使い女性クレオ・グティエレスを主人公とし当時のメキシコを感じさせる繊細で臭いまで伝わって来そうな迫力ある激しくも静かな作品。印象的な言葉は『ミドルネームも歳や年齢も知らない。関係は、雇用主よ。』作品終盤に起こる破水と出血で緊急に病院に行くが受付でお婆ちゃんが話す言葉。召使い感が半端なく大切に扱ってもらってる様で、全然違うことが分かり寂しく感じました。印象的場面は、その後の病院で死産した時に対する寂しそうな主人公の顔と安堵や後悔にも似た表情が印象的でした。観てるこちらまで胸に詰まる。その後に『欲しくなかったの…』の言葉には、裏腹に元気に産まれて欲しかった様な気持ちが見え隠れして何とも言えませんでした。全体的に凄いエキストラの数と構図、シネマスコープの表現はテレビで観た事を後悔しました。監督の少年時代を違った角度で覗き見る事の出来る面白い作品だと思いますが、前半はあまりに単調なので挫折する人は多いと感じました。最後にギリシャのローマではなく、メキシコシティー郊外のコロニア・ローマが舞台だったと観終わってから合致したのが一番スッキリしたという情けない自分自身の観点です。
生まれてきてほしくなかったの。
アンクル・トムの小屋だ。
メキシコの歴史は余り知らないので、イデオロギーの事は省いて鑑賞した。
『生まれてきてほしくなかったの。』
カソリックのメキシコでは、堕胎は出来ないから、仕方ないだろう。余りカットが無く長回しを多様している。その
長回しが飽きずに見れた。
男目線なのだろうが、傑作だと思う。
ゼログラビティの監督なの!?
心を揺さぶる
幸いなことに映画館で見ることができました。クライマックスは「心を揺さぶる」という表現がぴったりでした。Netflixは凄いです! でも、この映画を家のテレビで見ても、その感動は得られないでしょう。(ましてや携帯で見ても…)
この感動をもう一度、とその後、上映されていた渋谷のアップリンクまで遥々見に行ったのですが、最初の感動の10分の1もありませんでした。(それでも、すばらしかった)
この映画をその映画館で一番の環境のスクリーンで見せてくれたイオンシネマの英断に感謝しかありません。なんとか、もう一度、Dolby Atmosの恵まれた環境で上映してもらえないものでしょうか。
最低な男たち…
家族をおいて、愛人と暮らす雇い主の夫といい、クレアから逃げた男といい、クズ男だなと。しかも日本の武道らしきことをやってるが、やめてくれ。死産のシーンはリアルで何とも哀しい。モノクロの映像美とともに、長回しの撮影はある家族の日常を描いており、いたってナチュラル。しかし、期待していただけに平凡に感じた。ラストは少し光が見えたかな。
水、そして羊水、波
床をこするような音と共に泡立つ水が石畳の上を流れゴボゴボと吸い込まれるタイトルバック。底通しているのは水、そして羊水、波。
公衆トイレかと思われたのはエントランス兼車庫で、ウンチを撒き散らす飼犬の持ち場でもあり、そこへ肩怒らせた高級車が無理矢理入庫してくる。
怒鳴られながらも虐待を受けるわけでもなく、メキシコ上流家庭の子供達に親しまれるメイドの日常がうねる様に流れ、モノクロの抑制した画面が、観る者を息の詰まる様なクライマックスに押し流して行く。
2極化する評価軸。配信の意味
自分なりに、この映画の「あり方」について考えてみた。
アカデミー賞をめぐるスピルバーグのコメントは「配信の映画はオスカーではなくエミーを取るべき」というようなものだった。そのことが気になって、見てみたい。と強く思うようになった。この手の映画は、ほとんど見ない。女優さんが美人じゃないし、お話も平凡な日常風景、テーマがはっきりしない。差別?恋愛?幸福?なんかぼんやりしている。とにかく面白くなさそうだ。なんでこんな映画が評価されるのだろう。
Netflixで配信されており、アカデミー賞発表のタイミングでは契約しようか、どうしようか本当に迷った。で、いつの間にか限定で劇場公開されていたので、しれっと見に行ってきた。人に話すとしたら、
「見てよかった。でも、面白くないよ」
「シロクロなんだけど、映像がキレイで奥行きがすごい」
「音がリアルすぎて、子供が外で遊んでいるのか、映画の中なのか区別がつかない」
「もし配信で見たとしたら、たぶん途中で見るのをやめると思う」
というようなものになる。
実際、レビューのいくつかを読んでも、「クソつまらない!」「いやいや、大傑作!」という評価の2極化が目立つ。でも、そんなに極端に構えてみる必要のない、叙事詩的映画で、いくつかの奇跡的な偶然がフィルムに収められている。もちろん、その奇跡は意図的に起きたものであって、監督であるキュアロンの執念だ。
たとえば子供たちを救いに海に入っていくクレオ(子供たちが本当に溺れているのだとしたら大変だ)
せまい車庫に大きな車を無理やりつっこむ。そのあいだ、クレオは黙って犬が逃げ出さないよう捕まえている。
出産に備えてベビーベッドを買いに行くクレオ。売り場で値引きの相談をしている時に学生のデモ隊と、地元警察との衝突が起き、銃声が鳴り響く。撃たれて逃げてきた市民を追って来た武装した学生は、クレオの元カレでおなかの赤ちゃんの父親である。なんとこの男、クレオに銃口を向け、彼女に気づき走り去っていく。
中庭の敷石に犬のふんがあり、きれいに磨いていると、水たまりに偶然飛行機が映り込む。(それにしてもひっきりなしに飛んでいる飛行機だ)
映像は基本的に長回しでで撮影され、失敗の許されない段取りを入念に打ち合わせて準備したと思われ、極度の緊張下に俳優たちは置かれたことになる。その緊張がたまらなくいい。しかし、主演のヤリッツア・アパリシオはどこまでも自然体で、緊張のかけらも感じさせない。悪く言えば、なにを考えているのか顔に一切出ない。その彼女から発せられる、衝撃の告白!「生まれて欲しくなかった」
300人のエキストラを複雑に動かして高い視点からひとつなぎに見下ろす。
日常の光景には、つねに子供やイヌが映り込んでいる。
海で遊んでいるシーンには太陽と、人間をひと呑みにする大波、波の中から頭を出す溺れている子供。(それもふたり!)
これらのシーンは、ちょっとしたミスで台無しになる要素があり過ぎる。それを長回しで撮ってしまうのだから、映像の迫力はかなりのものがある。
少なくとも、その時代に生きた一人の女性の人生を感じさせるのに十分な物語がこの映画に込められている。「面白くはない」「興味深い」これで十分ではないだろうか。
2019.3.18
70年代メキシコの夜ドラ
2021年5月8日
映画 #ROMAローマ (2018年)鑑賞
@Netflix
モノクロ映画ですがとても画像がキレイ。モノクロという色をつけたような感じがしました。
また、1970年代のメキシコの日常を描いた作品がここまで評価されるとは、さすが、#アルフォンソ・キュアロン 監督の力量には脱帽しました。
色がなくても生きている愛が鮮明に伝わってくる
全編モノクロで音楽もないので淡々と静かに進む印象だが、ドラマチックな展開をスマートに差し込んできてその世界に惹き込まれていく。情報が少ない分、役者の機微に注目できるという効果がある。演技未経験者を起用した狙いもあり、息遣いが自然な仕上がりとなっている。
流れていく日常の中にある、奇跡的でありときに残酷な命の尊さが描かれている。表裏一体である生と死を対比させることで、生きていること、生きていくことを改めて解像度を上げて考えさせられる。
彼氏や父親という男が悪のようにされている部分もあるが、それは子どもを産み育てる女性への畏敬の念の現れであると感じる。
そしてまた、決して血のつながりだけが家族ではない。
舞台はメキシコシティでタイトルの『ROMA』は何かと思っていたら、逆から読むと「AMOR」となりスペイン語で「愛すること」という意味。アルフォンソ・キュアロン監督が、故郷、家族、育ててくれた人への感謝を込めた映画だ。
Netflix製作で、ネット配信映画から初めてアカデミー賞が出たのが頷ける作品である。
メキシコについて知っていること
「ゼロ・グラビティ」以来のアルフォンソ・キュアロン。事前の知識はNetflix、東京国際映画祭、ヴェネツィア金獅子、アカデミー外国語映画賞だけ。予告編もみていなくて、3月からシアター公開されていたことにも気づかずにいた。Netflixの無料体験で見られるのだろうか、とボンヤリ考えていたほどだ。
同じシアターの同じ時刻に、ゴダールの「さらば、愛の言葉よ」がかかっていて、チケット窓口に並ぶ多くがそっちに行った。
こっちのほうが断然いい。そっちを見に行ってほとんど寝ていた私が保証する。
この作品の強度は、「牯嶺街少年殺人事件」に匹敵する。
学生のころ、モントリオールに滞在したとき、メキシコからの同世代と知り合った。みんなヒスパニックで、ネイティブ・アメリカンはいなかった。ビックリするほどのスパニッシュビューティーもいた。家にプールがあったりする、少なくとも中産階級以上だった。この作品の家庭みたいなんだろう。
それももう四半世紀以上も前だ。そのころの私のメキシコのイメージはルチャリブレ、マラドーナのW杯、そんなところだった。いまもたいして変わらない。当時のイメージも間違っていただろうし、いまはずいぶん変わっているだろうけれど。
ありきたりだけど、辛いことがあっても人は生きる。生きていく。飛行機...
ありきたりだけど、辛いことがあっても人は生きる。生きていく。飛行機に乗って今の自分の境遇を変えられなかったとしても。それは憧れでもなく、現実感の伴わないただの事象
決して救うことはできない距離感で我々は歴史を見つめている
徹底的なひきの構図、一定の距離で縦と横に移動するカメラワーク、白と黒の間のグラデーションの間で揺蕩う景色。
これを観ている我々が神の目線にいることを意識した造りである。
昨今は臨場感や主観性、共感性を観客に与えるために、そのようなことを意識させない造りが主である。
あたかも我々が映画の中にいるような作りとでも言おうか。
しかし、この映画は我々をその世界の中には入れてくれない。
あくまで外から、神や幽霊の目線から、この世界に生きる人々を眺め続けなければならない。
だからこそ、この不条理な世界の惨状に憤りを覚え、無力感に襲われる。
救いの手を差し伸べたい欲求に駆られる。
ベルリン天使の詩の天使のような気持ちにさせられるのだ。
しかしどうやったって地上に降りることのできない私たちは、この映画の結末を見守るしかない。
映画を通して我々が目撃するのは、
愛で傷つき、愛で救われる人々の普遍の在り方である。
そして終盤にかけて、この映画の徹底的な構図やカメラワークのこだわりこそが一種の伏線であったと気付かされたとき、その驚くべき映画の完成度に圧巻させられる。
そしてこれは、監督自身が「大切な誰かのために」、また「この時代だからこそ」作らなければならなかった映画だったことを知る。
バックグラウンドから構図、映像美、サブテキスト、など様々な難解さを自然と盛り込みながら、これほど愛に満たされ、人の感情を滑らかにさせる映画は稀有である。
50年前の世界を、よく再現しているとは思いました。
現代芸術の祭典、たとえば瀬戸内の直島とか、越後妻有トリエンナーレとか、金沢21世紀美術館とか、そういうところに行くと、決まってモノクロの映像が何カ所かで放映されています。
それらモノクロ映像は、制作者たち自身は独自のゲージュツを目指しているつもりだろうと思いますが、出来上がりを鑑賞する部外者の立場から見ると、典型性、類型性が観て取れます。
すなわち、
(1)あえて白黒の映像。
(2)ストーリーが皆無。
(3)BGMもないのが通例。
(4)現地のクリアな音や息吹、つまり空気感を丹念に流す。
こういう典型的・類型的な点が、現代芸術のアーティスト達の間での流行なのでしょう。
アルフォンソ・キュアロン監督のこの映画は、そういう最近流行の「感覚に訴えかける空気感の映画シリーズ」の潮流の上に乗る一本だと考えると腑に落ちます。
アカデミー賞を獲れたのも、選考する人たちがゲージュツ家の一群だからだと思います。
もちろん2時間もの間、「なんのストーリーもない感覚だけの映像」を見せられたのでは退屈で死んでしまうので、この映画には最低限のストーリーはあります。
しかし、ストーリーを楽しむ、つまり頭脳で理解することを求めるのではなく、感覚が人間内部にダイレクトに何かを賦活するのを愉しむ、そういう映画なのだと思います。
なので、THXなどの音響効果の良い映画館で観ることが絶対のお勧めです。
この点、映画とすれば面白い試みに見えたのかも知れませんが、現代芸術の潮流の中からは一歩も踏み出していない作品なので、まあ★4つかな、と。
普通の音響効果の映画館で観たなら、★3つかも。
家で貸しビデオで観たら、怒りのあまり★一つしか付けなかったかも知れませんが、それは鑑賞環境の問題で、これほど環境に左右される映画は珍しいかも知れません。
というわけで、50年前の世界を現代に再現してみせているこの映画、音響の整った映画館で、観て、聴いて、感じるなら、損はないと思います。
きめの細かいモノクロ
丁寧できめ細やかなモノクロ
時代を感じさせながら綺麗に見せる
あたしはひがみ心ながら
白人とメキシコ人の
これ程に頭蓋骨もプロポーションも肌艶も違うものか…と終始見せつけられた気はしてる
主従、貧富、肌色は映画につきものだが
でもクリオはとても気立ての良い子で
家族の一員のようにお屋敷にいられて
心が和らいだ
それがこの映画の良かった点
全167件中、1~20件目を表示